酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

(例えば)海の水雲と海の藻屑

私の母世代のご婦人というのは、(私の母をはじめとして、)得てしてあまり言葉にこだわらない人種が多い、ような気がしてならない。

単に私の周りの環境なんだろうけど。

物の名前にこだわらないというか通じることだけが大切で外側は些末なことであるというか。くだらないことだと思われているというか。

流行語や略語なんかも私なんかよりずっとよく知っていて非常によく使いこなすがその周辺や内実についての拘りがみじんも感じられない。まさにシニフィエに対しまったく透明な立場としてのシニフィアンのその恣意の前提の上に構築された世界にあでやかに生きておられる生活の確かさの不思議をしみじみと感じさせてくれる。

大学時代「言い間違いの科学」というような内容の言語学的な講義を受けたことがある。非常に興味深かった。言語の意味を人間のその言語中枢がどのように処理しているのかを、言い間違いの法則性を見出しカテゴライズしていくことによって分析してゆく講義。意味分野によるイメージのカテゴライズと音韻によるカテゴライズとか。細かいこと忘れちゃったけど。

「ドラッグストアでちょっと買い物して帰りたいのよ、このへんあったわよね、マツキヨとか。」「あそこまで行かなくても、駅の近くにできてるじゃない、ウエルカムとかココナツファインとか。」「そうね、あったわね、たしかウエルカム。」

こういうのって突っ込みたくて仕方ないんだがそれって野暮なんだろな。ウエルシアとココカラファインだよ…。

最近自分もいろいろどうでもよくなってきて人のこと言えないけどな。誤字脱字間違い物忘れ不注意すっころぶぶちまける。悲しいが仕方ない。もうなにもかも仕方がないのだ。

今日はきっぱりと雄々しく潔い梅雨入り。
紫陽花ばかりが慰め。

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上橋菜穂子「鹿の王」続編「水底の橋」

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読了。

で。

 

…うむ。

とりあえず、本編ほどのものすごさではないけどさすがに期待は裏切られなかった。流行りの医療ドラマのようなんだけど、なんというか、上質な韓国ドラマのような人間ドラマの織り成すこみいった精緻な物語構成上の感情を揺さぶるおもしろさと、知の快楽、真摯に現代の問題に向かい合おうとする社会への思想的アンガージュマン、知的アプローチへの行動を促すその快楽、双方を併せ持つ統合エンタテイメントなんである。(新刊帯の推薦コメント、メンバーがすごい。仲間作家とは別ジャンルの、萩尾望都養老孟司、そしてこのブログでも西田哲学の本のところで触れた生物学者福岡伸一この日の記事ね。)も「人は何故病むのか。そしていのちとは何か。人類最大の謎が解き明かされる。」とかなんとかいうものすごいコメントを寄せている。)

「なによりも大切にせねばならぬ人の命。
その命を守る治療ができぬよう、
政治という手が私を縛るのであれば、
私は政治と戦わねばなりません。」

医療行為によって人を助けたい、命を、魂を救いたい、その信念をもって心身の医療に当たる、しかしその信条の違いからくる団体同士の敵対。国家権力の絡んだその勢力闘争と純粋な個人の思いや理論が錯綜して物語を動かしてゆく。それぞれの正義と正義、その正義が互いに己の思想の正義を掲げながら議論を戦わせるシーンの知の快楽は、浅薄な物語の表層をなぞるありふれた凡百のTVドラマ的な正邪二者択一的なるものにとどまらず、あたかもカミュの「異邦人」を読んだときの神父やムルソーの議論を読んだときの知的な刺激にも似た深いところに繋がってゆく、次々と深められてゆく興奮を呼び起こす。そしてそれはイマココ、この現代社会への問題に対して知性の目を開くその意識に直結する。

