酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

図書館環境・読書の現場

基本、図書館フリークなので、あちこちの図書館に出没する。

カフェでも図書館でもおんなじなんだけど、空間の雰囲気ってのは、建物や設備環境はもちろんそうなんだけど、それだけじゃなくて、寧ろスタッフが仕事を楽しんでるかどうかで決まってくるんじゃないかな。その個性に快さ、シンパシーを感じると、幸せな気持ちになるんである。ほどよい距離感ってのも含めてね。

…(隣町図書館)この図書館には随所に季節折々のフェルト細工が飾ってある。スタッフの方の作品なそうな。どこの図書館も必ず子供コーナーにぬいぐるみだの何だの小さな濃やかな心遣いがあって、それが特集図書のセレクトとかと同じようにその館ごとの個性になってたりする。これが心楽しいものなのだ。

図書館フリークだから、あちこちの特集のやり方やディスプレイ、子供コーナーの工夫の仕方なんかを比べて見て回る。うむうむ。楽しい。子供コーナーの本棚周辺のあちこちには、大体手作り感あふれてるいい味の人形やぬいぐるみやなんかが飾ってある。こういうのは大抵、知り合いのお母さんだの常連さんだののスタッフ周辺の方々の手作りのものらしい。

こういうとこって、無個性、無機的な対応になりがちな公立図書館で、スタッフ自身が仕事を楽しんでいい図書館にしたいないいい仕事したいなとか子供に楽しんでほしいな、というような心遣いをビシバシ感じてしまうスキマ空間なんである。で、こういう風景って子供の心のどっかに一生モノとして焼き付いてるんじゃないかって思うんだな。

絵本が、テクストと絵のコラボレーションとして成り立ち、脳内でそのコラボ・ヴィジョンがひとつのイコンとして不可分のものとなってしまうように、その本を読んだ、選んだ、一連の出会いの場の統合された風景のイメージは、作品内容それ自体に付随してそのとき感情とともに総合的なゲシュタルトを構成する。そしてそれは総合的な一塊の記憶となって分かちがたくその子とその本の関係性を決定するものとなり、ひいてはその子の一生を左右する心象風景として人生の通奏低音を奏でるものともなりうるのだ。

…ナラトロジー、物語論においては、「読書の現場」(語りの現場)、という概念がある。

大昔のことで、いくら探しても再発見できないでいるのだが、確かジュネットロラン・バルトではなかったか。ものすごく印象に残っている一節がある。

何かの章の出だし、見開きで、右側が白紙で左側の頁の、章のタイトルの後の、その書き出しの部分であった。そのページの色と本の感触と文字の風景まで脳に刻み込まれているのに、現物に再会できないというのもなんとももどかしい。

でも、もしかしてその本の風景は脳内で捏造或いは編成された記憶なのかもしれない。読書の現場、というようなテーマだったのだと思うのだけど。(アテにならない。)(まさにこのテーマに関わる読書の現場とその記憶のことを私は今ここで述べているのだ。→テクスト、視覚的な文字そのものとしての物質的スタイルを取った記号シニフィアンとそれが意味するものである内実としてのシニフィエ、さらにそれが読者に読み込まれたとき生まれる意味空間「現場」の関係性のことを、例示として。)

…読書の現場の本質とは、物語(意味)内容に没入しているレヴェルからふと頭をあげて、己の身体が属している世界に戻り、目の前の窓のレースのカーテンから光と風が射しこんできているのを眺める、その風景の二重性にあるのではないか、というような。ここでその「読書の現場」の多重構造を孕んだ世界の複合された総体性そのものが、その読者の個的な記憶として物語内容、意味内容という焦点化された「概念」に見えないプラスαという形で付随されるものとなる。漱石の文学論でいう(F+f)のfの要素であり、ゲシュタルト理論で言う要素プラスαの振幅への可能性をひらく構造である。

そしてさらに言えば、そのプラスαとはすべてからの解放という意味での世界の多様性の可能性そのものであり、イデアの指標となるものなのではないかと私は考えている。(それ自体は虚無としてのイデア、というべきなのかもしれないけどね。)


…ということで、物質としての本と出会いとしての現場環境は、読者のそのときの意味内容受けいれ能力(その受動器のコンディション)に関連した、純粋な運であり縁である。そしてそれは良書との出会いに関して得てして決定的に重要な要素である。

出来得れば、その出会いは幸福な色をした記憶の光に包まれたものであってほしい。
あらゆる資本やいかなる権力からも無条件に守られた牙城としての、その想像力の解放と精神と魂の自由を保障された図書館環境。(それは文字通り図書館であってもいいし、比喩的な意味のものでよい。絶対的な無条件の愛と贈与、祈りと希望に守られた感覚、両親から贈られたクリスマスプレゼントの児童文学全集を開くときの、その冬休みの初日の、夕食前の自室のひだまりのひとときであってもよい。)書を愛するスタッフの心遣いに読書環境を包まれた、明るく暖かい、守護された安全地帯、図書館空間。

意味内容に何らかの能動的な感情が伴われるならば、それはその論理の外に一つの見えない細胞壁を構築する。内容に活力を、ダイナミクスを加え、しなやかな思考の力を活性化させ、同時に外的で不適なるもの、損なおうとする虚無と害意に基づく反論のための反論の濁った理論を鋭く察知し、これをまっすぐな正しく明るい論理の地平のもとにさらけ出す、自在で透明な防御壁となるために。すべての個々に秘められた知の力が暗く滞り濁ることのないように。

