酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

夜明け記録 、宮沢賢治「農民芸術概論綱要」

二月如月朔日、新しい月、昨夜の久しぶりの雨に洗われた新しい朝である。

朝5時半頃の澄んだ紺色の中金色に輝いていたところから6時過ぎ次第に淡く消えてゆくところまで観測、見事な地球照を抱いた月星マーク。月に寄り添ったのは金星、少し遠くにみえるのが木星。この地球照がどうも好きだ。

f:id:momong:20190202105403j:plain
これはマンション8階のベランダから撮影したもの。三脚立ててじっくり上手に撮影したらきれいに撮れるんだろうけどなあ。朝のあれこれしながら隙間にベランダからささっとパシャ。さぶいのでパシャっと撮ってすぐさま退散、では思い通りには写せない。

見た通りの、心に響いて映し出されたその風景をそのまんまさくさく記録できるミラクルなカメラとスキルが欲しいものだ。

f:id:momong:20190202105537j:plain
次第に明けてゆく。月は淡く溶け地球照も消えてゆく。
f:id:momong:20190202111050j:plain

f:id:momong:20190202110410j:plain

そうして東の雲が見事な黄金に縁どられて二月の初日の出。

f:id:momong:20190202105650j:plain

f:id:momong:20190202105711j:plain
おはよう、お日さま。
わくわくするような極彩色のハレーションからご本尊の登場まで、刻々とその輝きを変化させてゆく、毎朝惜しげもなく淡々と展開される豪奢なショー、ドラマではない壮大なドラマ、自然の時間芸術。

これって賢治いわくの「すべて天上技師NATURE氏のごく斬新な設計だ」とかなんとかいうやつだな、なんて思う。「すべて天上技師NATURE氏のごく斬新な演出だ」

…そしてハタと思いついた。この発想は、すごくおもしろいところに繋がっているのだと。賢治独特のユーモア、というだけではなく。

自然或いは神の擬人という技法、修辞の意味である。これは懸案だったのだ。いつもいつも擬人という発想が私は不思議であった。古今東西あらゆる物語や神話で、原型としてあるもの。何故ひとは人でないものを擬人化するのだろう。擬人化にはどんな意味があるのだろう?擬人化しないと理解できない?!

自然を言語化するための人間の翻訳の技法としての擬人法。それはキリスト教での「人間が神になぞらえて拵えられた」という発想とは真逆のものである。

 *** ***

…で、とりあえずスコーンと繋がって見えた、思いついたってのはつまりだな、ここでそれは、彼が「農民芸術概論綱要」で目指した「四次元芸術」に関係しているということである。こういうのね。

声に曲調節奏あれば声楽をなし 音が然れば器楽をなす
語まことの表現あれば散文をなし 節奏あれば詩歌となる
行動まことの表情あれば演劇をなし 節奏あれば舞踊となる

ここでポイントは「まこと」であるというとこなんだけど。

要するに、ドラマや芸術、音楽絵画舞踊演劇という芸術行為が擬人とまったく同じメディアとしての役割を担った「まこと」のための翻訳技法であり、(神=自然=真理=カオス=マトリクス)というイデア「まこと」のミメーシスとしての芸術の技法の論理として定義されていることとの関連。これが、前述した擬人法の「翻訳」とメディアというフィールドを請け負っているという構造において同構造、同義である、というその構造のことなんである。

(因みにここで祝祭空間ー擬人法というようなイメージが結びついてくる。これは楽しい。それは「祝祭空間ー擬人法ー読書の現場」という神話の現前の論理イメージのわくわくだ。それは、とどのつまりは言語そのものが祝祭的な技能を担ったものである、という結論に行き着くものである。存在の意味への技法。)

そして同じく農民芸術概論綱要での「近代科学の実証と求道者たちの実験」という近代科学と求道という分野の並列された表現。銀河鉄道の夜ブルカニロ博士編」での「信仰も化学と同じやうになる。」というこれと同じ思想を示す表現。この目指すところの方法論としての「芸術、擬人法」である、と。

つまり「天上技師」という自然の擬人化は、近代科学や芸術の人間活動のイメージを自然に施すことによって自然の言語化という翻訳の役割を果たし、あたかも自然の超越美のフィールドにおいて誰かがどっこいしょーっとあれこれ考えて働いて美しい建築物や庭園、世界を作り出している設計図や労働の現場が存在するようなイメージを生み出す。そしてその論理構造が逆流してその人間の行為という「現実」が超越的な絶対の真善美に繋がりその力を「こちら側」に写し取るためのミメーシスでありうるものであるという可能性を開いている。

近代科学の合理客観をもって、求道-真理ー自然という本来超越したフィールドにあるものをこちら側に取り込むトリック或いは技術としてこのテクストに仕込まれているものとしてこれはとらえられるものなのではないか。

賢治が自然と人間界の、芸術という項目を介しての融合、その構造の論理的な一致の可能をどこかで信じていたところからくるんじゃないかな、という論理展開或いは遡行がここには見られるのだ。

賢治テクストにおいて分子や原子、でんしんばしらや鉄道という科学技術の描く世界像が、自然のうつくしさや神秘の物語とまったく同列に扱われて物語られていることとこれは関連している。人工的なるものはここで自然と対立しない。それは自然を搾取しない。