*** ***

ざっくり色分けすると、主人公ホッサルの属するオタワルの医療は近代西洋医学の物質としての身体を扱うクリアな科学としての医学概念に重なり、それに一見敵対して見える、そしてホッサルにとってまどろっこしい無駄や迷妄や不合理に満ちているように見えていた古来の心身や個を超えた世界とのつながりも含めた哲学的な医学に繋がるのが、宗教的概念に深く結びついた、自然への畏敬に満ちたままの「清心教医術」である。いわゆる東洋的漢方医療の方に近い哲学、世界観、思想と一体化したかたちでの医学という考え方。これの対決が現場の人間ドラマと政治的問題や国家的陰謀と絡みついて物語は大層ダイナミックでおもしろい人間ドラマ、推理サスペンスドラマを展開してゆくんである。

 *** ***

いや~まずね、このひとの文章の魅力なんだけど、実に相変わらず細部にわたって事物の描写が濃やかで風景が艶やかに官能を刺激するんである。例えば何しろ丁寧に描かれる食べ物がいちいちおいしそうである。食べたくなる、登場人物とともにその感覚を共有したくなる丁寧に味わいたくなるその心のこもった世界に対する感謝と存在の喜び(そして苦しみ)の実感、それへの愛情に満ちたまなざし。そうして、その描写というリアルな体感に裏付けられた確かな基礎構造から繰り広げられて構築されてゆく観念的世界、骨太な物語、緻密且つ壮大で思想性と躍動感すべてに富んだ物語構造には舌を巻く。実に今までひとつもハズレがないと言っても過言ではない作品群、すべてシリーズの大河小説になっても不思議のない精緻な世界観、ものすごい壮大な物語の面白さなんである。

 *** ***

ここで考えたことを書きとめておきたい、という思いは熱いうちにやらねばならない。が、いかんせん図書館の本、締め切り前に慌てて読んで返してしまったので、思いはそのまま冷えてしまう。

なんでもそうだけど、書き留めなければなかったことになってしまうっていう感じは確かにあるんだなあ。永遠に失われてしまうということもある。日記を書く、モノを書く、という行為にその日を生きた証、確かに存在した証という意味がある、という命題はひとつの真理ではある。ひとつの。

(それはもちろん間違いでもあるのだけど)
(有と無の関係性については哲学も物理学も同じように悩んでいるのではないかねいとなんとなく思っている。どちらもとても透き通った考え方をする。シンプルを基本に純粋に考えるのだ。)

でも考えた、というこのことだけはとっかかりを残しておきたい。という意味での、だからこれはメモでなんであるよ。

 

…でね。

私はこのひとの作品は本当にすごいと思っている。デビュー当時から新刊出るたびに飛びついて読んでいた既に追っかけの類のファンである。

だが読むたびに。
そう、読了、パタンと本を閉じて顔を上げる。そして感動のタメイキをついて現実に戻ってこられない夢うつつの状態の己の中で、しかしいつも高らかに心のどこかから声が聞こえるのだ。「これは文学ではない。」

何故だろう。

そしてでは私にとってその「文学」とは何なのか?
考えていたんだけど、さっきちょっと千早茜を読んでいてとっかかりを思いついた。

どうして漱石や賢治や春樹や川上弘美を私は文学だと思うのか。(すいませんね日本文学専攻なもんでとりあえず視野が日本文学なんですが。)(もちろんあらゆる文芸には、どんなものにだって「文学性」は含まれているんだけど、それはまあ前提として。)(これはそしてもちろん個人としての嗜好、文学に対する「思い」という意味であり、「哲学とは何か」「世界とは何か」「真理とは何か」という命題と同様、そのあいまいな対象の永遠の謎に対する思索に留まるものであって、決して定義される汎用性に関して主張されるものではない。敢えて言えばそれはその真理をなぞる円環運動の中で中空の虚空としての虚無こそが真理という概念であるとして意義を発見し主張しようとするものである。考え続けることそのものに意味があるという主張である。)