その、己の外側にあった読書の現場空間とは、読書体験によって個の内側に取り込まれ、内と外の区別のない知の魂の場所としての心象風景を形成し、その一生を支えるものとなるだろう。いつでも解放されたその時空の精神の記憶が呼び起こされその確かな存在が永遠に保証されるように。

言ってしまおう。
これは主体が抱く、世界に対する感情の基盤が肯定と愛であるべきであるとする理論である。

まあ要するにだな、言いたいことはだな、世の中、
「愛だろ、愛。」。

銀河鉄道

なんかね、芥川賞直木賞も賢治つながりな感じで、なんかね、…なんかなあ。(あんまり嬉しがっていない。)とりあえず読む気しないな。多分ただ今読む気力がないだけなんだと思うけど。

 

でね、さっきなんかずっとザネリのこと考えててさ、ジョバンニとザネリとカムパネルラのことね。

考えててさ。

 

…ザネリねえ。

とりあえずね、

 

1.やなやつ

2.やなやつ

3.4なし

5やなやつ

 

なんだけど。

ジョバンニにとって、彼は世の不条理そのものだったんだろな、なんて思ったんだな。理不尽、不条理。貧しさ、その閉鎖的農村社会の不幸からくる日常の小さな小さな小さな浅ましさ、卑しく貧しい心根、衆愚、蒙昧からくる妬み嫉み悪意。そのひとの罪ではないところからくるその人の罪になってしまうもの。そういう人間の側面。ゲマインシャフトの悪しき面、といったところだろうか。恩愛に縛られるというその枷の両義性からくるもの。逃れられない…まあ要するに不条理なんだな。

それらの「力」を蒙昧や衆愚として軽蔑と嫌悪を向ける意識はジョバンニのこの悔しまぎれの科白の中にも表出されている。

「ぼくがなんにもしないのにあんなことを云うのはザネリがばかなからだ。」

(けれどそれが共同体の大きな力となって、そのかなしい蒙昧と卑しさが、衆愚という「力」となって、己の外の広い世界へと向かおうとする、個人の、まっすぐさやうつくしい楽しい夢や希望をも穢すことへの激しい怒りに似たもの。けれど己自身の存在が、もともとその不条理によって成立しているということへの、その原罪への耐え難さ。自己犠牲や焼身幻想への衝動という方向性をもつそのエゴイスティックでかなしい無辜への希求。)

とりあえずその外部不条理の象徴が、ザネリなんじゃないかな、と。

そうして、ザネリを救うためにジョバンニの最愛の正しく優しくまっとうな理想の友人カムパネルラ、己の理想の側の半身である「共に行く者」が犠牲になる、というストーリーの意味を。その若き日の己の「喪失」を抱えて初めてまっすぐに現実に向かって理想を生きる覚悟を得られるのだと説く論理、そのストーリーの意味を。虚無、喪失、決して得られないものでありながら求め続けなければならないものとしての真理(カムパネルラ)を果てなく望みながら生きることの覚悟を説くようなストーリーの意味を。そこに逆説的に浮かび上がる「救済」というテーマの意味を。(求めながら生きる意味の、それ自体の中に初めて構成されるものである救済と恩寵…至福という「知」の究極の意味するところを。)

 

…ああ、本当に。賢治作品すべてに瀰漫するこの激しい思い、テーマは、「救済」なのだな、と、このうつくしくいたましく見事な物語構成のうちに、痛いほどに激しく感じる。(まあそんなこといったら、いやしくも文学、と呼ばれるべきものであったらテーマはすべてここに収れんするのかもしれないとも思うけど。)

 

いやね、個人的に非常にあれこれ追いつめられてましてな、現実を生きる心身の力にかけてるもんでね。「男は、強くなければ生きられない。優しくなければ生きていく資格がない。」ってCMコピーが好きだったんだけど、オレは生きるための強さも優しさも持たずにここまで来てしまった。優しいひとたちに支えられ過ぎていたのかもしれない。

ザネリの存在に耐えられない。

とりあえずまだ死ぬのが怖すぎる。やりたいこと精一杯まだやりたい。自分では煩悩や執着をまだ断ち切る境地に至れない。とことん汚くなって堕ちて堕ちて堕ちて。ああもうどうでもいいなあ、やりたい放題やったなあってストンと抜け落ちた、そんなところに行きついてからすうっと終わりたいなあ、なんて思ったんだよ。生きてきたことの証明に、考えたことや楽しい物語たくさん書き残して、読みたいものこころおきなく読んで、誰にも脅かされず、そんな時空間をもう一度、幼いころのあの黄金の無時間の中に、もう一度。それにつつまれたまま。

酒ばかり飲んでそのままいなくなってしまってもいいんだけど。

とりあえず今日に感謝。明日の楽しいことだけ考えて

おやすみなさい世界。

冬枯れ

寒波である。
毎年思うのだが、雪国の人はよくこの季節を生きのびられるものだ。体温が下がると人間死ぬのに。

今朝、震えて目覚めた。暑いのもダメだが寒いのはもう絶対ダメである。ワシは心身共に素直なタチなので、つまり変温動物に近い生物なので割と素直に体温も外気に合わせてしまう。恒温動物にしては体温保持力に欠けている。ということで寒いとおそらく人よりはやめに手足がもげて死んでしまうのではないかと思うのだ。ウウ手が凍る顔が凍るかなしくなる動けなくなるもう100年くらい先の春まで冬眠していたい…。

…でもこの季節、空と光は異様に透き通って美しい。一年で一番美しいような気もする。厳寒期から早春。二月如月、光の春ももう近い。昼間の眩いほど強く澄んだ濃い黄金、夜にはキンと凍って煌く星空。