賢治が科学と信仰を共に客観的分析可能な同レヴェルで捉えようという絶対善としての科学技術の未来をそのテクニカルな方法論と真善美の宗教的価値観の融合したところを信じていたことと同根にあるものを表現するのがこのテクストの示す世界観なのである。本来異なる質であるはずのものを並列の基盤におく芸術ー修辞(擬人)というトリックを施すことによって。あちら側の神秘を翻訳し、いわば多少の冒涜によって親しみやすく、我々に理解できる形に翻訳して。

…対立するものではなく融合してゆくべきものとしてとらえるために。

(ところで彼の日の出の描写でいつも思い出すのは「ちゃんと今朝あのひしげて融けた金の液体が/青い夢の北上山地からのぼったのをわたくしは見た」ってやつだな。すごくよくわかる、「ひしげて融けた金の液体」。今朝のは空が澄んでるからちょっとちがう。少し雲があるときの方がその雰囲気になる。これは先月撮ったやつ。こっちの感じがソレに近い。)

f:id:momong:20190202110244j:plain

…なんかねえ、存在という奇跡を思う。飛行機からのこの夜明けには感動したんだよなあ。もいっかいあれを拝みたい。(最初の日の出前の画像にはカラスのシルエットも入っているよ。わかるかな。)

しかし本当に冬至の頃に比べたら日の出の位置が随分北に移動している。

立春も近い。街も桜もちや草もちや苺や抹茶の春色ケーキ、カルディには桜煎餅や桜飴、桜きな粉餅の桜スペシャル。(ヴァレンタインチョコレートも楽しい。眺めてると頭に血が上って全種類買ってためしてみたくなる。)とにかくみんなひたすら春が恋しいのだ。

で、日の出のこの一瞬、西の方の空、彼方の山々は夢のようなももいろに染まるのだ。山と、街とが。

f:id:momong:20190202110531j:plain

山のあなたの空遠く、幸い住むと…、と呟きたくなるんである。なんとなく。

 

***オマケ***

今朝6時前、月齢27.1、細い細いお月さまと金星と木星。-2℃。世の中チルドルーム。昨日より少し金星がお月さまから離れて少しお月さまはお痩せになられた。

f:id:momong:20190202110712j:plainf:id:momong:20190202110851j:plain
日の出はこれくらい、やっぱり昨日より少しだけ北にずれている。

f:id:momong:20190202110757j:plain

さらにオマケ。
立春の日の日の出。やっぱり少しずつ北に移動している。6時45分頃。

f:id:momong:20190204180530j:plain

f:id:momong:20190204180548j:plain

 

美しいもの

マンションエレベーターでベビーカーの赤ちゃんと目が合った。

いきなり嬉しそうににっこり笑い、私に向かってぱたぱたと手を振った。驚くほど可愛らしいうつくしいまばゆい笑顔がうす黒い穢れた心に突き刺さってなんかじいんと沁みた。

ただ存在していることを無条件に愛されてるゆりかごの中の幸せな者はその幸福の輝きを周囲に放射してくれる。

アカン自分。強く生きねば。

モンブラン駆け込み

母が賢治の童話に興味を示したので貸したら面白がってくれたらしい。今日うちの方まで来たので、待ち合わせて珈琲のみながらあれこれ賢治の話になった。
 
…賢治のことなのでついスターバックスで熱くなってしまったアカン疲れた。母が賢治童話から風刺や絶望感や性悪説のことばかりを読み取ろうとするので、仏教的世界観の十戒互具の概念とそこから善悪の彼岸に至ろうとする解脱の理論構造の話からホッブズリヴァイアサンの思想まで力いっぱい語ろうとしたがうまく理解されない手応えという感じで私は少し寂しい。
 
でもiPadでレシピサーチやヴォイスメモの使い方あれこれ教えてあげてたらすんごい喜んでくれたのでそれはとっても嬉しかった。今宵のお惣菜は干し大根と厚揚げの煮物にしたと決めたといい喜んだ母の笑顔がワシの本日の分の喜びである。ハイライト。
 
あのつやつやした生命力ほんに眩い。生きる喜びつかみとる強さ純粋さ。見習いたい分けてほしい。
 
 *** ***
 
…関係ないけど週末は冬季限定モンブランの駆け込み。代官山シェ・ルイの和栗モノである。画像下段は通年販売のフランス栗もの。くやしいけどモンブランは人気者。
f:id:momong:20190129012916j:plain

f:id:momong:20190129012521j:plain
シェ・ルイって確か岡崎京子の漫画にでてきてた記憶があるのでなんか懸案になってたのだ。

f:id:momong:20190129012700j:plain

和栗素材風味素晴らしい。香料やなんかに頼らない上質な素材重視なパティシエの矜持を感じる。ホイップクリームしかり。ふわふわ軽く上品でふんわりミルキー、素晴らしい。仕込まれた和栗渋皮煮素晴らしいサクサクの土台もラブリー。

 

…問題は割合である。殆どがホイップクリーム

クリーム好きな人にはいいんだけど、とっても上質だと思うんだけど。

だけど個人的にはこの和栗きんとん的部分殆どで、渋皮煮5倍で理想のモンブランにしてほしいのうなどとワガママを思ったんであるよ。

 

