酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

酔生夢死DAYS

一日じゅうがらんと冷たい海の底にいたのだ。
蒼黒い底なしの虚無の海。

どうして生きてるのかわからないくらい悲しく寂しいと思っていた。そう思いながら、遠い世界の幻のようなげんじつ、この視界に映る幕一枚向こう側の書割の世界の中、にこにこと笑い普通のひとのような顔をしてすべてに対応し話し社会のパーツを演じる自分を眺めながら一日を過ごした。(結局すべての人はこうして日常を支え合いながら生きているのだ。カミュのペストのあの街のように世界から「追放」されない限り。)

 

夕焼けが訪れて陽が落ちたら酒を飲む。部屋の中をまっすぐ歩けないくらいになるまで飲む。

うつらうつらと浅いうたた寝のあと、まだ夜が続き自分の部屋があることに驚き、己の穏やかな気持ちにおどろき、PCのディスプレイの中に思い出の友人たちが現実であるように見えたことに驚き、その穏やかな幸福に似た安堵に驚き、また飲んでは眠る。

今日は母が笑ってくれたので翌日の黎明を目前にしたこの時間にわたくしはやっと灯りを消して眠る。昔のことや、今日確かに街のカフェのクリスマスは私に温かったことを私の内側に確認し思い出して眠る。

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朝が来る前にきちんと眠るのだ。

あんなに寂しくて虚無と絶望の海の上澄みに存在しながらけれどその上に太陽が昇り知己がいて、とりあえず今日食べるものがあって眠って起きる部屋があってわたくしはほんとうに幸せだ。生きているのは奇跡なのだ。幸福なのだ、恩寵なのだ。酒のおかげで生きている気がするのはきっと幻想だろうけどな。おやすみなさいきっとまた復活の明日は来る。

また夜明けにはおきてさまざまを精一杯演じ創造しなければならぬ。できるだけ。それが続く間生きる。深奥に宿酔いを宿して生きる。酔生夢死DAYS.。

カミュ「ペスト」

「100分de名著」カミュの「ペスト」録画やっと観た。

「100分〜」はレヴィ=ストロース「野生の思考」テーマのとき初めて観たんだけど、それっきりで随分ご無沙汰してた。今回なんとなくどっこいしょー、と、久しぶりに溜め込んでた録画番組消費にかかったんである。週一でひと月分、全四回。

この番組やっぱりいいなあ。
カミュは「異邦人」しか読んだことないけど、初めて読んだときは予想外の面白さにびっくりしたんだった。

番組観だしたら、…やはりカミュってこんなにもすごいもんだったんだな。初回からぐいとつかまれた。そして二回目、三回目とビシビシツボにはまってしまってだな、これがもうじいんと胸に来てしまうレヴェル。

はじめて「異邦人」読んだ時も確か冒頭からもういきなり魂消たのだ。(これはあまりにも有名な最初の一文、っていうだけの意味じゃないよ。最初の数センテンスっていう単位で。)(「きょう、ママンが死んだ。」っていうアレは確かに訳文として衝撃的でカッコいいんだけど、文学としてオーソドックスに考えると、「ママン」っていう日本人にとって洒落たお坊ちゃん的なお仏蘭西お洒落イメージがあるのでちいと違うのではないかとも言われているという。それと、「死んだ」の切って捨てる荒々しさのあの衝撃の組み合わせの訳の独自性は、原文にはないニュアンスであって、「母」や「母さん」の方が原文に近いニュートラルなものだってね。まあ確かに。)(だけど訳文としてあの「つかみ」はやっぱいいと思うなあ。)(「ツァラトゥストラはこう語った」っていうより「ツァラトゥストラかく語りき」のほうがいいやん、っていうのと同じレヴェルで。)(訳のセンスのレヴェルなのだ。お洒落とか雰囲気とかそういうものだけじゃない。《そういうのもあるけど》「ママン」という甘いフランス菓子やフワフワした少女趣味なイメージが喚起された後たちまち「死んだ」と断じる、その切って捨てるような落差による主人公の語りのスタイルの提示、その切れ味、「こう語った」ではなく「かく語りき」と行ったとき現代の読者に与える印象はツァラトゥストラとの距離感の演出、それは既に言葉の「意味」の違いの範疇であるから。その「格調」とは。訳のセンスってのは文体のかたちを造形するスタイルを示すものであり、二次的ではあっても、いや二次的であるからこそ、ある意味創作でもあるから。「批評」と同じでね。)(異邦人、いやカミュ作品に共通する「母・ママン」への特別な思い入れの意味に関する視野に入れた「解釈」をそこには読み取ることができるっていう可能性のことだ。)

外国の名作なんてさ、そもそもの文化が宗教が言語が文法が違うんだから思考スタイルの基盤からして違う、見てる風景が違う世界が違う脳みその構造が違う、圧倒的他者だ宇宙人だハナから理解なんかできん、永遠にひたすらわからんのだ。その文化の産物を面白いと感ずるとすればそれは異国人から見たエキゾチシズムに対する嗜好によるものであろう。

…って思い込んでた自分には衝撃のおもしろさだったのだ。やっぱりね、カルチャーも思想基盤も確かに違う、理解できないとこが大きい、それでもエキゾチシズムとは異なる、それを越えたところにある、何か共通の問題意識を感じ、その衝撃を受けとることができる、その不条理への怒りのような思いの激しさへの共振に、その世界に対する視線と視点への共振に、己のその感動に対して驚いたのだ。魂からくる共振。その他者とのつながりの新しい可能性の発見に対して驚いたのだ。

 

それにしてもしかし、この「ペスト」の登場人物たちのものすごいかっこよさったら。…かっこよすぎる。(自分にとってかっこよすぎるとこは「異邦人」と対照し補完しながら考えていくとしっくりと納得できて一層面白くなる、ような気がする。つまり、「異邦人」で壊したものの再構築が「ペスト」である、という読み方ね。)(飛び立ち、舞い降りるというか死と再生というか破壊神シヴァから創造神ブラフマーへの螺旋というか。)(まあ創造維持破壊は元々世界存在そのものとしての神さまで三位一体だから分けられない、全てが全部っちゃ全部だけど便宜的にペルソナが。)(だってそれを言っちゃあおしまいよ。)

ここでこの指南役専門家、解説者が独自の用語をわかりやすくほぐしながら押し付けることもなく解説してく雰囲気もイイ。中条省平さん。マンガの解説本みたいなのも出してるんだね。(セールの電子書籍であったからついつい購入してみたけどこっちの解説はあんまりピンとこない。多作品を紹介して並べ立てただけでちいと概略的にすぎる印象。)なんとなく、さもありなん。(漫画への差別のない理解がさ。)そしてかっこいい憧れの書斎風の部屋で、古めかしいタイを結んだかっこいい青年が朗読する感じもイイ。