息がふわふわ白いのも楽しい。ベランダで朝陽の最初のひと切れを浴びて、ほうほうと白い息を吐く、それが朝靄にまじってゆく様子を眺めているとなんとなく愉快になって笑いたくなったりする。

記憶には、この美しさだけが記録されるんだろな。

やっぱり恩寵だ。

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地元図書館近く、冬枯れの苗木屋。本を抱えたままちょっと寄ってみる。

午後の光の色が奇妙に懐かしくて明るくて、何となく泣きたいような幸福感でいっぱいになる。今この瞬間、これ以上望むことはないと思う。いやホント。刹那主義ってこういうのをいうんかしらん。

無人スタンドがあって、いびつな柚子一袋100円とか蝋梅一枝300円とか物色するのも楽しいのだ。

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今日の底冷え、盥の水は凍ったまま一日中溶けない。

 *** ***

先日、お年始あいさつで、階段の踊り場に庭で収穫したとんがらし干してるおうちに遊びに行った。寒いのにあたたかい。そう、やっぱりこの冬の陽射しだ。そうして、とろりと、赤の色。

いいな、とんがらし、って思った。

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ターシャ・チューダーさんみたいだよね。

…イヤあのね、今読んでる童話にとんがらしたっぷりいれた異国の「ココーア」なるものをテングが魔法で盗んできて江戸時代のお姫様に飲ませてあげるシーンがあったのヨ。

古代アステカではワインとかとんがらしも入れて飲んでたらしいからな、ココア。王侯貴族がな。オレも王侯貴族になって、今度シナモンと生姜とウヰスキーだけじゃなくてカルダモンやとんがらしもいれてみるかな。あったまりそうだからな、カカオフリークとしてはな、一度はな。(今日は生姜と七味と黒胡椒たらふく投入した牡蠣の味噌汁ですんごいあったまってハマった。あったまると寂しくなくなる、こともある。)(もともとスパイス好きなんである。タリーズスターバックスではシナモンマシマシ。そもそもあたたまるスパイスっていうのはもう既に薬だぞ。お腹があたたまって血行がよくなるとすべてはよくなるものなのだ、きっと。)

年末。知人宅訪問

年末である。改装中だということで、荷物がたくさん積み重ねられていた。
お邪魔します、と靴を脱ぐ。どうぞ、とリビングに通される。

リビングのドアの前、ちょっとどきどきした。

確か高校を出たばかりの頃。賑やかなパーティで、皆で押しかけた。うんと華やかにセッティングされた食卓、うんとピカピカでゆったりと広かった記憶のあるリビングである。あの頃のさまざまの思い出がそこに凝縮して、遠くほのかに煌いているような、その記憶に重なる場所。中央線沿線、駅にほど近く、閑静な住宅街。

…ドアの向こうには、ひっそりと静かな12月の午後があった。壁に作りつけの食器棚、ダイニングテーブル、大きなテレヴィ。ごく普通に居心地良くしつらえられた穏やかなリヴィング・ルーム。けれどもそれはなんだかあのときより小さく見えた。私が大きくなったわけではないのにどうしてだろう。世の中が小さくなったのだろうか。脳による記憶の歪曲や捏造のリアリティを思う。

うさぎ穴の中でアリスが自在に巨大化したりこびとになったりしたように、記憶の視界はその自在な視点と自体の可塑性をもって都合よく変成されてゆく。世界が自在に伸び縮みする、変容する、その不安で怖くて楽しいような、奇妙にくらくらとめくるめく夢に入り込む感覚。

 

布団を敷いてうとうとと眠っていたのだという。少し寝ぼけ眼のままもしょもしょと部屋を暖めてくれる。

もうじき夕暮れである。ひたひたと肌寒くなってゆく。ひっそりと静かなおうちの中はブラインドを引いて薄暗い。少し寂しくなった。

上等の舶来の葡萄酒なんか開けてくれる。濃い紅の液体を注いでくれる。とても濃い、異国のふくよかな時間が注がれる。静かな食卓に凛と透き通ったリーデルのグラス。とろりと眩暈がしそうな時間だ。濃い紅の液体。

乾杯。

おいしい。うん、おいしい。
少し笑う。

柔らかな会話。昔のことや最近のことやお正月の予定や、それから、これからの人生や世界や、それからぽつぽつと、さまざまの世界の描き方や考え方について。

お部屋を見せてくださいよ。その思い出の部屋、二階の。
ダメだよ、今は改装中で荷物がおいてあるだけで、何にもないから。

あそ。
…それでよけりゃ見てみるか?

シギシと鳴る古い木の階段を上る。

暗い廊下には段ボールの荷物、ひんやりと薄暗く寂しい改装中。人の暮らしの気配が途切れている。

…けれど、その部屋のドアを開けたとき、優しい明るさがぽかんとひらけていて、目を打った。思わず瞬きした。いやその風景は寧ろ胸を打ったものだから。

初めて訪れたその二階の部屋は本当に素敵だったのだ。

あのときの気持ちをあれから幾度も反芻している。
永遠に反芻していたい。脳がそれを消化し何らかの捏造記憶を深々と広げ創作してゆくように。ずっとずっと永遠に残る私だけの世界の記憶を。

彼が子供時代を過ごした部屋の、その思い入れを、その部屋の思い出を語ってくれたその時間。語られながら、私はその物語の時間の過去と現在と溶け合わせ、それをカプセルにして、まるごと魂の深奥に押し込んで熟成させている己を感じていた。