おやすみなさいサンタマリア。

少女漫画とBL

ええと、タイトル通りのBLを語るにあたっての前提として、まずサブカルチャーでのオタクアニメのことなんか繋がりであること。

で、いわゆるつきの古式ゆかしいオタク男子の一般的な嗜好の話からってことで。

画一的な萌えアニメの「美少女」たちの画一的な表情、そして胸と尻の異様に強調された(プロポーション的に埴輪である、太古の昔から男性の女性に対する嗜好というか発想というかその単純さには一ミリの変化もないようだ。)(限りなく赦し与える優しさとしての母なる豊穣の地母神ってとこかね。)(古事記では荒ぶる男神スサノオノミコトがこの自らを差し出しひたすら贈与する者である自然・豊穣の食物女神オオケツヒメノカミを汚らわしいとして殺してその恵みを経済社会の純粋利益としてエゴイスティックに奪う五穀の収奪農業を始めるんだよね。酷く恩知らずな話ではあるが実によくできている神話である。男性原理。経済至上主義の人間中心主義の中央集権の唯一神的なるもののはじまりの天皇制のはじまりの。)けれど知性レヴェルと顔は幼女、という、甘えと支配、支配欲エロ傾向がひとつの特徴であるとしたら、と考えた。(ひたすら甘える対象の母とひたすら支配する対象の幼女。浅ましいの一言ではある。)

それに対応するオタク女子の嗜好といえば、ということなんである。

BL。

大体、ボーイズラブなんていう言葉は、オタク一般が市民権を得て大手を振って世の中の表舞台を闊歩し始めるまでは存在しなかった。経済流通、業界内でメシノタネになるレヴェルになってこんな口当たりのいいお洒落語感を与えられるまでは。

それは、闇市場でひそやかに流通される、淫靡ないかがわしさそのものを喜ぶどこか反骨を秘めたニッチな世界。そして、それを指す彼女らの言葉は、単純に、ホモ。(はひふへほとまみむめものひと、とかいう言い方してましたな。)(ボーイズラブ、一文字間違った本屋の画像ネタには吹いたことがある。ボーズラブ…まあ坊主愛となると実際これは歴史の古いお稚児さん文化とつなげて考えられて、実に含蓄のある話ではありますが。古今東西、坊主とお稚児さんってのは切り離せない性愛文化だったようで。)

男子のアイドル系への嗜好欲望は、ある意味非常にストレートかつオープンでわかりやすい。男性一般の心理構造の単純さを象徴しているかのようだ。己の肉体的精神的欲望をがっつり直接満たしたい、主体はエゴ、欲望、己だ。何らかの原因により、現実の女性に向けられるはずの嗜好が、己の欲望にひたすら純粋な観念の形へと歪曲して振り向けられたかたちであると考えることができる。アイドル(偶像)へ、二次元へ。

が、女子のBL系の嗜好には、非常な複雑さと倒錯がある。よりゆがんだ欲望の形であり、よりヘンタイ嗜好であるともソフィスティケートされたものであるとも、とにかくその複雑な心理構造を示しだす嗜好であるということができる。己は対象でも主体でもないのだ。観客。傍観者。(まあいうなれば覗き趣味。)

きちんとしたデータや根拠があるわけではないが、印象から言うと、私の周囲には結構この傾向の趣味を持つ女性は多い。そして、彼女らはほとんど例外なく、優れた知性と高い学歴、そして自尊心、芸術性を備え持つ。道徳心や倫理観と独自の美意識を合わせもち健全な結婚生活子育て仕事をも両立させているケースも多いスーパーウーマンな尊敬すべき女性たちなのである。

彼女らは、いわゆる女性の武器を使って男性に媚びることを潔しとしない。化粧を施し服装に気を遣っても、それは社会生活において身を護るための手段、或いは己の美学のためであり、たとえそれがフェミニンなタイプの趣味であったとしても、それは反「モテカワ」「愛され」系であり、男性受けするためではない。

例えば、コテコテゴスロリや勘違いフリフリピンクハウス。こういうのは、寧ろ。「雄々しい」。品よくほどほどに甘く愛らしく、と絶妙に男性原理社会規範に適合するための媚びが、そこには一切ない。彼女らは寧ろ男性の性のイメージを消費する側に立つ。

これはしかしラディカル・フェミニズムともリーガル・フェミニズムともまったく異なる、思想性から離れた趣味趣向であり、寧ろただ単にこの男性原理社会の歪みをきれいに裏返してみせている、そんな印象があるように思う。

ラディカルはシステム自体の歪みを是正すべく、それを根底から揺るがす外部からの力を持った概念であるし、リーガルはそのシステムの中での対等を主張する内側からの力を持つ概念である。なんというか双方まったく異なった方向性、アプローチでありながら正攻法である、んだけど。

BLを消費する彼女らの在り方の意味するところは、そのどちらでもないのだ。彼女らはそのリビドーのあけっぴろげな解放を正攻法では目指さない。あくまでもそれは主体であることを拒む、歪んだ、しかしある意味もっとも純粋に観念的であり(イデアであり)、自己の枠を超えたところにある無垢でピュアな欲望発現のかたちとしてあるのだ。どちらかと言えばラディカルに属するが、ラディカルという理論に行き着く前のもっともっとその原点のカオスの領域へのまなざしを可能とする現象である。

