酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

1Q84

申し分なく、面白い。

本当に、見事なスト−リーテラーだ。ぐんぐん引き込まれてしまう、計算しつくされて構築された緊密なストーリー構成の快楽を堪能。(バイオレンスと性描写、比喩や表現法の臭み、近年とみにオヤジっぽくねちっこくなってきた表現はちょっと…これがハナについてしまったら辛いけど。)


…そして、胸が痛む。

暴力、不条理への、目の眩むような怒りと哀しみ、よきものへの願いを、そのすべての言葉の下に敷いている。

弱いものへの徹底したまなざしの繊細さ、敏感さ、共振の力。

DV、いじめ、大量虐殺。…ほんの少しの微小なデリカシーのなさからやってくる「一人」への精神への損なわれも、それが拡大された「大量」の残虐な国家的犯罪も実は同質にして同等なものだ。同じ人間の社会や心理の構造(少数派と多数派、強者と弱者の、二つの世界を生み出す、論理構造)からやってくるということを見抜く、透徹したまなざし。それらを、目に見える大きな問題も微小で見えにくいものとされている見えない問題も、正確に、同等に扱う手つき。それらを透かし見る感覚(知力、智力、或いは、人間性)に、ラディカルな救いの可能性と慰撫を、私は得る。涙が出そうだ。


…物語のスタイルは、二人の主人公、天吾と青豆、彼らの、一見まったく関連性のない世界が、交互に章立てされ語られるものである。

時間軸は1984年現在を進みながら、語られる過去の中に、次第に次第に、キーワードが重なり合って、響きあい、二人の接点が語られる。(その子供の頃の、一瞬の運命の絆の瞬間、純愛ぶりのあまりのうつくしさには驚愕する。)二つの世界が複合され絡み合いながら、開かれた有機的な未来を開いてゆく感覚。

この章立て構成は、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を彷彿とさせるものだが、暗示と警句にまみれた叙事詩的なアレよりも、これまでの春樹の作品をより複合的に統合したかたちに発展したものとして受け取ることができる。すなわち、学生運動や革命思想、新興宗教やDV等のさまざまの社会問題をとりこみ、たくさんの人々の世界観を盛り込みながら、よりなまなましく、また、より複合的で、より「オトナ」でより「汚れた強さ」を持つ。だがそして、それは異界性や観念性を否定することなく、さらなる高みとしてのまったく別の世界へとジャンプする(止揚)決意と力をもっている。この作品において、作者はその洗練されたスタイルを確立していっているような気がする。

スリリングな物語としての構築性はもちろんだが、とにかく、論理を作業として言語に移し変える、ゆっくりと確実に積み上げる、独特のリズム、不思議な構築感覚、一種のスピード感を感じさせる文章の快楽、その小気味よさは、秀逸である。

本稿はいくつかのモチーフについてのメモ的な試論である。


●文体/言語/物語

「1Q84」全体を通して、積み重ねてゆくような、リズミカルで、きわめて構築的で、論理的、端正で滑らかなその文体は、青豆と共謀する謎の「老婦人」の、冷静さを表現するような、(或いは冷静さをキープするための意識的な)まるで下手な外国語の翻訳のような、初級英会話教室の練習用スキットのような、非常に書き言葉的な「ぎこちなさ」や、読字障害を持つ「ふかえり」の、ワンセンテンスを連ねるだけの、どこか不自然な「言葉」の「ぎごちなさ」に、不思議と通ずるものがある。


「喉は渇いていますか?」
「いいえ、喉は渇いていません。」
「そこにアイスティーがあります。よければグラスに注いで飲んでください。」
「ありがとうございます。」


エッセンスのみを、まっすぐに。
そして、しかし、あらゆる贅肉をそぎ落とした骨組みだけのシンプルな会話と情景、愛想のない言葉のやり取り、その貧しさ、その限定された守備範囲を露呈すること自体そのものが、その外側の風景の無限と深遠、闇を暗示し、また同時に、そこから立ち現れる言葉、シニフィアンの持つシニフィエの、裸の姿、その構造と振幅を利用した「揺らぎ」の持つ豊かさを示すものであるという、両義性。


そこに重なって浮かび上がるのは、ギリヤーク人のエピソードである。
言葉に枷をはめるような行為。

あえて道路を通らない、ぬかるみを行く、読字障害のふかえりと、ギリヤーク人。
歩きやすい道をゆく者には見えないものを見、感じないものを感じる。

不自由さの枷をはめたとき、初めて見える、言語というメディアのかたち、その本質。その示すモノの、その起源と限界と可能性、その、外側、あるいは、アルケー。暗闇から明晰を、カオスからコスモスを汲み取るときの、その結節点。異界との、結節点。

ふかえりが暗闇側の「リトル・ピープル」の昼間世界での「パシヴァ」となり、「向こう側」から空気さなぎから己のドウタを授かったとき(或いはマザとドウタに分離(?)したとき)、或いは、日常言語を失ったのではないか、という仮説もあり得るのではないかと思う。さきがけのリーダーによって強姦されたといわれる少女たちも皆、言葉を失っている。