隣にはばあちゃんがいた。こたつがあったんだ。おれをひどく可愛がってくれた。
こっちの隣の部屋には、姉ちゃんがいた。死んじゃったけどな。

窓の外は、美しく澄んで、緩やかに黄昏行く12月の明るい夕暮れ。淡い白い半月がうっすりと浮かんでほのかに輝き始めていた。類稀なる澄明、その空はもうどうすればよいかわからないくらい透き通っていて、それはもうそのとき宇宙一清く澄んでいたのだということを私は断言できる。

改装中だというがらんとしたその部屋で、人の思い出は生き生きとよみがえりながら現在にひらめき溶け合い違うところへ消えてゆきながら夕暮れの宇宙を形作る。物語は語られるごとに語られた場所を巻き込みながら変容し深化してゆくものなのだ、ということに私はまた気づいた。今までだって気づいていたことをも思い出した。こうやって繰り返し新しく何度でも気づき続けてゆくのだろう、未来永劫、時間というものはそうやって私にやってきて流れてゆくのだということを。

その部屋が己の歴史のヴィジョンを私に伝えようとしていた、私の存在の内部に私の感官をとおしてそれが沁み込んでいった。部屋と私は交じり合う。そんな物語の遺伝子を伝えようとしていたのだ。

そうやって、古び壊れ失われながら、風景は、場所は、失われた時間の中で失われた命が嘗て確かに存在していたのだという事実を宿したままにある。嘗て人が生きていたその風景の時空は、失われながらも、残されたものによって思い出され語られ悼まれるとき、その思い出の遺伝子を他の人間の記憶の中に胚胎させ、新たな命のかたちとしてそれを変容させる。…互いに溶け合いながら、個と世界とまた異なる個との関わり合いは変容し、そんな風にして世界全体の時間の流れというものが作られていくのだろう。互いが存在した時空のその存在証明をアメーバのように四次元に連ねながら。

永遠の現在という概念について訴えた西田の魂(注)もまた私にやってくる。
私は私という存在が有機交流電燈の明滅として壊れ広がってゆくのを感じていた。

…幸福だ。この先なにがあろうと、生まれて育って育てられて、今があることが永遠であることを知る、その、知という幸福を思った。すべてを祝福することのできるツール。

幸福だ。このまま死んでしまいたいほどに。

と、そんな風に思ったんだよ。これから何があっても、一度そう思ったことは失われることはない、

てね。

 

※(注)「福岡伸一、西田哲学を読む~生命をめぐる思索の旅」参照

霞ヶ関

(ちょっと前の話ね。秋の終わり。メモしかけたままほっぽってた。せっかくだからアップしておこう。備忘録。)

 

行ったことなんてないね、と思ってたけど、メトロから上ってきたら、眼前に日比谷公園。アラここか。

あの辺は 意外と好きである。主として大学時代の思い出のイメージだな。あと、日比谷野音のコンサート。たまやRC、ここではほかに誰のがあったっけなあ。もうすべての記憶は曖昧で不確かだ。

何にしろ、リアルタイムであの世代として生き、彼等の音楽の生まれ響く場所を、その時空を共有し共振することができたことを私は非常に幸福なことに思っている。この幸福の意味するところは、己が生まれ生きたことまるごとに対する誇りである。そしてここで私の誇りとは感謝と同義である。

街は都会の夜景。私がこの辺りが好きなのは、道路がはろばろと広いからだ。視界が開けている、街路樹が大木である。歴史がある。それは、合理や経済効率ばかりを優先するのではなく、近代の黎明期、気概と葛藤の可変エネルギーに満ちた時代、都市のデザインに関わる人たちががもっていた堂々たる誇りと理想への夢、気概、矜持のようなものを、時代を超える瞬間の眩暈とともに彷彿とさせる広さである。換言すれば、それを意固地に象徴しているような広さである。エリーティズムのよき面をあますところなく発揮できた時代。歴史を経て風格を、威厳を深めてゆくタイプの、街の堅牢な骨格。生活、という温もりとは異なる次元のところにそれはある。高円寺が、若者がジャージでコンビニおやつを買う深夜風景や、裾の破れた半纏と下駄ばきのお爺さんがそのままぽこぽこお散歩してたりするのがとっても快い日曜風景のものであり、吉祥寺がアコーディオンを鳴らしながら公園の横の道を歩くヒッピー崩れのおじさんがしっくりと楽しい日曜風景であったりするのとは、全く別の美学、快さ。

ライトアップされて狐火よろしくぽうぽうと順番に浮かび上がり、周囲を照らす黄金の銀杏並木、静かな威厳を湛えた老木たち。このあたり一帯が巨大な幽玄能の舞台のようだ。広い道路に威圧的に聳えるビルディング、その隙間からぽうっと光る東京タワー。光の川のように流れてゆくヘッドライト、テールライト。地を流れる天の川のハレーション。この風景の印象が数十年昔の記憶とダブってゆく。

ここで既に奇妙な魑魅魍魎の跋扈する異界舞台に飛び込んでゆく前振りはたっぷりである。

お題は霞が関。舞台に上がれば全員役者だ。

 

ということで、これはやっぱり初めて、夜のお役所内部探訪。いや探訪は別にしてないんだけど、友人がお役所内部でのセミナーの講師をやるとかいうことで、なんだかよくわからないけど「こっそりひっそり部屋の片隅座敷童」的な立場で傍聴することになったのだ。まあ建物の中入るっていうだけで異世界探訪ではあるかもしれない。

いろいろおもしろかった。いろいろ寂しくなった。
そして非常な勢いで脳内にさまざま芽生えたこのぐるぐるした感覚を論理として言葉として、ナンダ、何か、この時間があったことの証明のよすがを残しておきたいという思いに駆られている。