例えば歴史的にいえば、古代ギリシャにおいて男色とは高い精神性と高貴さのカテゴリーに属し、また理想的市民社会のためのシステムのひとつとして機能していたという。男性社会へ参加するための少年へのミッション、文化の通達、通過儀礼としての性質を帯びていた、と。スノッブの仮面をかぶったエロジジさまたちの下卑た欲望による我田引水の歪曲がどのくらいその建前の論理に関与していたのか、その割合は定かではないが、要するに高貴で精神性に特化した理想のヒューマニスティックで文化的な市民社会とは、奴隷と女性を排除した特権階級を設定することによって成立していた。このため、女性は生殖と家事労働のための男性市民社会奉仕の道具としての生物であり、奴隷と等価であり、女性への性的欲望は野獣的な本能、生殖のための卑賎なものにカテゴライズされる。つまり「性愛」の卑しさ、その低きところは女性に引き受けられ、その高き精神性や魂の高貴さとしての「愛」の純粋の部分は男色の上澄みにのみ存すると。

…これを見事に裏返して見せたのが女子によるBL愛好という逆説なんではないかと思うのだ。既に諧謔と風刺ですらある、この倒錯と逆転現象。(最も、BL嗜好みたいな歪み抜きでこれを鏡のようにまっすぐ裏返したわかりやすいものはあるんです。例えば古き良きミッション系女子寮での「お姉さま」制度に現れてくる男子を穢れたものとし女性同士の愛情を至高のものとする少女趣味、いわゆる百合族趣味。だけど、これは本当に単純な裏返し。本番の異性愛に行き着く前の同性との予行演習段階として一般化されているもので、それ以上のところへは行き着かない。)(漱石の「こころ」にもそんな描写がある。「わたし」が「先生」を異様に慕うことの原理を先生はこんな風にいうのだ。そしてこれは前述したシステムとしての古代ギリシャ少年愛制度の思想的基盤に一致する。儀式として、彼らは男装した花嫁と初夜を迎えるのだという。同性との演習から異性へのジャンプの儀式である。…なんかねえ、へええって感じですが。同性がすべて拡大した個であり、他者としての異性との対幻想にジャンプするためのトレーニングが儀式化されている、と考えるとこれは実は感慨深いステップではあるような気がしますです。)

でね、前述したBLによる「原点のカオスの領域へのまなざし」ってのは、この裏返しの論理という男性原理に対する対立項(女性による男色嗜好)設定によって成立し見えてくる、二項対立の「その向こう側」へのまなざしの可能性のことをいう。それは、今あるシステムの歪みと矛盾を諧謔を孕んだ風刺によってあぶり出し客観する視点を可能とするアルケーへの視点を顕わにする可能性なんである。

 *** *** 

さて、では何故特化して女子においてばかり性欲なるものがこのようなエゴを超えた形で現れるのか?

…ざっくり言ってしまうと、性が非対称なものであるからだ。

つまり、女(おんな)性は、男性中心社会において消費されるモノであり、その野卑な下位部分を引き受ける欲望の対象物として在る。主体ではなく客体である。(主体であろうとするとき、女性は社会から逸脱した存在としてのその己のマトリクスと向き合うことになる。)男性にとっての女性の価値幻想、母なるもの娼婦なるもの穢れたもの聖なるものであるその両極としてのマトリクスは男性中心社会において人間としての主体性を剥奪された形で飼いならされ管理されるシステムにはめ込まれている。つまり、女性は男性(に都合のいい)社会に適合した倫理と道徳を植え付けられながら自我形成を行うことになり、そのような「対象物という性質を帯びた存在」として育つ。奴隷として生まれ獣として生まれ愛玩動物として生まれたものたちのように。そのなかでの価値と尊厳というステータスのお札をぶら下げた首輪を与えられながら。

物理的、肉体的に圧倒的に弱者の立場に置かれた生物の本能としての恐怖を男性側は理解しない。人間としての尊厳を奪われ屈辱を受け、心身を壊滅的に破壊される、強姦される危険に常にさらされながら日常を過ごしている。夜道を独りで歩いてはいけない、ミニスカートをはいて歩いてはいけない。欲望を刺激する方が問答無用な落ち度であり悪である。不倫で叩かれ社会的に抹殺されるのは圧倒的に女性側である。貞節の美学を強要されるのは女性のみである。

(この理不尽がまかり通る不思議な社会が今現在の日本である。いじめる側に、上にいる側に、下のものから、いじめられるものから見えるものは見えない。権力の側に都合の悪い被支配者の見えるものは見えない。或いは意図的にそれをゆがめ、或いは敢えて押さえつけ、或いは別論理へと移し替えてキレイゴトにする。己の正義が汚れないように。)

で。BL.