どんな番組かっというと、こういうのです。番組HP。

「ペスト」読んでみなくちゃなあ。

…と、さっそく図書館から文庫を借りてきて、ぢみぢみと読み始めてはみた。

読み始めてはみた。
とはいうものの。

結構な長編で古い直訳的翻訳のせいかとてもとても読みづらい。文体自体読みづらい。わかりにくい。名訳とはとてもいえない。まあ原作ももともと理屈のこね回しかたがすごいものなんだけど、いかにも仏蘭西語的な言い回しも思わせぶりで翻訳調なじむまで大変で、これはもちっとどうにかなるんじゃないかブツブツ…。と文句たれつつ、まあ長く辛いその世界の現実を味わわせるように、と言えばそんなもんかねい。文体は慣れだしな。(異邦人の方が短いし、やっぱり純粋におもしろく読めるレヴェルであったと思う。)(最近長時間脳みそがもたないのよオレ。)(TVみるのもおじゃる丸NHKの朝のドラマの15分が限界。)

まあね、とかなんとかいうことでとりあえず放送四回分、番組の印象、自分のための読書の手引き用メモを指標にしつつ、膨らませる企画をもって、一読の備忘録的な記録。(こればっかりいってるけど、いつかきちんとしたもっとまとまったわかりやすいかたちにつくりあげてみたいものだ。)

 

★放送第1回 「不条理の哲学」

ペスト(災厄)のはじまり。
鼠が狂う。人が倒れ始める。

社会システムがこの未曽有の事態に対応しきれず泡食って混乱しているうちにあれよあれよと災害は拡大し、強制的に街は封鎖される。(逆ベクトルな表現ではあるが、この「封鎖」閉じ込められるこのイメージは、カミュ的解釈によると、世界、社会システムの内側から外部へと「追放される」ものである。)(ちなみに一般にこの「ペスト」という災厄はナチス占領という災厄の暗喩と言われている事態である。)

旅行者ランベールの一見エゴイスティックな幸福(自分は旅行者だからこの街の災害とは関係ない、自分は恋人とともにフランスに生きるべき者だ、逃がしてくれ。)とそれを阻む医師リウーの社会的正義・理想抽象論の衝突。

リウーの言葉は「抽象」であるとランベールは批判。個人の幸福を侵害する「抽象」という意味合い。

ここで「抽象」とは何か?

「ペスト」は抽象である。リウーの正義、理想論もこれしかり。
相対する概念は現実、実際としてのランベールの個人としてのリアル、具体としてのその個的な幸福、一人逃げて恋人と暮らす。(リウーは本当はどこかでランベールの「正しさ」を認めている。法的な社会正義より個人の幸福の方が「正しい。」)(だが「抽象と戦うためには多少抽象に似なければならない。」と考える。)(新潮文庫p133)

ペストによって引き起こされる対立の図式としては、これは「個々人の幸福(家族揃っての日々、続いてゆくはずの日常の暮らし、個々の人間の間にある愛情)V.S.社会正義(ペストの宣告・患者隔離<殆どこれは死の宣告に等しい。>」にあたる。ここではもちろん前提となる「個々人の幸福(具体)V.S.ペスト(災厄、不条理としての抽象)」という図式はあらかじめ成り立っているものなのだが、この先に、リウーの呟く、社会正義(抽象)V.S.ペスト(抽象)という第三の図式もまた存在することになる。

抽象対具体(≒実存)(いや、「実存」とはこの二項対立のアウフヘーベンへの志向性をもっているというべきではある。)、この二項対立はさまざまなヴァリエーションで高く低く変奏されながら、いわば作品の理論の柱として終始謳われつづけているテーマとして読むことはできるように思う。

 

★第2回 「神なき世界を生きる。」

ピックアップされるパヌルー神父の意味。(パヌルー神父とは「抽象」が「真理」となるところである。新潮文庫p134)

彼の主張「ペストは神の審判のしるし」。これはいわば、反・実存(反・リウー・タルー側)とでもいうべき主張である。(後述するように、これが劇的に変化してゆくところが作品の読みどころである。)

あらゆる「不条理、災害」が天罰であるという論理。罪が罰される発想。逆に言えば神によって救いはある。ここでは真理が実存に先立つ。或いは優先される。論理としてはすっきりとシンプルに閉じられて完結している。「ほころびはない。

さてそしてここでもうひとり、医師リウーやランベール、パヌルーらといった信念をもつひとたち、今まで触れられてきたこれら主要登場人物とは対照的な、非常に興味深い登場人物がクローズアップされてくる。

密売人コタール。

小悪党である。が、彼の印象はある意味善良ですらある。平時には自殺未遂までする個人として背負わされたものである罪と罰の苦痛に苦しんできた者が、公に天から降りかかってきた災害、すべての人に等しく天から下される罪と罰の試練、ペストによって皆が己と等しい立場のものとなる、という状況のもとに、逆説的にそこから解放され救われるこのコタールの存在の意味。(これはすごい。)

「しかし、結局、ペスト以前にだっておんなじぐらい危険はあったんですからな、往来の激しい四辻を渡るときなんか。」(新潮文庫p214)

死の危険の確率なんて、日常という物語の中では隠蔽されている、したがってその物語から「追放された」ところで初めて気づくもの、その発見、あるいは意識するかしないかの違いに過ぎない、いわばペストの恐怖が抽象に過ぎないものであることがここでは看破されている。

個人的に、このコタールの存在が最もすさまじく気になるのだ。
リウーやランベール、パヌルーやタルーは抽象やそうでないものについてひたすら考えひたすら正義を求め正しい道を求め論理を求め、それ故に不条理に苦しむ、いわば求道者だ。

コタールは違う。
彼は、「抽象」に惑わされるプロセスを持たない。

(グランもまた対極の位置をもって抽象に惑わされない立場をもつが、これは己の人生に対してコタールと全く同じ態度をとっているといえるのではないか。)(構造として。)

彼は長い間その罪と罰の不条理とともに生きてきたことに極めて自覚的だったために。「後述するここでの特徴的な『モラル』の意味がグランとコタールを分かつものとなる。単純にいい人悪い人、自己犠牲エゴイスト、あるいは殊更な美学や正義という問題系から完全に離れた、無色の、純粋な論理構造としての「モラル」だ。」

結局最後には狂人となって銃を乱射し逮捕されてゆく寂しい結末を迎える彼もまた何かの犠牲者ではある。見捨てられた、世界から追放された恐怖と寂しさを体現するひとつのかたちである。

ペストの終焉(ナチス占領からの解放)の祝祭の中で破滅を迎える彼と、新しい日々の暮らしを再生しようとするグランの「同じ場(同じアパート)(解放による歓喜の祝祭に参加できない者たちの不幸な空間の象徴)にありながら生死を分かつ」イメージもまた実に論理的である。モラルの分かつもの。ペストからの解放の際、共に幸福を得られなかった者たちの、しかしそこで分かたれる生の明暗。