キイ・ワードは「わからなさ」なのだ。
クリアにオチをつけられない、「わからなさ」の森を読者の心に棘のように刺したままでおく力を持つ作品。

…ということで、これはまあほとんどライフワークなので今日はここまでで力尽きておく。

 *** ***

とりあえずね、この希望の光に満ちた終わり方は読み終わって暖かい気持ちになる。読後感がいい。エンタテイメント映画や物語は実にハッピーエンドに限るのだ。うむ。世界よおめでたい花畑であれ。

吉田篤弘「月とコーヒー」をちまちまと読んでいるんだが。

吉田篤弘、もちろん悪くないんだけど、なんだろうな。
 
いまぺろっと比べるの無意味かもしれないけど、引き換えくらべて考えてしまうのだ。短編の情趣のタイプ分けというか違いというか個性というか。
 
つまり、川上弘美の卓越。彼女の作品は、言葉は、短編でもナンセンスでも、ううむ、なんというかいきなりどかんと違うのだ、ツボなのだ。川上弘美。ものすごい切ないのだ。笑いすらも切ない。淡々とした世界の不条理もナンセンスも残酷さも冷淡さも、すべてがその切ない情感に包み込まれている。何だろうあれは、と考えてしまう。
 
もちろん短編は切なさと情趣に、その味わいに優れたものが一般に得てして多いものであるような気もするんだけど、同じように切ないだの情趣だの言っても、なんだか全然ちがう、というところで、それはまあ個性と言ってしまえばそれまでなんだけど、個性を語るときにそれがそれで終わるものではなく、その先に「個性とは何か」に踏み込むべきものがある、理論化、構造化されうるものであると考えることができる、ということかそういうことで。
 
で、思ったのだ。
 
個を包み込む全体を、個が包んでいる眩暈の構造がそこには仕込まれているのではないか。そしてそれが、女性作家と男性作家の違いなのではないか、と。個と全体の超越のあらかじめ確立された、そのような世界の感覚、肌触り。アプリオリな超克の構造。
 
…これは今のところただの直観なんだけど。個と社会の関係性の、その構造が男性作家に多いものである断片的なディレッタンティズムや社会性、ダンディズムや倫理の美学とはまったく異なる、けれども確固たる存在感をもったある種の「構造」に必ず根差しているというところから、この切なさはやってくる。個性やアイデンティティの「枠組みの物語」をずぶずぶと越えてゆくそのあわいのところに。(これは作品からの検証は逐一可能である要素であると私は確信している。…この記事はだから備忘録としてのメモ。)「枠組みとしての物語」はそれはそれとして非常に優れて素晴らしく心に響く作品も多い、ということはもちろんであるよ。前提として。ただ、それは構造的に、すなわち質的に異なるものなのだ。)(月とコーヒー、読了したら実はかなりよかったんである。好きなものがいくつも。これはこれとして語りたくなるような。)
 
その構造とは男性作家(便宜的区分、「男性性」の要素の強い作家)の構築された堅牢性をもつ個性の存在を前提としたものとは質的に異なる柔らかなフレキシビリティを孕んだものとして在る。不思議なことに、女性作家の中でも稀有なこのタイプのラディカルな女性性(ラディカル・フェミニズムの系譜と言えるのではないかと思う。)を打ち出す作家は、本当に女性の中にしか見受けられない。逆に主流としての社会的枠組みの中での「人生の物語」(私がここでいう男性性の強い作家)を見事に描き出すリーガルフェミニズムの系譜に連なる優れた女性作家は数多く存在する。
 
川上弘美のそれは、ただそれはひたすらに瀰漫している。変幻自在に形を変え現前する、共通のマトリクスからやってくるもの。支配し閉じ込める性質を伴うその顕現する不器用な堅牢性構築物とは異なる、柔らかな法則、場面によって形を変える、他のいかなるものにもねじまげられることのないもの、大いなる法則に根差した、その野生の思考。
 