その理不尽、暴力で踏みにじられる己の存在のあらゆる意味での尊厳(あるいは生命そのもの)の危機、その恐怖の領域に抵触することなく相手側の論理に飲み込まれることなく、生物的本能としての性欲、リビドーを昇華するには、処理するには、ソフィスティケートされた様式が必要になる、という流れなんである。己は関わらない。傍観者である。女性が貶められるシーンに感情移入し心痛める危険もないBLという分野。確かに、生殖と本能という野生から外れたところにある極めて「文化的」なかたちでの純粋な恋愛のかたちではあるのかもしれない。

古代ギリシャ市民文化の基本概念に、ある種の形で彼女らは共振している。純粋なイデアとしての観念的な恋愛のピュアネスを嗜好する。性的な下位レヴェルの肉欲はそこに従属する。けっして生殖本能として第一義となるものではない。(すべての倒錯はこれを否定する精神性の尊重のためなのだ。)

 *** *** 

…もちろんこの考察は、この日陰であった日本のサブカル分野、アニメやオタクがアンダーグラウンドな被差別民的扱いであった時代の萌芽の時期の原理である。現在のようにその語義を広げ犯罪に通ずるような不潔でキモいダークなイメージを払拭して、ひとつの文化のジャンルとして市民権を得た現在の状況からはずれてきているように見えるかもしれない。

が、やはりこれはさまざまなプラスイメージを付加されていった歴史の中でのその当初の、ほとんど生きていく上でやむにやまれぬ状況によって発生した、くらく激しい情熱と気骨をもって生まれたその発生原理を語るものである。

確かに現在華々しく明るく百花繚乱に花開いているものとはその「クラスタ」の質が違う。コンピュータ・インターネット。IT革命が出だしの頃にハマりこんだマニアな電脳オタクたちの天才的かつ専門的な知識と、現在手足のようにスマホを操りネットの海を泳ぎ渡っている子供たちとくらい違う。

でもね。

なんかね、原点は同じものであるような気もするんだよね。
ううむ。

何にしろ、アンダーグラウンドってジャンルが昭和以前にもっていたその抑圧による鬱屈という本質を失いつつあるとき、反動としての抑圧の揺り戻し(戦争と思想統制)の危機が訪れてきているって、なんかそんな恐怖をほのほのと感じたりするんである。「私はエロイカより愛をこめて」のしょーさが大好きで、最近のものでは「タイガー&ドラゴン」とかも好きなんですが。タイガーの方が。いやそれどうでもいいけんだけど。

で、どうでもいいけど大切なのは、これが現実のなまなましさから離れた少女漫画っていう表現であるとこなんであって、これが実写になっちゃっちゃ全然駄目ってとこなんだと思うんだな、結局。

永遠の原節子、とかそういうのとまったく同じ聖域としてのレヴェルであると私は信じているよ、BL文化。

PAPA

日曜の朝、明るい日の光のあふれる縁側に一式広げて、座布団に座り込んだ父は自慢のカメラ道具の手入れをしていた。ビクターの犬のマークのくっついたステレオからは重厚なクラシック。これも自慢のレコードコレクションだったんだな。こんもりと小ぶりな樹々の茂った小さな庭を背景に、すべては金の光に縁どられていた。

私はその風景が好きだった。

朝もやがけぶるような記憶の向こう側、幸福な日曜の記憶である。

 *** ***

年末、実家に帰ったら父が年賀状のあて名書きをしているシーンに遭遇した。パソコンの印刷機でもできるんだけど、毎年宛名だけ愛用のモンブランの万年筆で一枚一枚書いているんだという。ゆっくりと、インクつけつけ書いている。さながら明治大正の文士である。

f:id:momong:20181217112203j:plain

…ふうん、実はわが父、意外とスタイリッシュというかクラシックなこだわり持ってたりするんだな。

「そう言えば、パパ昔蔵書印ってもってたよね。職人さんに拵えてもらったっていう立派なやつ。」

と言ったら、あるぞ、と持ってきて、その辺の時代小説文庫本に押して見せてくれた。(最近炬燵で時代小説ばっかり読んでるらしい。母がもっと教養のあるもの読んでくれればいいのにとこぼしていた。TVは時代劇、歌は演歌、本は時代小説である。)(古い洋画や西部劇、イーストウッドやメリルストリープなんか好きらしい。そして実は古いルパンやジャングル大帝なんかも好きなのを私は知っている。母との初めてのデートは「101匹わんちゃん」だったという。)

f:id:momong:20181217112423j:plain

そうしてそれから、そのころの世相のことやなんかぼちぼちと話してくれたりしたのだ。

あれれ、と、そのとき私は不意に周りの風景の時空がずれてゆく感覚を覚えた。物語の時空が現在に繋がり重なってゆく。既に終盤にさしかかっている父の、その歩んできた人生の。遷り変わる時代の。

父の物語。

そういえば、今まで、あまりなかったんだな、父の思い出話聞く機会っていうのは。

 *** ***  

冒頭の日曜朝、記憶の中の風景のリアルに関しては不確かである。脳のねつ造やもしれぬ。たくさんの記憶の積み重ねが合成され一枚の写真へと結実したもの。…あれは朝食の後だったろうか、前だったのだろうか。

日曜の朝ごはんは遅くて、そうしてご馳走だった。ウィークデイの朝はせわしなくて、メニューもトーストやシリアルだったけど、日曜の朝だけは家族四人でゆっくりと遅めの朝食膳を囲んだ。(夕食もね。カレーライスにレモン水、サザエさん観ながら。)炊き立てのご飯に豆腐や若布のお味噌汁、ほうれん草のおしたし、しらすやネギ、生卵に海苔に大根おろしごってりフルヴァージョンの納豆、甘い甘い母特製のたまごやきにたっぷりの焼きのり、魚の干物にきんぴらごぼう、高野豆腐、たくさんの母の手料理が並んだ、旅館の朝みたいなご馳走だった。