それは、現実、形而下的世界、老婦人と青豆の世界からの解釈で言えば、明らかに、暴力によって心身に激しい痛みと深い傷を受け、人間性を絶対的に損なわれた、そのショックによる障害である。だが、青豆がリーダーを殺害しようとするとき、同じ現象に、まったく別の解釈が存在し始める。

聖なるもの、或いは、異質なるものの介入。
日常言語(論理、合理性)の彼岸、そして、善悪の彼岸

この世の成り立ちの論理、言語的なるもの、そして倫理の、外側、「向こう側」。

…「リトル・ピープル」だ。

ここで、男性の欲望による強姦の論理は、突然、意味を失う。リーダーの身体は自由を失い、感覚を失い、操られ、ただ、リトル・ピープルの意思に支配されたレシヴァとして機能している。自らの子宮、生殖機能、そして言語を失った「巫女」となった少女たちも、しかり。

この、謎の存在、リトル・ピープルについては、様々な興味深い解釈がなされているようだ。永遠に自己のクローンを作り出しつづけること目的とする(「マザ」のクローン「ドウタ」をつくりだす、空気さなぎ。)利己的遺伝子のメタファであるとか、人類の集合的な無意識の総体、イドとしての人間の弱さの集積体であるとか。

…どちらも、魅力的な解釈であり、どちらも、ひとつのものとして矛盾なく成立しうるものだ、と私は思う。個人(キャリア)の世界のあらゆる論理、倫理を超えた、超ーエゴとして、本能的にして超越的なるもの。彼岸からの力。善悪や倫理にとらわれない純粋な意識や力として、リトル・ピープルが「森(迷路・混沌)」の中に存在し、闇や暴力がそこからやってくるという原理も、また同時に、必ずしも闇や暴力ではないものもまたそこからやってくることができるという原理も、そこに成り立つものであるからだ。

ふかえりは、向こう側を「知覚するもの」レシヴァとなり、それをこちら側、「言語」へと媒介する男性的なるもの、天吾「受け入れるもの」パシヴァと交わることによって、向こう側なる「リトル・ピープル」と「反・リトル・ピープル」のバランスを「動的に」完成させる。

天吾は、ふかえりの父、「さきがけ」のリーダーがそうであったような静的な「パシヴァ」ではない。リーダーは、ただ、「声を聞くもの」、その超常的な「神秘」の力をひとびとにもたらす、極めて受動的なかたち、ふたつの世界が硬直したかたちでの個人としては殺されるべき「王」としてあった。だが、天吾は、向こう側の世界と接しながらも、それを、個と集合のあわいに、ダイナミクスをもちつづける「言語」によって、違う世界の可能性へと限りなく彫琢してゆく技術(物語を編む)をもったパシヴァである。

その、「物語」「小説」「言語」の持つ力とは、また、そのまま、現実「1984年」が、天吾の書く物語「1Q84年」に侵食される幻想の構造をもつこの「1Q84」全体の構造とも関わってくるものでもあるのだ。

「物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりあたためてくれる。」

ひとつの固定された唯一の解答を持たないことによって、解釈は無数に、自在になりたち、「可能性」「未来」として、投げ出された、決して淀まず固定されない、ダイナミクスそのものとしての世界が、そこに示される。あるいは、それはまったく新しい世界への希望として。


●宗教/イデオローグ/鼠と猫

宗教法人「さきがけ」の教祖のような存在、リーダーに「あなたのそういうあり方自体が宗教だ。」と言わしめた青豆。それは、青豆の「非力で矮小な肉体と、翳りのない絶対的な愛ー」の主張による。

このことは、私に「羊をめぐる冒険」の、「鼠」のあり方、彼の科白を思い起こさせる。(この、「徹底した弱さ」を貫く「鼠」の「強さ」を示す科白が、私は、ものすごく、泣きたいほど、好きだ。)

「俺は、俺の弱さがすきなんだよ。(中略)…わからないよ。」

鼠の、「弱さの徹底」という「強さ」は、自分のその基準の「わからなさ」に行き着く。が、青豆に至って、「強さ」は、他者への「愛」に行き着くものとしてある。翳りのない、きっぱりと言い切る、その語り口。それは、確信や真理というよりは、決意、の趣に近い、ようにも思える。或いは、「決意による真理」。


…で、この「鼠」そして「猫」というモチーフである。

この作品の中で、後半部、頻出してくる。

タマルの語る思い出、孤児院での仲間(?)。ひたすら木材からネズミのかたちを掘り出す、サヴァン症候群と思われる孤児。(「彫刻刀を持って、一人でネズミを彫っていれば幸福そうだった。(中略)木の塊の中に閉じこめられていた架空のネズミを解放しつづけていたんだ。」「それ(ただひたすらネズミを彫り続ける人生の光景)は俺に何かを教えてくれる。あるいは教えようとしてれる。人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明がつかないが意味を持つ風景。俺たちはその「何かに」うまく説明をつけるために生きているという節がある。」)。