 *** ***

会場に入る。
ひやりとする、講演会という密室空間の特殊な時空。集団心理のことを思う。

例えばさ、オウム真理教の洗脳セミナーとか、漱石の有名な「現代日本の開化」外発的開化(「皮相上滑りの開化である。」とかもうやっぱり漱石の文章大好きだな。)のあの講演会とかビジネス系自己開発セミナーとかネズミ講販売会とか原理の洗脳部屋(大学入学当時サークル勧誘と称して連れ込まれたので行ってみたけど大しておもしろくなかった。たまたまだったかもしれないけど、当たった勧誘員があんまり賢くなかったのでまるで議論というものが成立しなかったんである。)とかなんでもいいんだけど、とにかく密室で、特殊な一つの部屋でひとつの意味、洗脳効果をどこかに孕んであたかもここで語られている論理が全世界を覆っているものであるかのようにみせる、そんな論理の時空を皆で醸成し共有し共犯関係にあるようなこの感じ。今この空間でおこっていることが、実際外部の時空とどう関わってどう連鎖してゆくのか、(参加した個人の中で、そしてその個人から、社会の歴史への広がりの中で)という時空の立体的、いや四次元的鳥観図のことを考えると頭がクラクラしてきそうになる。そしてこれがまた霞ヶ関という権力中枢に組み込まれ国全体に対し何らかの影響力をもっている場所であるということ、それがこんなに小さな狭いところであるという奇妙な懸隔、そのうっとり眩暈がしてきそうな違和の感覚。

 *** ***

内容に関してはねえ、いやなんというか、あんまり今言いたくないな。話がややこしくなってめんどくさいから。でもやっぱりとにかく気合いの入ったちゃんとしたプロだなあ、時代を得て(語義通り「ときめいて」)絶賛売り出し中新進気鋭小説家のセンセイ。えらいなあ、きちんと立派な講演で、次々とあっちこっちからの角度から質問飛んでくる質疑応答コーナーでもすべてに臨機応変に対応。立派なおじさんたちに、先生、先生、と呼ばれちゃったりして、友よ、キミはとっても立派な優等生だったのネー、って、なんだかとっても眩く見えたよ。実際、後日のアンケートによると、とっても好評だったらしい。う~ん、さすがの実力である。

 *** ***

高校の放課後の音楽室であったと思う。
だんだん部員が集まって来て、部活が始まる儀式の前のわちゃわちゃした時間。

男の子たちがふざけて本気喧嘩乱闘直前のフリで周りを脅かすごっこやサラリーマンのフリ名刺交換おじぎごっこや、そういうのやってた、そういう他愛ないシーン。あの頃我々は本当によく笑っていた。(怒ったり喧嘩したりもしたけど。)

高校を出て、それぞれの道を進んで、その日々はだんだん遠い思い出になってゆくという現象が当たり前におこるなんてことは、知っていても信じていなかった。もう10年も過ぎたころ、ひとりの友人がぽろっとこう言った。「あのころはね、高校のあの日々が永遠に続くと思ってたよ。」

そうだ、私もそうだったのだ。10年過ぎたからこの言葉が初めて理解共有できるのだと思った。理屈で知っているのとは別である。この世界が変わるなんてリアリティを感じちゃいなかったのだ、実際は、ずっとずっと。ただ新しく得てゆくことばかりのような気がしていた。失うなんてことを思ってもみなかったのだ、知らなかったのだ。

でも、やっぱりそれは何の特別さもなく当たり前に我々にやってくるものだった。(私は今でも心のどこかでこんな現実なんて信じていないんだがね。)…で、大学も卒業して大分たってからね、みんなあれこれ人生紆余曲折の荒波で、立派な社会人になっていった。取り残されてゆく私のような人間もまだぽろぽろと存在していた。そんな頃。

彼らがあの音楽室でふざけていたシーンがふざけているのではなく現実に目の前で行われていた。名詞交換、自己紹介として職業と役職という付与されたアイデンティティ、そして、互いを挟む、敬語。立場の上下の在り方の暗黙のしきたりと了解。

取り込まれたのだ。システム。
みんなが平たくて自由であったときは過去だった。パロディであったはずのその世界の中に、がんじがらめに捕獲され取り込まれている。

どこからどこまでが人生の演技なのだろう。
上手に己の役割を選び演じてそのひとつの社会システムという世界の物語のゲームの勝者を目指したり、とかさ。そういう物語の役割演技。

春樹の「女のいない男たち」での、役者と演技のテーマのことを思い出す。我々はいつ何を演じながら日々の日常を生きているのだろう。自覚的なレヴェルで、そして無自覚に組み込まれたレヴェルで。人生の物語を。

「キミは演技してるんだよ。」
と、以前ゼミの教官に指摘されたことがある。友人と、これってどういうことかねい、ってあれこれ話したりした。
「演技してない奴がどこにいるってことだよね。」
という結論である。

逆に言えば、本当の自分、なんてものがどこにあるってことで。

否定形でしか語れないもの。構造的にそれは真理と呼ばれるものと同じものである。

 

…で。
それを追い続ける方法論について考える。

例えば、あくまでも制度の中にありながら、不思議に精神が自由であったというときのことを、それが何によって守られていたのかということを、大人たちの祈りが子供の教育制度の中にどのように立ち現れているのかを考える。己がすでに取り込まれた世界、社会(すなわち自分自身《の一部》)を批評批判する心を持った次世代を育てようとする、なんてことが、もしかして人類の隠された逆説的本能なのだろうか。敢えて滅ぼされようとする父たちの構造。アポトーシス

己が捕まってどうにもならなくなっているものに対し、己がその身を毒されながらそれ自身になりながら、核の傘で守られた日本のように不遜にそれ(己)を笑うものを育てる制度の成果を、そのひとつの在り方を、未来に何かの望みをかけたものとしてただ構造として是、というように感ずる。ただそういうありかたなのだ、と。