そこには怒りや悲憤慷慨、正義や倫理や人情の物語はない。あるのは、淡々とした「非人情(漱石)」の物語。それがあらゆる下位の現象を大きく包み込んでいる。酷く怖くてひんやりと残酷で、それなのに温かく優しい、生命のエロス、マトリックス、母なるものの深みと虚無を孕んだもの。
 
寒い。寝る。
ひとりの安らかな夜が嬉しい。
(今日は久しぶりに美しい夕暮れを見たのだ。)

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ゴボジン

新しい時代の新しい元号の発表された記念すべきエイプリルフール、今日この日に、何もこんなしょうもないことを書くこともないのだが、なんとなく。(元号発表に関してはあれこれ思いはあるのですが。令和。)

ゴボジン。

このくだらなさがどうしてか忘れられなくて一生モノの記憶になっているのだ。子供のころ読んだ実にナンセンスなエンタテイメントSFであったような記憶。

きんぴらごぼうが大好きなのに貧乏だから同時に人参と牛蒡を買うことができなくてあんまり食べられなかった天才博士が、その生涯をかけた発明品の話。牛蒡と人参をシマシマにしたキンピラゴボウのためのハイブリッド野菜ゴボジンを開発し、さらにはタイムマシンを発明して昔の自分に腹いっぱいキンピラゴボウを食べさせるのだという一生の夢を実現させようとする、そこでタイムパラドックスがおこってどうのこうの…というお話。

何十年も気になっていたこの品のないゴボジンというネーミングセンス。ちらっとツイッターでつぶやいたら、すぐにいろんな人が本のタイトルを教えてくれた。これはもう仕方がない。検索し、わざわざ図書館に取り寄せてもらって…読み直した。

横田順彌「脱線!たいむましん奇譚」

記憶の通り実に素晴らしくくだらない名作であった。

…いやあ、少々感動したんである。
このただならぬ饒舌、ダダ洩れの才能。

こんこんと湧き出る水の尽きぬ泉のようにひたすらあふれ流れでる言葉、深い教養を保証するゆたかな語彙。踊る言語、戯れる論理。それらはすべてこの上なくくだらないナンセンスのためにある。この素晴らしい教養と知性と才能が湯水のようにムダに消費されているという驚異の世界。ああ、くだらねえ~っと笑われるために消費される道化としての語彙。

…なんかねえ、昭和SF名作の黄金期、この独特の哀愁と反骨の美学を秘めたディレッタンティズム。例えば、けれども筒井康隆星新一小松左京、これら徹底した大家たちの裏面にこれまた位置するんではないか、この作者は。軽んじられたこのジャンル、なんだろ、北杜夫とかそのあたりと近似してるかなあ。すべてをナンセンスと冗談に還元してしまってみせる。さびしい暗鬱とどこか背中合わせ。

実はね、昔はともかく、今は嫌いじゃないかな、とも思うんだけど。いやらしさも低俗さも、どこかその「時代のお約束」におもねった高度経済成長時代のサラリーマンのイメージ、ドリフターズ的なおどけた哀愁ばかり感じさせるものだから、自家中毒を起こす饒舌の迷宮。小気味の良い言語の洪水。泡沫のように砕けて消えてゆく寂しさと優しい笑い。スラップスティックではあっても不思議にどこかにほのかな小さな幸福をあたためているような、けれども、けれども、という問いを消せない。毒や痙攣すらないひたすらの自虐ではあるけれど。それは鋭い知性がひたすら自家中毒をおこしてゆく風景のようにも見えて。

時代の匂い、そのノスタルジーへの思い入れなのかなア。

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恋と時空間(恋愛小説のススメ)

桜咲いてきて、嬉しいです。トリも花が好きなんスな。食っとりました。
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で、こないだの「100分de名著」のオルテガ「大衆の反逆」。