この彫刻は、「作業」として、以下のような、天吾の、言葉を彫琢する「作業」青豆の肉体を鍛え整える「儀式」と通じ合うものがある。


「一読して理解しにくい部分に説明を加え、文章の流れを見えやすくした。余計な部分や重複した表現は削り、言い足りないところを補った。ところどころで文章や文節の順番を入れ替える。(中略)書き直しの結果、原稿量はおおよそ二倍半に膨らんだ。書きすぎているところよりは、書き足りないところの方が遥かに多いから、筋道立てて書き直せば、全体量はどうしても増える。(中略)次に行うのは、その膨らんだ原稿から「なくてもいいところ」を省く作業だ。余分な贅肉を片端からふるい落としていく。削る作業は付け加える作業よりはずっと簡単だ。その作業で文章量はおおよそ七割まで減った。一種の頭脳ゲームだ。増やせるだけ増やすための時間帯が設定され、その次に削れるだけ削るための時間帯が設定される。そのような作業を交互に執拗に続けているうちに、振幅はだんだん小さくなり、文章量は自然に落ち着くべきところに落ち着く。これ以上増やせないし、これ以上は削れないという地点に到達する。エゴが削り取られ、余分な修飾が振い落とされ、見え透いた論理が奥の部屋に引き下がる。天吾はそういう作業が得意だった。生まれながらの技術者なのだ。」

「肉体こそが人間にとっての神殿であり、たとえそこに何を祀るにせよ、それは少しでも強靭であり、美しく清潔であるべきだというのが青豆のゆらぎない信念だった。」

「青豆は地図の道筋を辿るように、老婦人の筋肉をひとつひとつ指先で確かめていった。それぞれの筋肉の張り具合や、硬さや、反発の度合いを、青豆は細かく記憶していった。ピアニストが長い曲を暗譜してしまうのと同じだ。こと身体に関しては、そういう綿密な記憶力が青豆には具わっている。」


…小気味よい、この作業の麻薬的な能率性。(こういうところが、娯楽性のツボ。読んでいて、非常に快いのだ。)

青豆の「神殿としての肉体」を鍛え上げる行為と、天吾の「作業としての執筆」は、その「器」に「何を祀るか」という問題、その中心の「空虚」を恐れながらもがき続けながらも与えられた神殿を磨き続ける、その技術性の問題として、ネズミのかたちをひたすら彫り続ける孤児の姿と重なり合うものだ。

混沌と自然の中に内包され、個人としての己の眼に見えてくる、「あるべき」ネズミのかたち、何か形而上的なるものを、探り出し、形而下に、あるべきうつくしい姿に掘り出す作業という個的にして与えられているものである「創作/ミメーシス」。それは、モト文化人類学者、ふかえりの後見人の語る学問の姿に重なってくる。

彼の語る、文化人類学の目的のひとつは「人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとっての普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすることだ。そうすることによって、人は自立しつつ何かに属するというポジションを獲得できるかもしれない。」というものだった。

個別と普遍。イデアとミメーシス。利己的遺伝子とキャリアーとしての個人。リトルピープル的なるものと日常現実的なるもの。これらすべてが、この構造の下に集約されている、と言ってもよい。

そして、それが歪んだとき。「多数派」に盲目的に組する「ゆがみ」によって発生する、「少数派」への、無神経な暴力が始まり、また、そこから発生する、意識と歴史の書き換えが発生する。

この暴力のイメージを端的に表わすのが、ネズミと猫のメタファだ。
タマルの語る、菜食主義の猫に殺される鼠のエピソード、そして、天吾が父に会いに行く電車の中で読んだ小説、「猫の街」で永遠に失われる人間存在のエピソード。そこには、加害者、暴力、損なわせるものとしての力としての猫と、損なわれる弱き人間としての鼠のメタファがある。

DVレヴェルの問題系でのその暴力、ゆがみの発露は、青豆の友人、あゆみの次の言葉に端的に説明されているものだ。

10歳のとき、兄と叔父から性的な暴力を受けたあゆみはこう語る。
「あいつらはね、忘れることができる。」とあゆみは言った。「でもこっちは忘れない。」
「もちろん」と青豆は言った。
「歴史上の大量虐殺と同じだよ。」
「大量虐殺?」
「やった方はね、適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れられない。目を背けてられない。記憶は親から子へと受け継がれる。世間というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ。」
「たしかに。」と青豆は言った。それから軽く顔をしかめた。ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘い?



●終章


空気さなぎという媒介を通し、「向こう側」から、天吾はうつくしい十歳の少女としての青豆を受け取る。過去を背負った己の存在の深奥に、利己的遺伝子のクローン、己の陰、或いは空虚ではなく、他者、愛、可能性という価値を見出す。世界がいかなるものであろうと、己の存在を、未来への希望と決意で満たす。…謎のままが多く、青豆が自殺してしまったのか、気になって気になって仕方がないのだけど。

…でも、たとえ、ここに続編がなくってもね、その投げ出されかたは、読後感として、何というか、とても、潔く、快く、うつくしい、
…ものであるように、思ったんである。

裸よりはいいかな、と思って、夏向けにiPhone君首飾りを拵えた。