雑貨屋
いだてんは続く。
いだてん。ちいとためてた分を今日、たった今、先週分を観終えた。第二部終了。
戦争が終わった。
…森山未來さん、ものすごいな。
イラついてて何にも心にしみ込まなかったけどロキソニンと麦酒とこのひとの演技だけは沁みこんだ。
このひとがいたから他のすべてがすべての人々の演技に生命が吹きこまれすべてがそれぞれの素晴らしさを会得している、ような気がした。
「画竜点睛」のその瞳。
私の今日が救われたような気がする。
もちろん毎度感服する、素晴らしいのは脚本、演出だ。
宮藤官九郎。個人的にはあまちゃんは全然面白いとは思えなかった、女優さんが苦手だったりしてあんまり評価はできない、周りの人のように感動はできなかったけど、確かに面白いしすごく巧みな人だとは思っていた。
いだてんで目からウロコ。
本当にすごい。
才能だけではない。
が、やっぱり才能なんだ。
それは、万人の心のために、世界のためにある誠意のことだ。
そのことを知っているということ、そのための才能だ。
或いはそれを楽しむという才能。
揺り動かされる。
その周りの人々が皆生き生きとそれぞれの才能を引き出されているという統合芸術のその場の持つ高揚を感ずる。
素晴らしい。
名も知れぬ誰かの人生がきっとここで人知れず救われている。戦争の理不尽への激しい思いが、このような、なんといえばよいのだろう。この表現を得ているというこのかたちのことを。今うまく言えない、観たばかりでうずまいている。
そこに在った異常な日常のことを感じさせくれる。理不尽を、それを越えようとする人間の生命を、叩き潰す力のことを。たくさんのひとびとの割り切れないさまざまの思いを。その多様と矛盾の中に精一杯生きる力の表現を。
万感の思いをこめた「万歳」が響く。軍靴の響きと踏みにじられる命とすべてを日常を生きる力の中に笑いとばそうとする力と。笑うことでしか生き抜く力が得られなかったその「場」のことを。すべてがなまなましい力をもって投げつけられてくる。視聴者に。
そしてそれはイマココに在る異様な理不尽を持つ日常のことを当時をかぶせ同じこのようなかたちで訴える力でもある。以前も述べたがこのひとのドラマはイマココの現実に襲いかかってくる仕掛けを持った構造を持っているのが特徴なんだと私は考えている。時空と語りの多重構造の意味。
…だからさ、でもさ、思ったことはさ、とりあえずとにかくさ、みんなとりあえず生まれたからには今日と明日を生きるんだよ。とりあえず。唐突なようだが。
なんかね、女子高生コンクリ殺人のあの被害者の女子高生がさ、犯人グループのひとりにさ、楽しみにしてた連続ドラマのビデオ見せてもらったとかいう奇妙なエピソードのこと思い出してるんだよ、自分。その極限状態の中にあった日常のことを考えている。
両親に虐待され幼い命を奪われた小さな人たちのことを、いじめられて自殺したすべての子供たちのその日々のことを、ブラック企業で殺されるそのひとたちのその最後の日々のことを、その怒りと悲しみと憎しみとやるせなさと最後の果てしない寂しさのことを、そうして自分の今のことを考えている。
その最後の寂しさを、何もかも耐えられないレヴェルになり、その憎しみすら麻痺してしまうほどの誰かへの憎しみを、誰かではなく何かへ、理不尽への怒りは理不尽そのものへ、正義へ逃げず、偏在する理不尽へ、正確に。自分の中にあるもの、誰の中にもあるもの、自分だけにでもなく個人にでもなく、不正確な自己犠牲の美談でもなく。
でも、だからこそ誰もがまず守るべきは自分。
今日と明日。
楽しく笑って大切にすべてを赦し愛するために。
「生まれたからには生きるのよ。」
(これは、ますむらひろしのアタゴオルのヒデヨシのセリフだと思ってたけど、どうも漱石の小説がモトネタらしい。今度確認せねばならん。)
(とりあえず麦酒でべろべろですぜベイビー。ミョーなこと書いてたら明日これは削除しよ。でもとっとこうかな、とりあえず、とりあえず。)
嵐の後
日曜の朝。
台風一過の青空が私はほんとうに好きである。何もかも新しく生まれ変わったような懐かしいような不可思議な非日常の幸福感。
三連休初日、荒れ狂う嵐の夜は実家にいた。
近隣の町々の川が次々と危険水域に及んでゆく。決壊。スマートフォンの緊急警報と停電の恐れと吹き荒れる風雨の音に脅かされる長い夜。