大体が、日曜の朝というのは幸福な時間帯なのだ。

小学校入学前と後の記憶のミクスチュアである。
私の人生はまだ始まったばかりといってよい程度には新しいものであり、そのとき未来は考えるべくもなく当たり前に無限であった。世界もまた果てしなく無限に広がるべき可能性そのものであり、それ以外の意味をもたなかった。そう、未来と世界が無限で限りない、無尽蔵の豊穣としての資源であった贅沢な時空なんである。

父がカメラのお手入れをしているその時間は、家族皆が同じ家の中で安心してそれぞれ好き勝手に個の時間を堪能している多様性と一体感のその距離感、そのゴールデンなバランスの表出した時空の象徴として私の中にある。満ち足りた休日のはじまり、安定した日常のセーフティネットに支えられた束の間の迷子、それでもそれはやはり嘘ではない、個の時間の自由。休日の自由。読書や未来を夢見る遊びにふけり、異界とつながるコドモの無限のファンタジーワールドの想像力を育む時間。非日常と孤独の深遠につながる個の意識。おぼれないための命綱をつけたままの魂の飛翔の自由、それは解放、可能性の無限というレイヤーを意識の下に育ててゆく。あたたかく守られたままの意識というその矛盾を内包したままの。

ムーンライダーズ鈴木博文の歌う歌「幸せな野獣」で「無理やり(Hey、hey♪)自由を着て愛を脱ぎ/結局(Heyhey♪)いつからか金縛り♪」っていう歌詞があるんだけど、そう、確かに愛と自由は相反するものであるが、それでも、ある意味卑怯な形であっても、こんな風に止揚することだってあっていいのだ。できるのだ。

 *** *** 

大学に入学が決まった春休みのことである。

いろいろ節目なんだ、とハナイキ荒くした私は新しい人生のステージを新しく設定すべく、とりあえずあれこれと部屋を整理した。で、押し入れを探っていて父の段ボールを発見したんである。主に父が大学生だった頃の文庫本やなんかを詰めたものだった。へえ、こんなの読んでたんだ。と、おもしろそうなものを探して漁っていたら、一冊のノートがそこにまじっていた。

日記である。

へええ。

そりゃあもちろん読むでしょう。
…熟読した。

まあね、それほど大したことが記録されていたわけではないんだけど。今はもう具体的な内容は忘れてしまったんだけど。でも。

父の丁寧だけど少しクセのある字で几帳面に書き記された内容は、時代の匂いを色濃く映した、当時の大学生の世相や、その一人だった父の、私の知らない一人の若者の言葉で世界が紡がれていた。 

不思議な気持ちだった。
父は私が生まれたときから大人でパパだったから、パパではなかった時のひとりの人間、ひとりの若者であったパパという現実感はもう、なんといえばいいだろう、考えようとすると世界が分岐してしまうのだ。これはもう別の時空の別の物語。

私の存在していない世界という現実、その設定からして私の存在をすでに超越しているのだからそれは蓋し当然であるともいえる。

ひとつおぼえている。
父の母、私のお祖母ちゃんに関しての記述だ。

 

父は高校卒業前の引っ越しの関係で転校がうまくいかず高校を卒業していない。大学検定を受けて大学に入学した。当然浪人して予備校に通っていた。

当時家は裕福だったわけではなく、祖母は苦労して父を大学に入れるべく奮闘してくれたらしい。その苦労を思う記述を書き連ね、「僕はこれからお母さんにうんと孝行しなくちゃあいけないんだ。」などとジョバンニのような口調でその日記を締めくくってあったのだ。

父は、そんな風な「気恥ずかしい道徳的な正論」を人に向かってしゃあしゃあと語るにはシャイすぎる人である。どちらかというと、ちょっとひねくれたようなものいいで、強がったり悪ぶったり斜に構えてかかる。権力をかさにきた態度が嫌い。自分が上にいて正しい人間であることを振り回して威張ったり逆に責任を持ったりする「大人」であるようなことを恐れる、という印象がある。また上におもねって出世しようとするような心根を最も恥とするような漢気を愛する、いわゆる在野精神を根底に持っている。出世しないタイプである。そして思うにこれは彼が時代劇を愛好する所以である。

…だから私はこの文章に驚いたのだ。

若い時は違っていたのだろうか。社会人になってスレてしまったのだろうか。或いは日記という場所だけに表す秘密の告白めいた一つの本音としてのエクリチュールなんだろうか。わからない。いずれにせよ、思うにこれはエクリチュールの本質としての神秘である。

 *** *** 

私は大人になってから(イヤ精神的にはお子ちゃまのままですが)実は父とは折り合いが悪かった。今、家を出て年月が経って始めてその父の若い頃のさまざまを少しずつ聞く機会を持てたのだ。