★放送第3回「それぞれの戦い」

パヌルー。タルー。リウー。グラン。それぞれがそれぞれの道でそれぞれの正義を探し、災厄と闘い、身の危険を顧みず献身的に奉仕する。

そしてオトンの息子・無垢な子供の激烈な苦しみと死、そのあからさまな不条理の露呈に出会ったときを契機として、それぞれの反応が劇的に論理展開してゆく。(人を裁く判事オトンの平時の冷ややかな俗物ぶりと、ペストに冒された息子への素直な愛情の吐露されるその極限状態の描写の対比は非常に印象的で…美しい。)(彼もまた献身に走るものとなる。)

神と罪と罰と。存在の辿る「道」(道義)ともいうべき命題の周りを彼らは巡る。

リウーは神の論理を打ち砕く不条理に直面し、打ちひしがれるパヌルーに告げる。「われわれは一緒にはたらいているんです、冒涜や祈祷を超えてわれわれを結び付けている何ものかのために。それだけが重要な点です。(p322)」

抽象や真理を超えたところにある実存を彼は語る。このあじきない実存を。だが。そこには真理や正義を超えた救済のために働く至高と信じられるものがある。パヌルーはここでリウーを、そのまるごとを認める者となるのだ。

カミュ作品で思うのだが、皆がそれぞれになんというか、恐ろしくまっすぐなのだ。人生に対して誠実なのだ。悪役、愚かであるだけの人間というのはいない。

そうだ、実際、そうなのだ、だから素晴らしいと思うのだ。
すべての人間に仏性を見る、むしろこれは仏教的ですらある。後述するが、カミュの思想のなかで宮沢賢治の思想に繋がってくるものがあるのもこう考えると宜なることであるかもしれぬ。

言わばこれは、金子みすゞ「みんな違って、みんないい」という命題をもっともっと辛口というか鋭く描き出そうとしている。(ここでその「みんないい」は、「みんなだめ」がそこに等しくあるところから始まる、意志としての「みんないい」だ。)さまざまの正義の、倫理の相対性のことを。まさしく賢治が苦しんだその倫理の相対性のことを。もっとも難解なこの問題を。


…パヌルーもまた鮮烈な印象をもつ思想を代表する者なのである。抽象と真理に殉じようとする側の者。だがそれはオトンの無垢なる息子の理不尽な苦しみと死のあまりの残虐さに直面してから、彼の第一の説教であらわれた理論のようにリウーの「実存」を否定する形をとれなくなる。これはペストが猛威を奮っている最中に激越なる痛みを伴った生きた血の流れるような説教が行われる形で示されるものだ。凄まじい極限状態における、その鋭くなまなましい具体を踏まえた上での「抽象」。ここで最初の高邁な説教においては民衆に「あなたがたは」と語りかけた主体パヌルーは「わたしどもは」と語るものとなる。ここで初めて論理は、抽象は、その身から発され己に帰する実存と一体化した命あるものとして打ち立てられはじめているのだ。

「異端すれすれ」とリウーは思う。いや暗に示されているように、彼の最後の論文(パヌルーは神学者だ。)においては既に異端であるところにある極限の信仰、そして殉教。この殉教のかたちも見事な描き方がなされる。

ペストによっての死ならばパヌルーの勝ちだ。彼は彼の神に選ばれている。
そうでないならば、彼の極限の抽象、真理、信仰、その血を吐くような説教に…彼の生涯は関わらない、意味に添えない。

そして、彼の死因のカードにはこう書かれる。「(ペストかどうかは)疑わしき症例」

この辺り、実に絶妙なんだなあ、カミュ。物語の論理は決して閉じることのないほころびを残したまま描かれる。開かれたまま、その思考のたえざる連続が読者に強要される。連綿と、その思考の遺伝子が受け継がれてゆく。テクストは常にダイナミクスの中にある。それは強要してくる。読者に、アンガージュマンを。考えろ、選べ、意志を持て、と。

文学ってすごいのだなあと急に思ったりするよ。(すみません文学部出身ですが。)

今の時代にも、というか今の時代だからこそどんぴしゃだ、という問題意識がざりざりと心に鑢をかけてくる。いつの時代どこの国でも通じるところがあるからこそ名作と言われる所以なのかもしれない。

極限状態における人間のエゴイズムを真っ直ぐに見つめる冷徹さと絶望と(いかにも仏蘭西人的な「仏蘭西語的な」」皮肉なものいいで語られる言葉。)、それでもその上でなお人の性善に似た正義への思いを信じる言説を綴る、その同じ筆が描き出すこの「実存」という思想のことを考える。すべては、ただ当たり前にそこにある。

万感の思いと無関心の振幅のなかで語られる言葉は、例えばまず春樹の言う「それだけのことだ。」と同じ性質をもつ語りである。これは「ほころび」なのだ。そして結局ここで切って落とされた後の余韻は必ずどこかで引き受けられなければならない。読者に、そして、矛盾しているようだが、あるいはそれは膨大なその作品全体の言葉がそれにあたるのかもしれない、ということを思う。

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「しかし、筆者はむしろ、美しい行為に過大の重要さを認めることは、結局、間接の力強い賛辞を悪にささげることになると、信じたいのである。なぜなら、そうなると、美しい行為がそれほどの価値を持つのは、それがまれであり、そして悪意と冷淡こそ人間の行為においてはるかに頻繁な原動力であるためにほかならぬと推定することも許される。かかることは、筆者の与しえない思想である。世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりむしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。」(p192)

「ペストがその仕事ぶりに示した、実効ある公平さによって、市民の間に平等性が強化されそうなものであったのに、エゴイズムの正常な作用によって、逆に、人々の心には不公平の感情がますます先鋭化されたのであった。」(p350)(生活必需品、食物の価格が高騰し、貧富の差が広がる。儲けようとするものが儲けつづけ裕福な家庭はなにも不自由しない。ここには死の平等だけがあった。)

 *** ***

そしてタルー。彼は、はてしないペストとの闘いの極限の疲労の日々の中で、ある日、同志・盟友、リウーに語る、己の「内なるペスト」。その告白。

「内なるペスト」とは、その意味とは何だろう。
(番組では、いじめる人間とそのいじめを放置する者の比喩で語られる。)状況を放置するところに己が既に加害に参加した事実がある。彼は、己がその加害の側に立っていることの苦しみを、判事であった父親が他者に死刑に宣告するシーンを目撃したところから常に抱いてきた。タルーはその「加害」という抽象された悪を「ペスト」と呼ぶ。あらゆ悪徳、悪しきもの、あるいはわろきもの。…そう、悪しき、というより、わろきもの。それは、巨悪であるというよりも、よくない、というだけで加害の一端を担っているというリアリティなのだ。その父の罪によって幸福に育てられた己の存在の自覚。

 