閉じ込められてニュース見てても怖いばっかりである。しまいにはニュースを見るのはぱきっとやめ緊急警報切ってひたすらに麦酒を浴びバッハを聴きながら岡野玲子なんか読み、そして今ハマっているドクター・フーの続きなぞ観ようとしたとこで寝落ちした。(ドクター・フーは精神がすさんだり平常心を失いそうな恐怖や寂しさに襲われたりしたときの現実逃避に最適である。タイムマシンで時空を自在に駆け回る謎のドクター。毎回人類絶滅の危機が襲ってくるという憂世の憂さを忘れるキッチュにして壮大なスケール。このノスタルジアあふれる素晴らしいファンタスティック昭和SF感。プラスチック星人がマネキン人形を操って現代を襲い、60億年後の地球の最後に立ち会ったかと思うと過去に飛んで幽体のガス状異星人から人類を救い、近未来に飛んだら宇宙人マフィアが襲いかかってくる。…GOTにもかなりハマったが、本当はこういう方、心は優しくノリはよくドライの洒脱に仕掛けられたウェット、頭はあんまり使わないひたすらお約束ハッピーエンド物語、わくわくエンタテイメントの方が性に合うんだな基本的に。ドロドロときたないかなしいむずかしいことはもう十分だからいっこも要らない。)
そして久しぶりに長く濃くなまなましい夢を見ていたような気がする。
長い長い夢、奇妙に当てのない不思議な夢。
旅の宿。寮のような部屋、微妙な仲のルームメイト数人。夢の中で眠り夢を見る。暗い嵐の夜の夢。目覚めるとひとり部屋に残されている。皆布団をたたんで朝食を摂りに行ったのだ。取り残され、寝床からただぼんやりと眩い青空の窓を眺めている。…目覚めても目覚めてもその部屋の朝に戻ってくる。くりかえしくりかえし、再生の朝を望む夢を見続けるその夢。
幾度でもやり直す。
そして本当に目覚めたら、本当にこの台風一過で生き延びた感のある青空であったのだ。
ベランダでぽかんとまばゆい朝陽を浴びて、ちからづよく五感に沁みるように光と影が濃く秋を彩っているのを感じ、そうして両親とたわいない会話をして無事に日曜日の朝が来たことを思って、
…どうしてか私は突然幸福になった。
非常に不思議に思った。どうしてだろう。生きてさえいればこういう瞬間があるということを思い、生きねばと思ったりしていた。どうしてなのか知りたい。人間が何の理由もなく幸福になれる瞬間のその原理を。物語なのだろうか、それを超えているのだろうか、その辺りを。理由のない理由はどこにあるのだろう…恩寵、という言葉しか思い浮かばないのだけれど。
たくさんの人たちが犠牲になりパニックがあり決定的に人生が損なわれたのにただ偶然で生き残り昨日までの日常を奇跡のようにその薄氷の上を歩いているんだよ。
まあね、どうでもいいんだ。
今日があることをただ受け止める。できることをできるだけ。
それだけ。
幸福に過ごすためだけに生まれたのだから。
梨木果歩「ヤービの深い秋」
待ってました出ましたな、の「岸辺のヤービ」続編。
相変わらずムーミン谷である。
でもなあ、こないだの「椿宿の辺りに」で感じてしまった「あれっ、かわされた。」という物足りないような感覚をここでも少々感じてしまった。(岸辺のヤービ、椿宿の辺りに、は双方レビュ記事上げております。リンク参照。)
彼女の作品の、以前ほどの、わからなさや混沌の深淵から突き上げるような重量感のある思念、世界の持つ主体と客体の渾然としたところにある躍動する論理としての神話的ポエジイ、のようなものが幾分色褪せ力を失い、表面的にきれいに整合されたインデックス、既成の物語枠に落とし込んでゆく物語としての出木杉君なばかりのまとまりのよさ。
…いやこれぞ小説家としての老練、これぞプロって意見もあるだろうけどな。
文部省推薦課題図書現代の問題意識良識派の叫び、良心、正論のキレイゴトの部分、だけ。徹底的に問い直されないレヴェルでの半調理の倫理、道徳。(この「半調理」ってとこがミソである。以前の作品にはもっともっと原料のところからかき回す「わからなさ」の領域を尊重した慎みと深淵が感じられた。希望やうつくしさの結論に向かおうとする方向性は全く同じだとしても。)
言ってしまえば、「理屈っぽい」「説教臭い」。あちこちに仕掛けられているメッセージにはちいとそういう反射的反発を呼びかねない臭みの危険の方向性を感じる。個人的にはぎりぎりかな。
…とはいえ。
とはいえ、である。