来し方行く末を思うこの年末年始、儀礼、お正月、家族。その歴史や物語、巡る螺旋のような一年のサイクル、さまざまの絆の確認と再創造。

 人間として、父としてのたくさんの物語のことを、なるべくたくさん聞いておきたいという思いを持った。私の中にその遺伝子を新たに移植したい、父を個として成り立たせているもののその成り立ちと、自分につながるものとしてそのルーツと分岐点を、私を私として成り立たせている成り立ちと物語の複合の構造、世界との繋がりとあり方の無限の多元宇宙の豊かさとして認識してみたい。すべてはその有機的な関係性の構造の中で支えられ暖かく包まれ、セイフティネットにまもられている…そんな曼荼羅な物語の豊穣の中に存在してみたいなどと思ったりしたのである。

 *** *** 

お正月ってのはそういう特別な思いを抱くレイヤーを常に日常の上位に置いておくための、新鮮な非日常のために巡る儀礼時空間なのだ。古今東西の文化共通の、プリミティヴな、或いは根源的な機能として。…多分ね。

ちょっとダンディでスタイリッシュ、当時の洒落者っぽい嗜好の一つ、父のかっこいいサイン。子供の頃、これ、憧れて自分もサラサラっと書けるようになりたいなと思ったものだった。字がヘタで、いくら練習しても自分にはこんな風なのはできなかったけど。

f:id:momong:20190104015625j:plain

11月補遺・吉田篤弘備忘録

11月週末のあの日の補遺である。
メモに残っていたのでメモのままとりあえず。今年もそろそろ終わっちゃうしね、心残りがないようにアップしといちゃおう。

*** ***

週末は吉田篤弘「雲と鉛筆」と、ふと図書館で手に取ってしまったのでついつい再読してしまった安房直子「山のタンタラばあさん」に救われた。(安房直子さんは私のバイブル、私の切り札なのだ。おいそれと使ってしまってはいけないような気がしている。手垢をつけてはいけない気がしている。)(賢治は構わないのだ。あれはひたすら手垢をつけまくってごりごりにいじくりまわしてこそ。)

吉田篤弘ディレッタンティズムは、基本的におもしろい。

このおもしろさは、だけどそこに完全に同意できないところにあるのかもしれない、などとも思う。

頁を開く。
う~ん、同意、いいなあ、いいなあ、この「モノ」への思い、「物(モノ)」から「魂(モノ)」への振幅から「モノガタリ」をうみだしてゆくような、言語との戯れから意味を見出してゆくような世界との戯れとしての感覚を持つ言語センス、などと思いながら読み進めてたら、あれれ、と不意にかわされるところがある。言葉の表層の微妙さにこだわるからこそズレてくるところがある。おそらく同じことを言いたいんだろう、と思うから、この言語センスのズレから見えてくるテーマが「おもしろい」ところであったりするのだ。「私ならこれをこう言うぞ」「こう見るぞ」などというムラムラとした思いが湧いてくる。(なんだかんだ言って世界観、みたいなのが好きなんだけどね。)(彼の描く「街」の風景だ。ここに住みたい、と思うような。)

例えば。
「見つける。」と「気づく。」は違うのだと作中登場人物「人生」は主張する。(「人生」は眼鏡屋の息子のニックネームだ。いつも「人生とは」と珈琲屋で一説ぶち上げたがるから。)

「AがいいのかBが正しいのか答えを見つける」がテーマだ。

*** ***

「だから、答えは出ない。AでもありBでもある。僕はね、答えがふたつあるものにこそ本当のことが宿っていると信じている。だから、これはこの先、何度も考える価値がある。ただし、答えはどこまでも出ない。答えなんて見つけない方がいいんだよ。」

「でも、どうしてか、みんな見つけたがる。どうしてだろう?」(p67)
「そこに『見る』という言葉が使われている以上、その対象物は自分に含まれていないと思う。『見つけた』と口にした瞬間、見つけたものは自分の外にあると確定される。つながったんじゃない。むしろ、つながっていないことがわかった寂しい瞬間なんだよ(中略)人生には、『見つける』ではなく、もっといい言葉がある。『気づく』という言葉だ。そいつはたいてい自分の内側からピンッと音をたててあらわれる。」「『見つけた』ものは自分の外にしかないが、『気づいた』ものの多くは自分の中にある。」(p68)

 *** ***

多分、ここで私の感じたことと「人生」が感じたことは同じことだ。だが、私はそこにただ「構造」を発見する。わたしにとって世界を感ずることとは世界の構造を感ずることなのだ。そしてここで論点は、自分の外側と内側、主体と世界の関係性、アイデンティティの枠組みの捉え方の違いのところにある。

この文章を読んで私が発見する私の考えは、自分の外側に「見つける」こととそれが自分の外側でなく内側にあると「気づく」ことの区別とそれこそが二者択一的な価値観のもとにあるものであるとツッコむところ、差異の発見による一方の「優位性」ではなく寧ろ「同一性」という可能性のところにある。(作者吉田は、ここに相反する性質としての内外の「区別」をすがすがしさとともに発見している。だがそれはそれ自体がその二項対立の平面の地平にあるということの露見であるともいえる。論理の上では。…多分感じている構造の喜びとしては既に同一なのだが。)このときここで内側と外側の区別は消失する。閉ざされた自我が外側に裏返る。(解放される。)そういう可能性だ。外側と内側の区別が消失する世界と自分とのかかわり方の「発見」(気づき)。
この視点を導入すれば、「人生」が感じた違和感であるところの「世界と自分の分断」が、逆説的に「世界と自分との合一(主体と客体の合一)」という矛盾からの止揚にたどり着くためのきっかけとなる。アイデンティティの解体→再構築、孤独と閉塞の枠どられたエゴから解放された自我へ、二項対立→止揚の論理構造、個と世界が同一である芸術の理想、どちらも否定されず飲み込まれもせず、同時に自在に流動し変容する意味存在でありうる場所、多様と唯一が同じであり、イデアであるところの、そんな柔らかな自我への跳躍の発見である。「見つける」が能動的、支配的、意志的なものであり「気づく」が自然発生的で向こう側からやってくる自発、その「啓示」である性格をもつこともここでは大いに関係があるのだが。