ここでワシはこのやたらと男前でかっこいい指南役の先生の語り口にシビれてしまった。
で、それが刺激になってあれこれ考えた。「保守という思想」のあれこれ。あんまり考えたことなかったことがおもしろいということは、そこからどんどんあれこれ考えたくなるからおもしろいというのだ。引っかかったことわからないことずれていくところ含めて、自分のスタイルで。それは、とりもなおさず「保守とは何か?」を問い直すところから来ているものだから。

で、そのひとつを展開して書いてみる。番組メインの「保守という思想」というテーマから離れてしまっているようだけど、実は関係してきていること。キイは「徹底した自己懐疑」である。

まあねえ、結局私の考えというのはなんだか最後には賢治の方に流れてしまうのだけど。
だけどそりゃ、指南役の先生の読みの切り口というのがここでやっぱりオルテガの考える「私(個)」を仏教と結びつけて語っているものなのだから、仏教的な個と世界の存在把握、となると賢治に繋がってしまうのも蓋し当然ではあるのだ。

 ***  ***

本当は自分なんてかたちはない。
自分の考えなんてただ場所に呑まれている「場所の思考」に過ぎないということをいつも思う。安定した枠組みをもった個、アイデンティティなんてものは近代西欧的なるシステムがつくりあげた幻想なんである。

思考とは、その属した場にあって初めて生命を持つ、場(外界)に繋がることによって全体となる構造を持ったものである。時空の一部、パーツとしての思考。思考とはただ内的なものなのでなく同時に外的なものでもある。つまりあらかじめそれはその場の風景によって規定されている。風景に属している。読書によるあらゆる想像力の翼がその読書の現場から規定されているように。
(例えば。「100分de名著」で「大衆の反逆」から引用されていたオルテガの言葉「私は、私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」。この「存在構造」把握のスタイルは、そのままこの「思考構造」把握のスタイルとアナロジーであると私は思ったのだ。ドンピシャリで。)(ついでにもう一つ。この後半部分は特に、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論綱要・序論)という賢治の求道的倫理観ともまたぴたりと一致している。両者は共通した自己と世界の関係性のありかたのひとつの観念のモデルを描いているのである。)

でも私がここでいいたいことはこの社会的なところに行き着く倫理観のところではない。そう、とりあえずは行き着かない。

絶望も幸福も自分の内部にではなく外部の特定の場所に属したものである。ともいえるのだ、ということが言いたいのである、要するに。とりあえずは。

それは例えば時代の空気に規定された文学という命題として、まあ当たり前ではある。それは逃れようもなく自分を構成し且つ自分がその一部を構成している世界であるから。(オルテガや賢治が至った、倫理や求道、社会的存在としての在り方のスタイル、選び方に関しての思想はその構造把握のさらに先の話である。)

だから、ひとつ図式を考えてみよう。
「独りの部屋の中で絶望してしまっている。」
それは閉ざされた場によって思考が空転し自家中毒を起こしてしまっているのだ。ちょっと外に出てみたらいい。街に出てみたらいい。できるだけ遠い方が確実だ。(その距離は物理的な意味と重なってはいるが厳密にいえば純粋な質的距離である。それは境界を越えている。世界として別物、次元が違う。)

極端にいえば、故郷に戻ってみればいい。由縁の土地、思い出の土地、或いは見知らぬ夢に属する街(それは心象の故郷だ)。実際の故郷である必要はない。心の中にある故郷のイデアに繋がる場所。

*空転する空虚な己の思考スタイルを自覚しろ、その限定された狭小さを自覚しろ。壁を取り払え*

風景が変わるとその「外界」が自分の中に即座に映し出される。そして映し出された外部の起爆剤によって硬化して澱んだ自我の壁が内側から破れ、別種の空気が、その光と風が通り抜ける。(それは直ちに起こることもあるし、なかなか起こらないように見えることもある。自我の牢獄の細胞壁がカチカチにかたまって、その結ぼれがあまりにも頑なにこじれてしまっていたりするとね、ほどけにくくなってて。)内側と外側が裏返る。そこに属する者としての主体が今までの主体とは別のものとして再生した主導者として成立するのだ。世界から世界への質的移行。それは別に偽りから真実へという意味ではさらさらなく、ただ限りない無限であるものを感ずることのできる場としての世界の狭間を通り抜けただけのことだ。今までの自分の殻を外側から見る自分が息を吹き返す。(ここで私は世界の在り方としてインドラの網の構造モデルを想起している。)