でもね。

切ない。ほんとうにこれは切ない。奇妙な哀しみに満ちている。
権力ごっこもマネーゲームも政治も「大人の都合」も「大人になったらわかるよ。」も知った風な正義も、それら倫理の相対性、そうしてあぢきない水掛け論も、本当に全部演技で遊びのゲームで、すべてが終わった後のイデアの世界では、それが全部正しい学級会で正しい先生が正しく子供らに道理で正して見せてくれてみんなで笑って小突き合って正しく仲直り、な絶対の宗教みたいな道徳の時間に還元されるような、TVドラマのあとのスピンオフみたいな、悲劇ドラマのキャラクタ推しオタクたちのパロディ二次創作みたいな。

イデアっていうのはそういうとこだと私は思っている。)

 *** ***

霞が関ビルの中の、官僚たちの、微妙なその権力構造の匂いなんかのことね。

後で、その友人がぽろっとこぼしたのだ。
民間と官僚ってのはやっぱり違う、と。やっぱり彼らは「お上」である、と。お上の人たちのその自意識を感じたと。

組織の権力構造のありかたやその是非や醜悪さ歪み非常識非人間性なんてものがあるとすれば、民間だろうとボランティア組合だろうと相撲協会だろうと芸能界だろう家族制度だろうと、大なり小なり、どこだっておんなじだ。どんなかたちでも。どっちのかたちにより強い正義や美学がある、なんてことは絶対ない。

けど、特殊な場所では、周りに対し双方向のベクトルを以て開かれ平均化されにくい閉ざされがちな場所では、それがより純粋で見えやすくなっている、のかもしれない。そしてここは「お上」というかたちで、開かれ方が一方通行だということなのだろう。

つまり、彼女が「違い」として感じたのは、そういう外部との関係性、ということなのかもしれないな、と私はなんとなく思ったんだけど、なんとなく。関係性がひらたい双方向ではない、という。

イヤでもさ、思うに、拠って立つ基盤自体がそもそも違うのだ。平たい経済という共通の論理の上にあるか、そうでないか。彼女はそれを空気として感じたんではないかしらん。オレにゃあんまりよくわかんなかったけどね。両方知らないから。どっちが正しいとか思わないし。

というか、違ってしかるべき、というか、おんなじ論理基盤にあっちゃいけないと思うんだけど。そもそも。だってそれじゃあ何のために政治システムがあるかわからない。経済がすべての権力の基盤になってしまわないためにあるんじゃないんかね、お上ってのは。学生時代もっときちんと真面目に勉強しとくべきだったな、こういうの。どうやって単位とったかわかんないくらいだもんね。小説とかなんとかばっかりおもしろくて。さっぱりわかんないってのもかなしい。まあとりあえずみんなが共通でもってる皮膚感覚だけは同じように持ってると思うんだけど。

あとねえ、大きな要素としては、エリーティズムがそのよき面といかんなく発揮できない時代性、のようなものが「現在」としてあるってとこかもしれない。あの霞ヶ関の風格と威厳の、あのうつくしい風景を作り上げてきた近代の黎明期とは違うのだ。

時代性っていうのはとてもおもしろいがとても難しい。

漱石が「文学論」で定義づけていた概念として焦点化されるフォーカスFと、そこに不可避として付随する感情、フィーリングfのように、文学(広義でいう概念・或いは物語)が(F+f)として定義分析されるとすれば、Fを個から社会へ広げてゆくとき、fもまた個々のものから集団と組織が織りなす、ひとつの定義や概念としては把握しがたいものとして、曖昧な、けれどどうしようもなくくっきりとした色彩をもった「時代性」として獲得されていく。問題は、その分析の切り口をどこにもってゆくか、己がそれをどこにもっているかを、各々のおえらい専門家たちが各々のその位置を自覚することなんではないか。やっぱり偉い人なんだから、そういうとこまでとことん偉くあってほしいんだよな、偉い人。

…なにしろ、さまざまの分野のさまざまの専門家が、それぞれの切り口をもってそれを語ることができる。それぞれ素晴らしい。

で、けれど、そのすべての声の総合が等しく聞かれ、政治としてのエリーティズムを正しく位置付けてゆかなければ、かならずポピュリズムへのアンバランスな反動は起こる。大雑把に言うとさ。で、どう転んでも、その両極のアンバランスは崩壊と戦争をもたらすのではないかしらん。エラソーに言ってるみたいだけど、これは勿論ぼんやりした感覚でしかなくてよくわかんなけどさ。下々から見上げたトーシローな大衆的感覚から言うとねってことで。

暮らしづらくなって人心が荒れてくると世の中やたらと物騒でさ、で、地震も起こるし長雨異常気象も起こるしさ。こういうのってなんか歴史的にも連動してるんだと思うんだけど。大体野菜がずっと高くてこの冬は鍋もなかなかできなくて大変困っている人々が多いのだ。(私である。)野菜大切なのに。(特に私にとって。)(納豆や麦酒も大切だけど。)

だから偉い人もそうでない人も、みんながみんな、怒る前にとりあえず笑ってみればいいのにさって思うんだけど。怒った後でもいいけど。つよいひともよわいひとも。とりあえず。

すべては、それからだ。

 *** ***

…ひとりひとりみんなどこかで捕らわれながら、どこかで絶対持っている。個々の魂の自由。自身を含んだ世界をすべてパロディにしてどこかで笑っていることができる。自由。パロディ。