とりあえず私は今回この本に救われることができた。その正論の描くお花畑のうつくしさ、その切ない祈りの風景に、その生命たち、こどもたちの世界の優しい関係性を孕んだ風景に。
選び抜かれた上等の言葉というのは、(特に児童文学においてこの要素は大変重要であると私は考える。魂の下地を拵える、その風景を描き出す時期に選ぶべき良書について。)舌を射すような刺激や化学調味料のごってりと濃い味、強烈な色彩や激越な甘さへの表面的な陶酔の快楽を目指した言葉ではなく、濃やかな濃やかな、小さな声を拾いながら、しんしんと読む者の心の奥に沁みわたりその種となり、やがてゆっくりと魂にそのオリジナルな世界の豊穣の風景を作り出す細心の注意を払ったやわらかな優しさで選ばれて綴られる。
たくさんの大人や子供たちが、同じようにこの本によって救われる、ということを私は確信している。まあ前作の方が視点としてスリリングな要素が仕掛けられていたとは思うけど。これから続編乞うご期待、ってとこかなあ。広げた風呂敷をいかに展開していくか。
…とにかくね、あれこれの分析はあとだ。とりあえず「波長を合わせる」「味わう」、創造的読者としての解放された己を生み出すことだ。その風景に包まれその「おいしさ」の恩恵を浴び祝福され愛し憧れ疎外され哀しみ…共犯関係にハマることだ。分析はその上で行われる。尊敬と愛がなければ批評はできない。
何しろ作品クライマックス、マジックマッシュルームの森での、それぞれの冒険をかかえた人々の精神の幻想フィールドが自然とまじりあい溶けあい顕現する領域の設定と描写が素晴らしい。これぞ梨木果歩本領発揮の幻想シーン。
…それぞれの人々がともに旅立つそれぞれの物理的な森への冒険は、母が自分が生まれたせいで昏睡状態になっていると苦しむギンドロや、虚言癖をもつ、母に愛されていない悲しみを抱えた虐待のトリカ、これらこどもらの心の奥にしまいこまれた存在の原罪の感覚に近いところにある深い寂しみ、痛みの巣くう元凶への精神の遡行の旅をする道行である。すべては混とんとして重なってゆく。(梨木果歩一流のこの物語構造が私は大好きだ。)人間界とヤービたちの世界の冒険をもまたクロスする場所、禁断の森の深奥、クライマックスの「ユメミキノコ」の胞子の飛び交うその魂の深奥。
そこにたどり着き、それぞれの子供たちの隠された痛みを治癒し未来へのステップを見出す旅となるその渦巻構造の中心。この作品に於いてここは論理として「きれいににごりなくまとまりすぎている」とは思うのだけどね。…わかりやすすぎる。
で、とにかくこの作品中の緻密で丁寧な風景の描写はいちいち素晴らしいんだが、就中あいかわらずおいしそうな食べ物の描写の素晴らしさは白眉である。ヤービたちの木の実の粉や蜂蜜やミルクでこさえたパムポンケーキや、ウタドリさんたちの寮の上等のカカオの「おとなの味」チョコレートケーキやピクニックのごちそうのリアルさ。これはすべての人に読んで楽しんでほしいとこ。
イラストも実にぴったりで深い色彩が美しく可愛らしい。
秋の朝考えること 夢見るメディア空間
朝起きたら静寂の空にうつくしいももいろの光がいっぱいの朝焼けだった。ひんやりさらさらと肌を撫でる秋の風。
静かな早朝、この世界はすべて私ひとりのものである。
だから私は今日私に与えられた恩寵であるこの一日を精一杯幸せに過ごそうと思う。
…でだな、朝のゴミ捨てに行きながら考えたんだけどな、週末お散歩したときの風景を思い出したりしてだな、そんときの楽しげなファミリーや幸せな人の表情、お洒落な女性なんか思い出しててだな、さまざまの物語抱えて歩いてる人たちの流れる風景を思い出しててだな、そういう人々が総合して作り上げてるナニカが街の風景を単純に幸福にしてるんだなあとか、そんな物語世界に参加してなんらかのかたちの役割演技するとかそんな風にきれいなふうの風景に参加したいとかお洒落とか美とかはそういうものだよなあとか、実に観客であり役者である微妙な狭間のところに自分も参加してみたいものようとかしみじみ考えてだな、街で見かけた美麗なるワンピースのことか考えてだな、欲しいなとか考えてだな、でもそれってどうせ着ることないしそれって実は考えるだけでシアワセってことなんだよなあとか考えてだな、でも実際ブツがないとって思っちゃうんだよなとか考えてだな、イヤなんかそれって積んどく本とかあれもこれもいろんななんでもできる最新の電話やiPadとか夢のように美しく思い通りに映るすっごくいいカメラとか欲しいなあってのもみんな一緒だなとか思ってさ…だからさ、本でも洋服でもレコードでもフィギュアでも、収集趣味ってのはおんなじだな、アレだな、夢を買うことに、集めることに意味があるんだな。モノを所有することってのは活用すること自体ではなく。つまり本を読むこと自体よりもファッションを外界に披露すること自体よりもそれの可能性を夢見ること自体に。なんてとこに思い至った。夢見るメディア空間。