…この苦しみの形は先に予告したように、宮澤賢治にもよく繋がるものだ。裕福な質屋の息子として生まれ、その質屋が貧しい農民から搾取するようにして豊かに暮らしている、その加害の側に立ちそれを享受している己の存在の罪の苦しみが賢治を社会変革への志へ、そして最終的には自己犠牲的な行為へと駆り立てた。

タルーと同じ行動パターンである。タルーは若き日に家を飛び出し、正義を求めるためにゲリラ活動に参加した。そしてそのイデオロギー同士が、正義を求める心同士がぶつかり合って果てしない殺し合いになる地獄を味わってきた。「抽象」の倫理が人を殺すその現場の生々しい「リアル」。「倫理の相対性」への苦しみである。

「僕ははっきりそれを知ったーわれわれはみんなペストの中にいるのだ、と。そこで僕は心の平和を失ってしまった。(p375)」

「ペスト=災厄」の現場において、犠牲者となるか、加害の側に立つ者になるか、その二択なのか?…第三の範疇を彼は医者の立場に求めてゆく。それが一見自己犠牲に近い行為になってゆくのだ。生きたまま聖者になりたい、と彼は語る。

リウーがペスト(災厄)と闘うその第三の選択をなした「医師」であり、タルーの選んだ「道」としての盟友となってゆく理由がここにある。

 

「まあ、そういうわけで、僕は、災害を限定するように、あらゆる場合に犠牲者の側に立つことに決めたのだ。彼らのなかにいれば、僕はともかく探し求めることはできるわけだ。どうすれば第三の範疇に、つまり心の平和に到達できるかということをね。(p378)」

 *** ***

「異邦人」は、主人公ムルソーの個の視点から語られていた。彼は社会の内部に仕込まれた不条理をあぶりだし、その目隠しによって成り立っている社会の虚栄からあらかじめ排除されている己の存在の形に誠実であろうとした。ここではただ「<システム(世界、あるいは社会、論理、倫理、ー(物語)>V.S.<その外部>」の二項対立がクリアに成り立っていた。そして、ムルソーの強い感情によって、この作品では<その外部>へと飛び立ち逃れていこうとする偏向が強かった。

だが「ペスト」では、一種そこからの揺り戻しが見られるのではないか。

「異邦人」は、システムの外部へ、すなわち、ムルソーの意志的な追放の享受、死の方向へ投げ出されたままのところで終わった。この「ペスト」では、ここから新たに再び新しく世界の内部に舞い降り立ち戻り(…言わば生まれなおし、)あくまでもその中で(また己の内部で)(内部に含まれている己の「永遠の敗北」の中で)それと闘い続ける術としての知を語ろうとする。そのためには、前者のような個の中に完結することのできるひとり語りのドラマではなく、この「ペスト」のような倫理の相対性をなんら裁くことなくただ描いてゆく多面的な群像劇となる必要があったのだ。…おそらく。

 

★放送第4回(最終回)「災厄の終焉」

唐突なペストの終焉。人々の狂気乱舞の祝祭と傷跡に打ち沈む損なわれた人々の対照、そのこもごもがリウーの足取りから描かれる。

(この部分は、一般に、ナチス占領からの解放の描写としての解釈で読まれている。これはしかしやはりあくまでも抽象としてのペストからの解放であり、作品においてナチス占領という「具体」は可能性のひとつであるにすぎないと考えるべきである。…のだが。この部分の描写はナチスからの解放であるとしか読めない、とも思われる筆致である、とうかそう言われてもまあ仕方がないくらいのあからさまになまなましすぎる感情的な描写があることに間違いはない。ものすごい思い入れと理屈っぽさである。難解というかたくさんの論理がやたらめったら投げ出されていてものすごく読みにくい。前述したような抽象ー具体やなんかの、カミュのこの作品における理論のおおまかな骨組みを押さえてからその「たくさん」を解きほぐしていくべきなんだろな、研究者にとってはそういうのがおもしろさでもあるところだろうから。)(その「たくさん」はそれぞれがそれぞれものすごく深く掘り下げられるはてしない曼荼羅なものである。)(あまりにも大風呂敷になっちゃうから今できないけど。)(いっつもそんなことばっかり言ってるけど自分言い訳大王。)(いやだってさ、今お手洗い行こうと立ち上がったらまっすぐ歩けないくらい泥酔してるし。)(しゃべったら呂律もまわってないぞきっと。)(深夜ガソリン入れて勢いつけないと書けないんだから仕方がない。)(ガソリン=アルコホル)(そういや大学院の時の先輩は「オレ爆音でアイドル聴きながらじゃないと書けないんだよ、論文。」って言ってたな…。)(それもどうかと思う。)

終焉。やがて封印されてしまうであろう、一時は共有された人々のリアルな痛みの記憶のことをリウーは思う。タルーと妻、愛と盟友。個としての愛と救いをペストによって失い、一個の悲しみの闇となって、周囲の明るい解放の春の祝祭のなかを、いわば春のなかの修羅のようになってその万感のなかを歩きながら。

その終焉から新たに始まる終わりなき戦い、反抗。連帯。(語ること、忘れないこと、封印しないこと)…全てはリウーの「書く行為」へと収斂してゆく。その決意表明。

第三の選択、究極の救いへの道を探るべき、災厄を癒す者「医師」リウーはここで「書く者」へと収斂してゆく。

ここではじめて明かされる隠されていたこの文章の書き手の、その種明かしの意味はそこにある。忘れられてはならない、常に潜んでいる、永遠にいつでも襲い掛かる準備をしている、その災厄、ペストの記録を、記憶のリアルを過去とこのとき当事者の鎮魂のために、未来への思い祈りのために。それが「知」であるというところへ。

 *** ***

ところで、おまけというか、おう、と思ったというか。
さすが仏蘭西文学の専門家、語彙の翻訳についての考察も大層おもしろかったことを付記しておきたい。

モラルという言葉は、日本語では道徳、倫理、といった意味合いで訳されるが、モトはラテン語で風習、生活習慣、そして、「道」。ギリシャ語のエートスに近い意味合いを表すという。…これは深い。

倫理、というのともまたそのニュアンスが、意味の範疇が、微妙にズレている、異なっているのだ。翻訳と、その語のそれぞれの時空での意味の広がりの多様…そうだ、ああ、実にこれが言葉の、文学の、無限の深さ、豊かさ、面白さなんだよなあ。

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ベランダから、秋の夕暮れ。

学生時代

週末が来るとY君は私に聞いた。

「今週はどうする?」

「う~ん。」
しばし考える。

 

…と、彼はひんやりとした寂しい顔をする。
あれ、と思う。

どうして?