壁を取り払え。自在で柔らかな思考スタイルを得るためには破壊されなければならない防壁或いは牢獄がある。自我を守る防壁であり自己を閉じ込める牢獄。「おまへの武器やあらゆるものは/おまへにくらくおそろしく/まことはたのしくあかるいのだ」(宮沢賢治「青森挽歌」…「武器」とは防壁だ。)

それぞれの場所の思考はすべて自立ししかしそれぞれが連帯しており、支配し或いはされる関係にはない。人はその「ここではないどこか」感覚を付着させた場所で、(それは移動によって発生する「どこでもない場所」、矛盾であるからこそ常に逃れ続ける否定され続ける止揚され続けるロマンティックイロニイ(オルテガの考える保守という思想のキモ「永遠の微調整」(あるいは徹底した懐疑精神による永遠の現状否定と止揚という求道)」)というダイナミクスの層を共振させている時空に繋がっている。奪われていた自由な思考を取り戻し日常に倦んだ閉ざされた論理から解放され、世界はさまざまでいいのだということを感じとる力を取り戻す。風景の数だけ世界がある。無限(「まこと」)への解放。

それぞれがそれぞれの世界に穿たれた穴としての役割を持った関係にある。補完し合う、矛盾し合う。それぞれの意味世界のその論理のアポリアからの抜け道。インドラの網である。無限に響き合う、明滅する有機交流電燈たちの網。

感覚的な言葉でいえば、それは空転する論理構造に内実として機能するべく生命が吹き込まれる、といったものである。酸素と他者が不足した呼吸困難からの回復。自家中毒患者への血清注入。(未知と未来、可能性という、エナジイに満ちた「不可知」の要素の挿入、それによる希望という生命力の発生現象といってもよい。酸欠だった血液に新鮮な酸素が注ぎ込まれ身体中を駆け巡る。)

形骸化した世界が新たなDNAを取り入れることによって破壊されその内側から新しく動的な生命を得る。よく神話や物語で「蝕」や「最終戦争」「降臨」などという決定的にチートなラスボス的なるものとして示されるある種の祝祭の構造である。そしてそれは自我の自意識の牢獄からの救済という意味とまったく同構造、同義である。大袈裟で陳腐な中二病の言語感覚の世界観と矮小な日常の中の自分はその論理構造のアナロジーによってまったく同じものとなる。

認識主体の問題だ。
自我の枠組みの破壊による虚無への恐怖とその牢獄からの解放の両義。それは矛盾ではなく止揚されることができる、という構造。(まったくおしなべての宗教や儀式、神話…物語というのはことごとくこのために存在しているといってよいのではないか。実に人類の知恵であるとこよと思うんだな。しみじみ。)

賢治の「春と修羅」の中の一篇「林と思想」では、この内ー外、思考ー時空、すなわち己と世界の関係性における一体性についての構造が、次のように表現されている。この「かんがへ」という「思想」を包み込むマトリクスのうつくしさがたとえようもなく優しい。

すべてを超えた「外部」が、美しいよきもの、救済である、と設定することは信仰であり智恵である。それは極めて仏教的世界観に近似したものではあるが。


そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちいさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
 こゝいらはふきの花でいつぱいだ


 *** ***


こうして「場所」と「思想」が溶けあう構造の概念を導入すると、例えば恋愛という心身をトータルに捉える自他の関係性におけるいみじい概念も全く新しくおもしろい切り口をもつ。