笑いは批評であり、笑いは自虐であり、笑いはそして、解放である。

なんとかそこんとこを、繋ぐことができれば。知性というものが。

 *** ***

…というようなはげ山の一夜でありました。

まわりじゅう偉くて立派なひとばっかりで、いつもいつもいつでもどこでもどこからも誰からも取り残されていくふにゃふにゃでのろまのワタクシはその夜も大変寂しくくたびれたであります、ハイ。おもしろかったけど。

蛇男・依頼人プロフィール

請われた。

物語にしてくれ、物語を作ってくれ、と。
あの稀代の物語メーカーが物語に餓えている。激しい乾きと飢餓を抱えている。マリアの慈愛のように降り注ぐ「他者による」異質な意味と物語によって鎮められなだめられることを欲している。

…そうだ、彼はいつでも周囲の人間を巻き込んで力技な物語をくるくると紡ぎ出してきた。飴と鞭を、毒と薬を、快楽と苦痛、浅ましさと崇高さを突き交ぜた激しい極彩色のドラマツルギー。その中に人を読み込み巻き込みその中の登場人物に仕立て上げる。その中に生かすことによって自分も生きることができる、他者を認めず自分の物語に。

そんな生き方だったのだ。

作りだし続けなければ生きていけない。紡ぎ続けなければ存在自体が崩壊してしまう。
…昔から口癖のようにつぶやいていた。「楽しくなければ生きられない。」

虚実の境が見えなくなってゆく。多分作り出している本人にとって。
多分それが「現実と真実」をつくりだす行為であるという原理があるんだろう。作り出し続けなければ世界が虚無に、意味のないものになってしまうという恐怖、強迫観念に駆り立てられているようにも思えた。彼にとって世界の基盤は虚無と闇なのだ。独りひたすら自我の物語の光を灯し続けなければ世界がまるごとなくなってしまう。その歴史ごと存在を否定されてしまう。無だ。

泳ぐのをやめた途端死んでしまうイワシのようだ、と私は思っていた。

オフェンスし続けなければ生きる場所ができない、呼吸ができない。そうせずにはいられない。攻撃する、あざ笑う、罵る、崇拝してみせる。

美学の構築だ。
神が死んでしまったあとの人はみな、多かれ少なかれこうやって生きている、の原型を荒々しい形で見せてくれる。

だけど、いつでもフルパワーなんて続かない。孤軍奮闘、自力で世界を構築し続けることなんか誰にもできない。それは神の領域なんだから。

だから時折力尽き、己の物語に自家中毒を起こし、一気に枯渇してしまう。そして彼は一気にダメになってしまうのだ。何でも知ってると思い望むものはみな手に入れてきた裸の王様が我に返るとき。彼はやわらかく無防備な裸の赤子になって世界に意味を見いだせず途方に暮れる。ぱくぱくと苦しそうに水面で虚しく酸素を求めていた夜店の金魚の姿を私は思い出す。

与えてくれ、救ってくれ。寂しくて死にそうだ。

この声は、ひとりのものではない。油断していると、地球上ありとあらゆるところから響いてくる、地鳴りのような大合唱に私はつぶされる。与えてくれ、救ってくれ。死んでしまう!全人類の歴史が降り積もった古い記憶の地層から、世界の闇を揺るがす地鳴りのように響いてくるこの声。

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蛇男はやってくる。
いつでも、時空の隙間から湧いて出る。私はそれを見る。依頼人を私はそこに啓示した。

蛇男はやってくる。
この声が発せられる場所へ、求められた場所へ、すべてを与えるために、そして何かを失わせるために。

栗子さん プロローグその2(おまけ)

クリスマススペシャル、「栗子さん・プロローグ・その2」的なおまけ番外編。
彼女が秋に本格的なモンブラン探求に至る予兆としての、プレ・モンブランな夏の思い出、マロン・ケーキ編である。

せっかくクリスマスなのでちょっと浪漫な恋愛小説風にしてみました。

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インディアン・サマー

街は夏の名残、いちめんの眩さ。その、強いけれど切ない秋の陰りを帯びた静かな光に満たされていた。日曜昼下がり。

そのとき、栗子さんは、こいびとに非常に冷たい仕打ちを受けた。大層傷ついていた。そしてすっかり機嫌を損ねていた。

何か気に障ったのだろうか。それともひたすらひとりの哀しみにふさがれているのだろうか。不機嫌丸出しの表情のこいびとを前にして、彼女は途方に暮れ、ぴよぴよと囀りながらその周囲を旋回してみたりしていたのである。おろおろと歩き回り、たくさんのなぐさめのことを考えた。そして、どんなに言葉を凝らしても、何も聞かない隙間のないそのヨロイに為すすすべもなく、ただそうやって在るしかない己と彼をかなしんだ。そして最後にあらんかぎりの思いをこめてそっと差し伸べてみた手は振り払われた。「触んじゃねえ。」

すべては狂ったように静かで強烈な陽射しの中の風景である。じりじりと照り付ける、日曜昼下がり。(ああ、ムルソーよ。違う、これは違うんだよ。)

普段あまり感情をそのような形で表出することは避けている。が、これは外界へと表出し、対象に向けて態度に現さねばならぬレヴェルである、と、このとき栗子さんの精神は判断した。私はひどく機嫌を損ねている、彼に対抗し、これをそのままのかたちで表出してもよい、と。

そして、彼女の論理と精神は共に身体にその理性のくびきを外してもよいGOサインを伝え、身体はその信号のままに行動した。

徹底的に不貞腐れたのである。

普段ひたすらソフトで穏やかな栗子さんである。
普段ひたすら自分の機嫌で手一杯なタイプのこいびとも、いささか驚いたのであろう。そこでぷいっと栗子さんを置いて永遠に行ってしまうということもやりかねない人であると栗子さんは知っていた。既にもうその覚悟はできていた。あらかじめ心をかなしみでいっぱいに満たしてショックを和らげるクッション体制を整えた上でのGOサインである。感情を表出するとはそういうことだ。