「考えるんだね。」

いやだってさ、来週のレポートのこととか友達との約束とかおうちで本読もうかなとかいろいろあるやん。デートもデートだけどさ。どっちが正しい過ごし方か。

「君はいつも計算してる。」
「オレはまず最優先でキミと一緒にいようと思う。すべてはそこから展開できる。だけどキミはどっちがいいか計算するんだ、いつも。」

ものすごく寂しい顔をする。私はこの顔に弱かった。

非常に遺憾に思った。不当な非難であるように思った…だが言われてみるとそのとおりだ。あのひとは聡明な人だった。その指摘は正しかった。

いつだって私は合理的に行動しなければならぬという計算をしながら生きてきた。強迫観念のように、生活のあらゆる局面で。

 

だがおそらく私は間違っていた。間違っている。
少なくともこいびととの関係性においては。

だけどやっぱり仕方がなかったのだ。

と、何十年も経ってから思っている。澄んだ夜空、秋の虫の鳴くオライオン。
おもしろいな、切ないな、いいもんだな、寂しいな、詮無いな、生きてることは。

文体

文体というのは音楽や香りに似る。


その、文「体」というスタイル全体を覆い支配している見えない気配、いわばその「体」に憑依した魂、そのオリジナルの「法」としての「行間」のようなもの。享受者の感官がそれを感じた瞬間に、五感をすべて巻き込みそこを超えた次元を読書の現場に生み出すもの。

香りが記憶を呼び覚まし音楽が魂を別世界へと連れてゆく。世界の色が変わる瞬間がある。言葉も同じだ。意識野に上る言葉、その音韻の響きの向こう側に共振する恣意として設定されたはずの意味の、その共鳴の響きによって世界の色を変える。音韻という形而下フィールドと意味の形而上フィールドの狭間に危うく存在する、文体。…私はおそらくテクスト、というもののことを語っているのだ。そのリズム、そのスタイル、そしてその志向するあてさき。シニフィエシニフィアンの統合されたところにうまれる衝撃。ヘレン・ケラーが叫び出さずにいられなかった、世界が発見されたときのその激しいリアル。

言葉の力。文体の個性。見えないところに潜む、その捉えがたいかそけき気配のようなものこそが、世界を救う革命をひそませているのではないかと思うのだ。

 *** ***

文体に限らず、一般に、大きな力を持つものは、そのすべてが捉えがたい気配のようなところにこそ力の本質を秘め持っている。どんな既成の論理や権力でも支配できない予測不能な方向性をもった、そしてけれど確実に世界が必要に迫られた何らかの方向を指向している切迫したその力。個々から発されるかそけき気配であっても、けれどそれはやがて確実に大きな力を以て何人にも抗いがたいものとして目に見える形として実働してゆく。換言すれば、それは論理化されない、それ以前の、そこからはみ出た外部、マトリックスの力を示すからこそ、既存を破壊する革命の力を持つのだ。

それは未だ名付けられることのできていない力のことをいう。論理は、知は、すべてをそれを後追いするべきものである。実存、存在とは本質或いは真実という抽象、物語に先立ってあると考える実存主義に立つ必要がある。まずは必ず。それはとりあえず、そう…命題なのだ。(ちなみにこの発想、あきらかに今カミュに凝っているところから来ていると自覚している。)

世論、大衆しかり、経済しかり、政治しかり。そして、天災しかり。ひとときそこに君臨してみせるどんな権力者も「今をときめく」一刹那を得た後は凋落あるのみである。(政治が論理で動こうと宗教で動こうと占いで動こうと、結局は同じことなのかもしれない、というようなことすら思う。それはただ権力に名付けられた名前に過ぎないのだし。)

万物流転。固定された論理による永遠や絶対はない。彼は「とき」を得ているのではないのだ、たまたま符号が一致したという理由で、その「とき」に得られているのだ。他の多を支配している一ではないのだ、他の多に共鳴した象徴としての一なのだ。その一と多の関係性、ひとときの蜜月のパ・ド・ドゥ。そしてそのときの一なる彼である支配的論理はやがて崩れ去り、次なる形へと流転してゆく。諸行無常とはよくいったもんだ。そして行く水のかたちはかわらない。

世界とはそもそも単一の論理では捉えきれないものなんだから、というとこから考えればまあ当然と言えば当然なんだけど。その当然とは、すなわち各々の論理のもつ死角、あるいは敢えて目をふさいでいる概念以前のところに秘められあるいは仕込まれた「ほころび」のようなものからくるのではないかな、と今私は考えている。ほころびから次の新しいものがやってくる。

まあそこでだな、その「空気」を支配するもの、「いまをときめく」の「とき」とはなにか、という問題で、類似する構造をこの「文体」というテーマに感じたのだ。とりあえず権力の話とは離れてね。


 *** ***

次に何読もうかな、の日の夜、あまりにも異なる文体の本を次々開いてしまって、なんだか唐突に新鮮なショックを受けたのだ。それでこんなことを考えたんだ。

そう、わかってたことでも何度でも新鮮にショックを受ける。「読書の現場」的なるもの、その現場性とはそういうものだ。いつでも現在として立ち上がる神話としてのテクスト。そういう意味で読書とは儀式である。

そしてそれらの文体からかぎ取ったものについて思考の触手をのばし自分の頭で考えることができるのもそういうときしかない。瞬間のリアルもまた何度でも失われる。概念化されていない源泉に触れ、そこに生きる時空を得る瞬間。それは無時間であるがゆえに瞬間であるが永遠でもある。絶えず失われ続けながら絶えず形作られてゆく、世界の、「現在」の、「存在」の生のかたち、リアル。そのとき、同じ構造の概念が何度でも新しく立ち上がる。幾度でも新鮮に、存在が耐えられないほどの破壊力をもった新鮮さを孕んで。

ひとはそれを「きちがひにならないため」に「がいねん化」しなければならなくなる。

これは賢治の言葉だ。「青森挽歌」。

この詩(作者曰く「心象スケッチ」)の以下の引用部分は、愛するものを失った激しい喪失を表現したもので、単なる読書体験とは比べ物にならない、というかもしれないが、その激烈さの度合いを度外視すれば、認識の構造それ自体としてはまったく同じものだ。感ずることと概念化することの関係性からいえば。そして読書行為とは言語による世界認識行為のひとつのアナロジーである。

「感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
  それをがいねん化することは
  きちがひにならないための
  生物体の一つの自衛作用だけれども
  いつでもまもつてばかりゐてはいけない」


 *** ***

さて、で、文体とは何か?
というところから、文体分析についてである。

些末な言い回しや語尾の傾向、多用される単語等、具体例を挙げて分析してゆくことはもちろん可能である。そこから全体像を描いてゆく手法。それはあるいは細かなデータ数値から全体像へと精緻に積み上げてゆくミクロ経済学的なるアプローチに似ているものかもしれない。そういうベクトルを持ったミクロ視点。(経済学上でのこの厳密な意味は知らない。素人の描く大雑把なイメージね。)

(こういうパーツを組み上げる才能、びっくりするような文体模写の技術を持った人っている。有名なのでは水村美苗漱石模写とか、春樹の言い回しのパロディとか。)