音楽聴いて陶酔するよりその手前のメディア、ステレオスピーカーのスペック批評が大切なマニアとか一冊の本の中に入り込むより図書館空間の中であらゆるその可能性の扉のメディア空間のなかにたゆたっている万能感が好きな図書館マニアとか100枚のドレスを並べて夜ひとりの部屋でうっとり眺めて夢見るファッションマニアとか。アニメのレアフィギュアだのプラモデルだの並べてるのと一緒だ。
思考は秋空に流れさまざまに展開する。
私は考える。考えることが幸福そのものだからだ。考えられないとき信じられないほど不幸になる。論理がないところ論理が通らないところで私は混乱し錯乱する。(大抵そうだったりするんだけど。)
だって世界はテクストであり、読み取られ夢見られなければそこは虚無だ。
そして我々が言語を、ロゴスを、光を得たことで得たもの。そして失ったもの、という構図を連想する。しかしこの構図を描く論理はここではただ小賢しくイージーだ。何故ならば最初から得なければ失うことすらできない。陰すらない。虚無だ。したがって得るものしかないからだ。失ったものさえ得るものなのだ。
従って対象の本質などない。
…しかし存在は主体の恣意のみからなるわけではない。
プラシーボとノシーボという対立項をもつ命題がある。
これに関連し、ホンモノおいしいもの、高級ブランドと安物をブラインドで当てさせるバラエティ番組なんかの実験を思い出す。この「真実」を想定したゲームにはいらいらする。(だから自分では観ないんだけど。)(バラエティ番組自体ダメ。)
対象の、モノの味わいは一生懸命そのおいしさに己の感覚を「合わせる」ところから生まれる。これは真実だ。すべては主体と客体の関係性なのだ。思い込みは真実なのだ。否定してかかるところにその真理は存在できない。
だがその果てには究極の絶対音感や天才としての客観真理としての究極のソムリエとして君臨する人間の存在があるというのもまた真理である。まあそれは「おいしい、まずい」の主体の嗜好という相対性に関わってくるんでまた違う問題にはなってくるが。
TVの笑いのネタっていうのに大抵私は賛同しない。イージーに最高のエッセンスを得ようとし過ぎているポピュリズム。立派なんだけど立派過ぎる。インスタントすぎる。
…物理学者や科学者、天文学者ら自然科学系のひとたちが見出す、決定的な「人類の星の時間」の発見は、ちいさなちいさなその「証拠」「証明」は一生懸命その存在を信じ思い込む要素がないと探し出せないレヴェルのところにあるものが多いという。
真理は思い込みがなければ存在しないが、発見されたとき既にその恣意的な思い込みを超越したところにある。虚無としてある。天才と呼ばれるひとはそこに近いところにいる。あくまでも「近い」ところ。完全な直線がないように完全なイデアはない。名作とそうでない文学の、その違い。その境界はあるのかないのかわからないが確かに違いはある。大人と子供の境界のように。
何もかもが、ある程度真実、なのだ。
読み取られる世界と読み取る主体の相対性の、その関係性のなかにのみ世界存在は仮定される。
これはもしかして人間が個であり個でない、という問題に関わってくるかもしれない。
主体と世界が不可分である問題と。
それは自己幻想ー対幻想ー共同幻想の思想的構造と関わっている。つまり読み解くとっかかりはここにある。共同幻想がつまり真理を作り出すことができる、というようなところに。共同幻想そのものを問い直し新たな論理に適用してゆく可能性でもそれはあると思う。社会や人間を超えたところにその守備範囲を広げたフィールドの可能性へ。
うるうると美しい秋が来て和栗のモンブランがどんどん出てきてものすごく無花果がおいしい貴重な旬になったりしたので私は今朝いろんな思考がとりとめもなく私とこのうつくしい朝の空に流れてゆくのをみたのだ。