命題1

恋とはひとつの信仰である。他者への信仰。「こいびとにいだかれているときだけ私はそのように考えることができるようになる。彼(彼女)という風景の中でだけ開かれる思想がある。彼(彼女)は私であった。私は彼(彼女)に含まれるものであった。」

そうして前述した時空と思考の論理構造にこの恋愛の構造を重ねたイメージを持った後には、すべての分野において、そういう擬人化はアリということになってくる。論理は逆照射され、すべての論理は恋の論理のイメージを孕みはじめることができる。フレキシブルな思考、自在に変化し跋扈する。(世界は豊かで楽しくなる。)(それはつまり、世界に、存在に恋慕するということになるからだ。)(ホラ、よく恋をすると世界が輝いて見えてくるっていうだろう、アレだ。)

そう、ここで恋とは何の比喩でも有り得る。(愛はちょっと違うと思う。《と定義しておきたい。》その先だ。それをつつみこむもの。外部、マトリクスを指向する。)(…例えばちょっと恋愛からはずれるけど、春樹は関係性によって生まれる時空、その世界におこる特別な現象を「ケミストリイ」と称していた。1+1は2ではなく1+2は3にはならない。)(特別の、唯一の、時間と空間とそのときそれを共に共有した他者たちとの「ケミストリイ」による全体性。それは多分ゲシュタルト心理学の「要素+α」としての全体性という構造だ。)そしてその世界はそれなりにそのひとつひとつが無限の眷属であるものなのだ。いわゆるところのミクロコスモス=マクロコスモス構造。

「私は彼に問う。彼は私の心の中で答え、私は彼に笑いかける。愛している、と強く思う。胸が痛むほどの幸福感。」

たくさんのカレを愛したい。
その、「たくさんの世界のなかのそれぞれから抽象される唯一のカレ」という拠り所さえ心の中に存在させることができれば、自分はどのいやなやつ(閉鎖的論理県境)のもとにいても生きていける。胸を温めてくれるところがあると信じていられれば。

 *** *** 

いや、世界を把握するための一つの自己救済方法としてね、恋愛小説をね、書いてみたいなってちょっと思ったんだよ。ただ。ウン。そういうのって、アリかと。そう言ってしまうとすべての文学は恋愛文学になってしまうといえばそうなんだけどさ。

ミッツ・カール君

ミッツ・カール君のアクション、実は結構好きである。(こっちょり)
 
「100分de名著」録画消費、オルテガ「大衆の叛乱」にかかる。第一回。こりはピシッとツボにはまった。おもしろい。
 
オルテガの定義する「大衆」。これは階級としての大衆ではなく生き方としての大衆であり、個性をもたない多数派の正義を振りかざす衆愚としての大衆でありすべての人間に潜む慢心と思想的怠慢としての意味をもった個性を捨てたレミング、卑しい愚かしさとしての大衆意識である。
 
ポピュリズムとか衆愚とかと直結してると思うんだけど、ナチの台頭の時代に書かれたこのオルテガの知と(彼は「専門家」この専門バカ、学者馬鹿を大衆の代表としてすら描いてみせているという。これは第二回以降をみてからあれこれ考えてみたい)、イマココ、まさに今の日本や世界の情勢を直結させてみせる。その問題意識を提起している制作側の意図と祈りを痛いように感じるのだ。
 
おもしろいことって哀れでみじめでダメダメな胃痛の自分をひととき救ってくれる。もう少し生きていられたら幸福だ。だれかの幸福の物語を感じられればそれでいいんだ、自分はきっと。(これは本心であり本当の嘘ではないけど少し嘘だ。きっと。)
 
アルコホルが回ったら眠ろう。
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マンション中庭ソメイヨシノ進捗状況。