(テクストは、文学とは、常に作者を乗り越えたところへ跳躍するための可能性そのものだ。)

その発見は、あたかも宗教的な悟りのように、いくどでも失われ、いくどでも再発見されるタイプの、アボリジニたちの言うドリーム・タイム、西田幾多郎の主張する無時間の永遠。発見した瞬間だけ存在する、(主体は世界に含まれるものであり、世界はまた主体に含まれているものである、その四次元的関係性の成立するところ。)そのたびに創造されるオリジナルにして普遍の時空間であり、またそのような存在としての、世界としての自分である。演奏されている時だけ存在する音楽空間、読書の現場にのみ生成され続ける永遠、テクストの向こう側。

これが「発見される世界構造」という「できごと」だ。
…って思うんだよね。イヤホントにさ。

11月、12月

11月。

朝の天気雨が上がった後、便りが届いた。
銀杏が色づき始めた駒場の街で、金と緑の朝陽の木漏れ日の中を歩いているよ、と。
「気持ちのいい季節だね、今日もがんばろ、なんて気持ちになるよ。」

そうか。

私は、晩秋の低い朝陽が辺り一面に金緑のひかりを降らせるまばゆい朝のカプセル、その黄金に輝く銀杏並木の風景を思い浮かべた。そのひかりにふちどられて枯葉を踏みながら歩く自分を感じた。カサカサと音がする。枯葉の匂いが立つ。風景に包まれている。

ふいと美というものについて考えた。うつくしいとはなんなのか。

そうだ、ああ、それをまるごと返信として彼女に伝えよう。
そんな考えの周辺のことを。

そう、考えたのだ。
その便りの中の昧爽の歓びの正体のことを。またそれを表現しよう、伝えようという衝動の持つ意味のことを。

時間と空間と世界と主体がひとつであるというその認識=感覚。美と呼ばれるものが真善美と並び称されるものが、実は三位一体としてひとつのものであるということができると悟る瞬間の永遠、その感覚の周りを言葉は巡る。己の枠を超えて伝えたいという衝動をもそれは内包している。

主体と客体が融合したところにある、次元の超越。その、世界と一体であることを体感する場所のことを美と呼ぶのではないか。

草枕」での漱石の芸術観を思い出す。対象と一体となること、主体の無化による芸術の成立、という、これはひとつの命題だ。(ここで美は芸術は、学問や科学と呼ばれるアカデミズムと両輪をなし、(それと等価であり)ともに真理、宗教と三位一体としてイコールである。)

そしてそれらは必ず「表現」されなくてはならない。
それは、書かれなくては「なかったこと」になってしまうのだ。

 *** ***

私は朝のニュースを眺め、あれこれと社会の難しい問題を語る人たちの議論を眺め、そのいちいちの真面目さにいちいちうなづいて困っていたところだった。
もっとも惨たらしい事件は人為により、あらゆる問題の難しさはすべて人的災害、人為であることによる。

めんどくせえなあ。

天災はすがすがしいほど圧倒的で難しさの入り込む余地はない。人はみな最も純粋に容赦なく、そして美しい生死を認識したものとして原初の生命に戻ることができる。この上なくシンプルで、難しいことは何一つない。非常にそれは残酷であり、けれどそして例えば太陽の輝き、海の青さ、生命の歓びという美の恩寵(美とは生命の歓びであると仮に定義しておく。)も、友愛の義の純粋も実はそのうらがえしであり、アナロジーとして等価である。絶対性なのだ。(友愛や正義に関して言えば、それは物語であり、ただ祈りに過ぎないものなのではあるが、また祈りであることによって実存からの真実でも有り得ると私は思っている。)

めんどくさくて難しい。
難しいのは嫌いだ。世界はもっともっと簡単であってよい。己の無力と無能が全く苦痛の意味をなさないところであってよい。

みんながそんな風に思えばさ、もしかしたら、もっとゲンジツは簡単で有り得るんじゃないかと思う、もっともっともっともっと。

クリスマスソングを聴きながら思う、11月を思い出す12月。

天災だろうと人災だろうと、招かないで済むことになるはずだと思う。
あらゆる難しい考えはそのうつくしい「簡単」に行き着くためにある。

ジョン・レノンが歌ったように、12月に殺された彼が歌ったように。(オレ、この歌のキヨシロヴァージョンも好きよ。)(リンクのyoutube、レノンのあと、キヨシロが歌ってるよ。)

IMAGINE。

f:id:momong:20181213004229j:plain