わすれないように流れてゆくかんがえをこうやってつづる。心象スケッチモディファイド、のように。
そうそう、「昇華」についてもつらつら考えていたんだけどもな。これってものすごい概念なんだよな、「止揚」なんかとおんなじくらいぶっとんだ飛躍と革命、そんな感動を孕んでいる。いちいち感動しながら使わねばならぬいちいち考えながらいちいち震えながら。
レーゾンデートル
毎年、9月の声を聞くと自分の中で解禁される歌がある。
「9月の海はクラゲの海。」
これを聴いていて、原点ということについて思った。
高校の頃の風景、この歌を、このバンドを教えてくれた人達との出会いのシーンのさまざまを思い出した。この歌を聞いてきたとき思い描いた風景と、その時の自分と自分を含んでいた世界のまるごとのことを。
校庭の夕暮れ、その光の色、風の匂い、自転車置き場と駄菓子屋のアイス、語り合った夢や小さな恋やなやみごと。夏の光、秋のかげ。
過去も未来も現実も夢もそこにある。過去にみられた未来の夢は永遠に無限の可能性をもったまま損なわれることのない、完結した世界。一旦存在した現実や見られた夢はすべて存在した、それだけのものであり、そしてそのリアルは決して損なわれることはない。
…存在という概念のことを考える。
世界は、所与のものなのか?それとも、意志によって、自覚によって存在するのか?
どちらでもある。
けれどそのどちらか、ではない。
意志によって存在意志によって存在をあるべくあらしめるものとしてある。
(「羊をめぐる冒険」の「鼠」の信じる世界の存在の形のことを、彼のあの徹底した弱さと強さのことを考える。「俺は、俺の弱さがすきなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。」)
「どうしようもなく好きなんだ。」
それはそのとき超越として存在するレーゾンデートルである。唯心でもなく唯物でもなくそのどちらからのアプローチによってもアクセス可能なチートな存在のかたち。存在を始めたときそこには既に事実としての歴史がある。(ここには論理的には飛躍がある。それは意志や祈りと呼ばれる主体という力の介在を意味する。)
賢治の解釈した法華経的世界観による存在論はこのようなものではないか。「存在が始まったときそこには既に歴史がある。」感覚。あるいはそれは西田の語る「永遠の現在」に通ずる世界のかたちでもある。そして一旦存在したものは決してその存在自体を否定されることはできない。(これじゃナウシカだな。)
…そのような私の存在証明であり存在理由であるところのものを確かめる。
そうだ、そのために私はこれを聴いているのだ。
*** ***
古式ゆかしくカセットテープを誕生日に贈られた。ものすごい思い入れのたっぷりつまった癖字が便箋にぎっしり書き込まれたレビューがそのまま長い手紙になって入っていた。これがムーンライダーズとの出会いである。
これらの歌に包まれた私の人生の基本があそこにある。その手紙を書いたひとがもうこの世にいないということが私にはよく理解できないし、これからも理解することはないと思う。それは、大切な人であったとか恋人であったとかそういうことでは全然なくて、単純に、誰一人あの風景の中のものは欠けてはいけないのだ、あのとき存在していたものが既にないということがすべて私には永遠に理解できないということだ。
個としての、あるいはそれ以前に繋がるものとしてのもっともっと深淵な人生の原風景的なるものとしてはもちろんもっともっと深いもの、もっともっと前の混沌のところにあるのだけど。
だけど。
喪失のことや存在のことやうつくしさのことや楽しさのことやさまざまを概念から感情の原型を育てた人生のエッセンスを学習していたアドレッセンスがあの風景の中にある。あの時触れたすべてのモノに人に風景に宿っている。歌は歌われるたびに本は読まれるたびに、一生「現在」する。例えばそれはアボリジニたちの言う「ドリーム・タイム」のひらく神話的空間のように「イマココに存在」し、「イマココ」を支えかたちづくる力となることができる。
「物語」。
(因みに元旦には「マニアマニエラ」や「青空百景」を聴くことにしている。「トンピクレンっ子」と「物は壊れる人は死ぬ三つ数えて目をつぶれ」がミッション。あれでやっと私の心は元旦を迎えることができる。)