本あれこれ。雑感。

実家避難の週末のパターンとしては、とりあえず町の図書館であれこれ借りこむ。普段なかなか読めないものが読めることがあるのではないかという期待を込めて。

大抵ほとんど読めなかったりするんだけどね。
とりあえず欲張って目についたもの借りてしまう。

こないだ「100分de名著」観てから気になってた、ウンベルト・エーコ薔薇の名前」。おう、あるある、と、とりあえずポン。

最近初めて読んで、そのおどろおどろしい魔力のような筆力に驚嘆した「魚神」(泉鏡文学賞とすばる新人賞を受賞、さもありなんの耽美幻想神話物語系。)の千早茜もちいと読んでみようかな、と数冊。お、吉田篤弘の新刊が出てる、とポン。ここは漫画充実の図書館なんだよなあ、せっかくなら読んでおかねば、と岡野玲子もポン。(岡野玲子はヒジョーにおもしろいのだ。)とにかく開いてみてピンと来たのを読めばいいや、くらいの気持ちで。

薔薇の名前」開く。最初の数行。
うむ、この計算されつくした物語構成、噛み応えのある面白さである、という予感のみでとりあえず挫折して閉じる。最近の儂の知的体力は非常に衰えておる。TVドラマでさえおじゃる丸や朝ドラの15分以上はなかなか難しい、というレヴェルまで気力体力知力すべては落ちているのだ。

漫画なら脳で使う部位がずれてくるので比較的楽に消費できる。

これは「考える」以前の「考えを消費する」感覚の分野にかかってくるのやもしれぬ。100分de名著、とかでも結構そうなんだけど、知を消費するレヴェルと己で言葉にして書き出だそうとする生産レヴェルは重なっていながらもやはり層がいささか違っているのであって、知の消費は現代の万人に大層ウケるイケる売れ筋であるがそして本質であり最も洗練されたものではあるが、やはり泡沫のような消費である、一流で上等においしくつくられすぎているんで、すうっとおいしく味わって、そうして消えてしまうような知なんである。消費者はおいしくそれを頂いて、文句だけいえばいいのだ。

どっこいしょ、と不器用なところから始める生産レヴェルは、神さまであったお客さんの立場から一度新入り丁稚奉公のところまで堕ちねばならぬ、その土台の、基礎のつまんないめんどくさいみっともないしんどさをどっこいしょ、と背負って自分の手でコテコテと練り上げて拵える楽しさとしんどさをenjoyする体力がなければならぬ。それは例えば学部から院にはいったときの変化のような知との関係性の違いである、ような気がする。教授たちの授業の優劣をあれこれ品評する消費サイドから作成する側の裏方へ。

本当のおいしさわかるってのはその上澄みの大吟醸んとこではなくすべてを取り込んだ濁り酒んとこ味わって初めて己の血肉となり、その上でその深い倍音を響かせる天上のエッセンスの最上部分を味わうことをいうってのはわかっているんだけどね。でも雑味に負けてすうっと誰かの調味してくれた消化のいいおいしいとこだけしか取り込めないとき、それはそれで仕方ないのだ。

ということで、岡野玲子。「陰陽師 玉手匣」
いや~やっぱりおもしろいや、これだな、これ。中国の陰陽道なんだか仏教的世界観なんだかなんだかわからなくなった極東日本独自のアニミズムも民俗的な習俗や神話要素もみんなみんな溶け合ったところにある奇妙な異世界。このひとの作品はどうはじまってもなんだか最後にはおんなじように混沌の世界の根源のところにはまりこんでいってしまうタッチがあるのだ。

で、ちらりと吉田篤弘新刊も。

「月とコーヒー」。

1日の終わりの寝しなに読むための小さいお話、短編集。
これくらい短いものなら衰えた読書力でもいける。そしてやはり吉田篤弘好きである。心のトーニングをして穏やかな心持ちで眠るための魔法の一服。

生きるために必要なのは太陽とパン。だけどやっぱり魂に必要なのは月とコーヒー…っていうコンセプトでね。世の中の隅の方で生きる人たちのお話。

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