だがそれはやはり全体像ではない。初めから直観としては既に完全に感覚されているものであるその「そのもの全体」、色、匂い、音楽、触感、感情、その感覚。既にあらかじめ存在しているものを「概念化」によって存在証明していこうとする、天体の発見や数式による世界の法則の発見のプロセス、その在り方にそれは似る。作品世界という具体を産みだす力であるもの。要素によって積み上げただけの作物では、どこかひとあじ、あるいは決定的な核心が損なわれている。誰にもそれが一体なにであるかを論理として指摘できないとしても。

…その時ほんとうに描かれている完全体としての全体像は、マクロ経済学的なレヴェルでの大局、というある種の飛躍、ジャンプを孕んだ上での積分結果である。構造的に、その存在成立過程の記憶にどこかミッシングリンクを組み込まれているマクロ視点。逆に言えば、その構造には「ほころびが仕組まれている。」100パーセント、あるいは絶対、あるいは真理というものが存在しないことと密接に関連しているところのもの。

或いはそれはゲシュタルト理論。必ず要素プラスα(飛躍要素)のある直観を孕んだ(それは外部への亀裂、あるいは「ほころび」の内包という意味でもある。)ものとしてのアプリオリな全体像。

それが文体だ。

「体」をもった文章の、そのスタイルに瀰漫する「法」の中での物語に没頭し支配されつくした後、ふと顔を上げ、己の置かれた現実という物語を客観化する瞬間がある。それはどこか、奇妙な午睡から夢から覚めたときの不思議な気分に似る。一瞬「イマココワタシ」がまったくわからない不思議な気分。生まれたての不安。世界が異様なリアル、物語以前の裸の無意味の塊に見える。「違って見える。」…違和感。これはまさにロシア・アヴァンギャルドの主張した「異化」効果である。

主体自身が含有されている「現実」とされる恣意としてのひとつの世界認識構造、その成立の前提自体を対象化、可視化、相対化するギリギリの方法論の一(いつ、ひとつ)。それはこの違和という「感覚」に根差したものである。すべての論理はそこからやってくる。論理以前、非論理としての論理である、認識以前の認識、という狭間の、メディアの、アルケーの、始原の、そのような矛盾のダイナミクスの場にのみ成立する動的な現場性を持ったマトリックス

世界によって人は成る。世界を感ずることによって、そして認識することによって人間はその個、あるいは属性として成る。主客の関係性の中にその存在が成立する。

とすれば。

世界は、己は、選択できる。否、意識、自覚しているといないにかかわらず、主体は既に否応なく選んでいることによって存在を枠どられながら生きている。

或いは、だから、創造することができる。己を創り上げることができる。己を捉えてあるものを認知し他による支配を退け、自身が選択し展開しようとするクリエイターであることによって世界と自己を支配・コントロールするのだ。

選ばなければならない。己の触れる世界を、文章を。

それは、己の蒙昧からくる苦しみからの解放のためだ。息苦しいものに閉ざされないためだ。


生まれたての子供に最初に与える言葉や絵本や、それらを慎重に選んでいかねばならぬ父母の義務というものがある。文体の持つ力は、にんげんの一生にとって致命的に激しい毒となり己を腐らせるものでもあるのだ。

敢えて毒を選ぶことを人はする。
それは恐怖からくる行為である。はじめに恐怖という文体を与えられた人間は己を守ろうとする。そしておそらく恐怖それ自体、それだけが己を守るための武器になるような気がするのだ。

蒙昧のはじまり。

 

おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
(青森挽歌)

 

すべてひとは、ほんとうの快楽を呼び覚ますものを失わないために生きねばならぬ。
楽しい世界を創造する万能の神様みたいな世界支配者となることが誰にでもほんとうはできる。

 

と、2018年9月29日土曜、トキヲ嵐の前日にべろべろのヨッパライは思うんであるよ。


明日は傘をさして今秋初のモンブランを買いに行きたいんだがなあ。

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今年初秋刀魚、ミッション完了。ピカピカきれいに目の澄んだ嘴の黄色い、イルカみたいに背中の盛り上がったうまいヤツ。大根おろしとすだちとね。

「おやつ」アンソロジー

PARCO出版の本ってのはどうも洒落ている。スタイリッシュ。

で、スタイリッシュでありながら、しっとりとした古めかしさに裏打ちされた風格もある。(それはどこか、思想、芸術、街、文化すべてがファッションになった昭和末期のt東京の匂いがするものである。私はその時空を生きた宿命としてそれへの執着と偏向を自覚する。そしてそれに対して、己がそれらすべてとともに確かに存在したというだけで、それがかけがえのない一回性の唯一であるというそれだけのことで、胸がいっぱいになるほどの、そんな共存在としてのすべてへの誇りを確かに持っている。)(良し悪しは別である。)(生まれて生きたというだけで人は誰もがそうあっていいしそうあるべきなのだ。)(断言。)(…少しだけナウシカのようだな。)

写真、フォント、編集、装丁。心憎いばかりである。

構えることなく、熟読、ということでもなく、ふと気が向いたときぱらぱらとページを開ける雰囲気の魅惑のおやつアンソロジー。何よりも表紙のモンブランがいい。f:id:momong:20180829225930j:plain
目次を眺めているだけでおやつゴコロがときめいてしまう。
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そしてこういうアンソロジーは作品の選択配置がキモなんだが、これがなかなかよろしいんである。のっけからの森茉莉のシュウ・ア・ラ・クレェムのインパクトにヤラれた。
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おやつには、甘いものには人生の隙間がある。逆説的に言えばエッセンスがある。子供の頃の思い出がある。それは身体の、生活の糧ではなく心の糧により近いものだから。

それは、必需の糧でなく嗜好品である、という意味から来ているのだが、同じように精神のための嗜好品であっても、甘いお菓子には、例えば酒や煙草や珈琲、といった大人の男性を象徴するタイプの嗜好品とはまた一線を画する「女子供」だけのまっすぐで真理に近いと言ってよい崇高さをもっている。

それは、虚栄や物語や美学や形式への形骸化を(比較的)逃れることのできる被差別民(オンナコドモ)のまっすぐさ、被差別分野であるからこその、物語化や社会化、共同体的に様式化される、文化的な意味への偏重、焦点化、抽象化を限りなく逃れてゆく周縁のところにあるからこそなのだ。限りなく現場的、個的であり、優しい母なるものへの思い出にのみ根差す聖性に連なるもの、アンタッチャブルに連なるものであるから。

 *** ***

アンソロジーという体裁によって際立つそれぞれの作家の個性、それぞれの文章の持つ多様なふくらかさを楽しむ。短い文章の中に、各々は馥郁と爛漫と香る。

こういう本はね、眦決した重たい激しい主張や物語ではなく、ほのかで純粋な甘さや軽やかな優しい情趣それ自体を打ち出しているものほどいい。妙にあざとく小賢しく作りこんだ、人生の物語をからめて感動を押し付けてくるような器用な流行作家のものより、流れゆく日常の風景のひとコマを縫い留めた、軽くしっとりとした淡い情趣の余韻を打ち出しているような、そんな作家の片手間の雰囲気のものほどいい。全米が泣いた制作費用数億円の大作よりも、晴れた日曜日のカフェで珈琲の香りの向こう側に見えるさまざまの人々の物語の風景。

それぞれの作家の愛好する思い出のお菓子と作品との関わりかたを考えるのもちょっと楽しい。春樹のドーナッツ小理屈とかね。(割と好きなんである。ディレッタンティズムというか、紳士たちがバーやパブでちょっと戯れにうんちく垂れたり言語や論理を弄んだみせるような、そんな、世界の無意味さくだらなさを愛しみ楽しむような、時空の隙間、人生の隙間みたいな雰囲気。)

…しかしパラパラと見た限りでは、一番食べたくなったのは森茉莉の描写する「シュウクリイム」だなあ。風月堂の、皮の薄い柔らかめの、卵の風味の濃いクリームがたっぷりつまった昔ながらのクラシックなタイプ。

読んでたらすっかりシュークリーム気分が盛り上がってしまい、今週末にでも赤坂の「しろたえ」のシュークリーム買いに行ってしまおうかしらと思いつめる勢いである。(しかし個人的にひとこと言わせてもらうと、この本の欠陥はモンブランの話がいっこもないところである。これはあきらかに企画段階における手落ちであろう。)

俳句には詳しくないけれど、中村汀女さんの文章のふくよかさにも驚いた。俳人とはかくも繊細にして微妙で味わい深い感性と言語センスを、知性を備えているものか。雅とは知性ってことなんだなあなどとしみじみ感服。羊羹やかすていらの情趣を思い浮かべる。(羊羹の美学と言えば谷崎潤一郎の「陰影礼賛」だけど、ここでの美学なイメージもまさにそれだな、ウン。なんとも言えぬばかばかしいほどの純粋な美学が、繊細さと品格がある。)味わうということの、その丁寧さ、繊細さ。そのように生きること自体に対する誠実さの美学が貫かれている、そういう類の言葉の力。

 *** ***

で、ワシは小説の方は実は読んだことないけど、五木寛之さんのエッセイが結構好きなんだが、先生ここではメロンパンに関する文章をひとくさり。…これがやはりとっても楽しい。

ということで、潜在的メロンパン評論家、五木先生もきっとお気に召すであろう、皮がカシっと乾いていてサクホロふわりの焼きたてさん。ほのかに甘く切ないおやつメロンパン。まだあたたかいパン屋の袋を抱えて帰る帰り道の幸福感は普遍の真理である。おそらく。
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夏の朝

月曜の朝であったと思う。

夏の朝の中を歩いて、まばゆい朝陽を浴びた町の物語を感じた。挨拶をしながら行き交う人々、あくびをする人を乗せたバス、工事現場の作業員たち、きらきら光りながら走る車たち。いつかの、健やかな夏の物語。それぞれの、人々の、朝。空は青く明るく光っていた。

前方から、華奢なサンダルにリボンのついた麦わら帽子、ふわりとした上品なワンピースにこやかに微笑むきれいなお嬢さんが歩いてくる。顔見知りのご老人に挨拶をする、その瞳の明るい茶色が朝陽そのままに美しく透き通って、彼女の周りには昔の小説から抜け出してきたような優しいオーラがあった。そよ風のようにすれ違う。

思い出したことがある。

大きくなったら、娘さんになったらあんな風な憧れのお姉さんみたいにきれいになる、と女児のころは(ほとんどすべての女児と同じように)共同体幻想からやってくるそういう物語を聞かされて、それを信じていた。…という訳ではないが信じるということもなくなんとなく信じていたのではなかったか、と。

それはいずれ己が老い、死ぬという事態が確実にやってくるのだ、というくらいのリアリティのなさをもった客観性でもって、ということである。蛹から蝶に変身するという革命は、パラダイムの変換は、その時が来れば起こるべくして起こるのではないかと。今の自分にはわからない論理が自身の内側から立ち現れ、「大人になればわかるよ。」というその論理が正しく機能することを、信じる信じないの判断を棚上げし、本当は信じてなどいないという事実の痛みを先延ばしにするためにほんのりと信じていたつもりになっていたのではなかったか。

 

だが、いつからか私は確信していた。
違うのだ。

この感覚は、違うのだ。
きれいになる、という意味にもいろいろあるし、それを言い出すと件の物語に「誤謬がある」、というわけでは決してない。誤謬のある物語などない。誤謬のない物語もまた存在しないように。

だが、この感覚は違う。
それは一昔前には決して共同体共同幻想物語レヴェルでは存在をみとめられることのなかった、したがって名前をもっていなかった昨今のいわゆる「スクールカースト」のように、隠蔽されていながら暗黙に皆が共通に感じているであろう、未だ名前を持たぬ、したがって存在を認められていない感覚。概念として形作られる以前の概念以下というべきもの、確実に存在するのにその形をとらえきれない匂いのようなもどかしい感覚。

そう、生まれが違うのだ。人種が違うのだ、おそらく遺伝子の組成からいって違うのだろう。骨格も筋肉も、ホルモンや脳のつくり、その思考体系も根本からおそらく違う、ああいう人たちは女性性をしなやかに生きることができる、セクシャルな意味でもジェンダーの要素の側面からでも。それは頭の良さの上下の問題ではなく、質的な違いなのだ。次元が異なっている。文字通り生きる世界が違う。

決して疑問に思うことなく抵抗を感じる頃もなく「~なのよ。」「~だわ。」という女言葉のネイティヴであるひとたち。システムに疑念や抵抗や違和感を感じることなくその中でらくらくと呼吸できる人たち。自分の役割をきちんと受け入れその前提の上に前向きに生きることができる人たち。「当然」から出発できるひとたち。カテゴライズされることに誇りすら感じることができる素直で美しいまっすぐな自尊心をも、もちろん彼女らはきちんと持ち合わせているのだ。

居場所のない私とは違うのだ。
己が一体ナニモノなのか一体これはどういうことなのかといちいち考え続けなければならぬ因果を背負った人間とは違うのだ。自家中毒を起こし自滅する輩とは違うのだ。傲慢と自己嫌悪の両極の重圧につぶれる輩とは違うのだ。…そこからしっかりと闘い続ける周りの友人たち、その英雄たちだけが眩いのだけど、今の自分には。

けれど、私はすべての彼らを眺めその物語を愛することができる。排除されているからこそできることがある。

眺め、愛すること、描くこと、残すこと、批評すること。

ウン、きっと。
(信じる者は…)

日記メモ(夏の終わり、新しさと懐かしさ)

考えたことはすぐさま言葉にして書き留めておかないと失われてしまうんだよな。賢治のようにいつでもメモ帳を、とずっと思ってた。

考えたことはその日を生きた証だと思ってる。

ツイッターなんかはそれのインデックスとしての使い方って意外といいかもしれない。
ということで断片を拾い集めたかたちでメモ的な日記を一つ。

 *** ***

目が覚めたら光の色が変わっていた。

夏と秋の季節が入れ替わった朝である。
一晩じゅうごうごうと吹き続けた風が秋を連れて来たのだ。

空と雲がきらきらとまばゆく光り、新しい季節の到来を告げる。

「なんとはなしに聖いこころもちがして」。(小岩井農場
私は新しく白いペンギンのシャツを着て外に出る。さらさらと風と光が肌を撫でてゆく。この夏を生き延びたのだな、と思う。

すべてが、触れると切れるように生まれたてで新しい光の中にある。

が、これは間違いなく「懐かしい」。新しさがなまなましい肉体性ではなくそのイデアの真実の光のみを予告してきたからだ。懐かしさの中にのみある、新しさの祈りの純粋がそこにあった。

まだ8月だけど、心が9月に飛んで行く。となるとそろそろ「9月の海はクラゲの海」が聴きたくなってくる。

9月に解禁することにしている、大好きなムーンライダーズの歌。

♪Everything is nothing  Everythingでnothing♪
これって「色即是空・空即是色」の歌なんだよな。そう、色即是空のすごいとこは、空即是色が次にくるとこなんだ。

 

友人に季節が変わる日はあるのだねい、というメールを打ったら、大島弓子が懐かしくなったよと返信があった。ナンダソレハ。

…「夏の終わりのト短調」かな。

ああ、懐かしいな。輝いていた、思春期のその憂愁を懐かしく思い出す。

そう、輝いていた。その憂愁それ自体が、重く暗いような顔をして、それは未来を持っているというだけで意味の輝きで満たされていた。

 

寂しさに似た新しさ。寂しさに似た明るいすがすがしさ。「小岩井農場」の異次元スポットで賢治が「聖いこころもち」と表現したのはこういうものではなかったのかと思う。何かを失いすべてが壊れた後にあるがらんどうから生まれる、その外側からやってくる、すべてを囲繞する、救い。

その、寂しく新しい、輝きに満ちた懐かしさの、その輝きの意味を新しく得なおしたいと思った。すべてを失った終焉、虚無の闇の絶望の夜の後、そのがらんどうが新しい意味の光に満たされた朝だ。終わりの中にあるはじまり。…火の鳥焼身のあと新しい雛鳥が生まれてくるように、前と同じ存在であり前と同じ存在ではない、そのことによってのみ永遠である世界ということを感ずること。

己がまったく新しい宇宙で全く新しい別の存在となってこの存在のままに再生してゆく感覚。矛盾が成立する場所。

 

そうして、アレサ・フランクリンが亡くなったとニュースが告げる。
…別にそんなに好きではなかった。ソウルフルなあの歌声。

だけど思い出した。「ブルース・ブラザーズ」。
きっと一番好きな映画だ。 

ここのシーンね、think!

(こういうダンスシーン、すんごくいいんだよなあ。)

 

で、小説家の友人がフェイスブック岡崎京子についてのコメントを残していたのでつい反応。己が「pink」推しであることをカミングアウトしたんである。続いて大泉学園の前世の姉妹、大学院の後輩君も自分がpink派であることを書き込み、我々の魂の合致を確かめ合った。…で、肝心の友人の方は「リバーズ・エッジ」に一票を投じた。

…ううむ。本棚から取り出し、ちらりとつまみ読み、思い出す。…この我々の興味の傾向の分岐は非常に興味深い。私はすごく納得したのだ。

*** ***

リバーズ・エッジ」ってさ、同じように経済に組み込まれた性や暴力やイジメやなんかテーマにして描いていても、その取り扱い方が、「pink」や「ジオラマボーイ・パノラマガール」みたいなのとは違ってあまりにもガツンと構造が固定されてストレートでワシには激し過ぎる。あじきない気がする。端的に言って登場人物にまったく感情移入できない、その問題意識を論理と客観の物語としてショックを受けながら眺めることしか、考えることしか、鑑賞することしかできない。内部からそれを感じることができないという時点でそれは既成の物語の組み合わせに過ぎないのではないかという意識を私は持つ。

要するに、世界の不条理を描くにあたって、この作品には「揶揄と笑い」という「ズレ」、論理の綻びという重要な要素に欠けている。それは、日常性を超えたところにある日常性、奇妙な常識や優しさや、その根源を問うところからくる綻びである。物語を生み出しそれを枠取り閉じ込めまた破壊することができる、そのマトリックス。外部。デッド・シリアスが隠蔽するもの。

岡崎京子の作品すべてが世界の不条理を描いているとしても、己の「内部の不条理」にこの作品は行き着かない。それは外部の、社会の不条理に対する問題意識に「すり替わる」、というような、そういう気持ちになる。「ずるい」、というような思いを得る。或いは、「偉い」。

彼らは社会それ自体に合体できるのだ。それは或いはサルトルカミュの分岐点。

…「問題意識高い系」かい?という奇妙な卑しい揶揄の気持ちが己の中に芽生える。このわたくしの汚らしく卑しい攻撃性は己の怠惰や卑しさへの後ろぐらさと恐怖感、おびえから来るものだ。インフェリオリティ・コンプレックス。

とにかくね、この作品には、深々としたあじきなさを、恐怖を感ずる。刺激の中におぼれる悲しみとその刺激をもてあそび得々と語る正義の人々の顔を同時に思い浮かべる。…戦慄の向こう側に、つまらなさを感ずる。(感じたのだ、確か。きちんと読み直してないから今はこれはメモだし、責任持たない。)

「pink」とかだと感じないんだな、そのまっすぐさと純粋さは誠実だから、優しさへの祈りから来ているから。ただ、「どうして?」が胸の中に膨れ上がる。その不条理。歪みへの視線は未来への祈りに通ずる。私は感情移入する。そのまっすぐさに。そうして、その、己に向けられた揶揄と笑いに。

*** ***

ブルースブラザーズを(できたら小さな映画館で)観返して大島弓子を読み返して9月の海はクラゲの海を聴いて岡崎京子をちらりと思い出して、夏の終わりを過ごしたい。

 

(なあんていって、なんだか「バットマンビギンズ」を観てよろこんでいたのはナイショです。すっかり現実逃避した。…ああ、明日どうやって生き延びよう。)

おやすみなさいサンタマリア。明日がよい日でありますように怖いことが起こりませんように。

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これもそろそろおしまいかな、アガパンサスアガペーのアンサス、神の愛の花。また大層な名前を付けられたもんだ。ヘクソカズラオオイヌノフグリとどうしてこう扱いが違うのか…(ラテン語って知ってたらいろいろ楽しそうだな、と最近思う。)