だが。

非常に驚いたことに、彼は態度を軟化させた。非常に驚いたことに。
更に、非常に不器用な形をもって話しかけてきた。そのかたちとは、反射的に栗子さんをなだめようとしていたもの、なのではないかと思われた。ひょっとして。(それはとてもそのようには見えないものであったのだが。)そしてその反射はやがて、黙り込んだ彼女をひっぱって、無理やり可愛らしい喫茶店に押し込むという行為へと発展変容したのである。

ちりん、と木のドアのベルが鳴る。

「スイーツはわからん。選べ。」

目の前には、さまざまの意匠をこらしてきらきら輝く宝石棚のような洋菓子のショーケースである。いつどんなときで眺めれば心慰められてしまう魔法の飾り窓。

生憎そのときそこにモンブランはなかった。代わりにあったのは、マロン・ケーキ。

これはいろいろときちんと確かめねばならぬところである。
栗子さんは、ウインドウの向こう側のにこにこした女の子に、それが「ラムの効いたマロンクリームを柔らかなココアスポンジで幾層にも重ねたオリジナルの季節限定マロンクリームケーキ」であることを確認し、また、こいびとにはこれは彼が彼女の機嫌を取っている行為であるのかどうかを確認した。

 

「もしかして私の機嫌をとってますか。」
一瞬の間がある。
「ウン。」
目は背けたままである。

栗子さんは、ただ衝動的に、純粋に女子の機嫌をとろうとする瞬間の男子一般の風景が意外と好きである。年齢の多寡、洋の東西を問わず、それはその世界の風景を一瞬にして優しい色で染め変える。その世界に対し、普遍的な愛しさのようなものを感ずるのである。いわんやその対象が己であり、且つその男子一般が一般ではなく自分が執着していた特定の個体であったりした場合、それはもう意識が空の彼方へと飛翔していくくらいのレヴェルで、対象との関係性における愛情へと変換することを必然とする究極の陶酔であった。

黙ったままの二人のところに、珈琲とケーキの皿が運ばれてくる。

昼下がりの小さな喫茶店、こいびとの頼んだ珈琲とケーキの甘い香り、風も光も窓の外。三時の子守歌のように明るく閑雅な街の風景であった。これはずるい。彼女はじいんと快いその優しい日曜日の風景の中にいた。

徐々に、これは何らかのかたちで対象に伝えねばならぬ、という衝動が彼女の内部でかたちづくられてゆく。その考えはそのうちに小さなこころのなかには収まることができずにあふれだし、何だかたまらなく笑いたくなってくる。そこで彼女は彼の肩をつつきこちらに注意を振り向けるのである。もしもし。

店内は微妙にざわめいていたしそれは群衆の前で演説すべき事柄ではないと思われた。それはあくまでも個的なメッセージであったのだ。

ということで、無心にマロンケーキを頬張っていた彼の耳に口を寄せ、彼女はそのとき決して偽りではないと思われた己の心象風景のその率直な観測結果の様相を、個的メッセージとして端的に述べたのである。

「あなたが好きです。」

実は、これは長いこと生きてきた栗子さんが生まれてはじめて口にする言葉であった。長いこと生きてから初めて口にできるようになった言葉であったということである。

一瞬の間があった。
永遠に感じられるようなその一瞬、ただひたすら愉快であった。くすくすと笑い出したくなるほど可笑しく嬉しい。胸いっぱいの、絶対の。一方的にあふれだす生命のエナジイとしての幸福。一生この瞬間を憶えているんだろうな、自分は。栗子さんはその永遠の光に包まれながらうっとりと確信していた。

その時、ごうっと電車の音がしたのではないかと思う。中央線が、遥かな時間の彼方を、永遠に続くこの夏の、あの入道雲の下を通り過ぎて行く音が聞こえたような気がする。今この風景をまるごとカプセルに閉じ込め、次元の彼方へと運んでゆく鉄道の音。

 

鳩が豆鉄砲、というのはこういう顔のことをいうのであろう。ヤーイ、豆鉄砲食らいやがった、と栗子さんは思ったのだから。

あまいケーキを口いっぱいほおばったまま固まった、妙なる調べを奏でる阿呆づらであった。彼の脳内ではラムの効いたマロンクリームの味と混ざってしまって、おそらくその言葉の意味がよく理解できなかったのであろう。実に言語というのは難しいものだ。

ながいながいその一瞬の後。
ごくんとケーキを飲み込んで。

呵々大笑。

あははははは、と、初めて見るようなあけっぴろげな笑い方だった。
素晴らしく理想的な反応だった。さまざまの、複雑なわからない感情の混乱を吹き飛ばそうとする生理的に反射的な反応だった。普段の、こってりと左脳で吟味しつくした外連味たっぷりのひきつり笑いとも皮肉な冷笑とも、日常の中のアクセントのリズムをもった笑いとも、優しさの表現としてのほほえみとも全く違う、ただびっくりした、という表現の発揚としての笑い。そしてそれは、嬉しい、という感情の輝きがそのすべてをほのかに覆ったものだった。すべてはこのとき正しかったのだ。自身も快くびっくりしたあと、安心して、栗子さんも笑い出した。

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…さて、この小さな可愛い町の小さな可愛いお店の「ラムの効いたマロンクリームケーキ」は正式に言えばモンブランではなかったのだけど、これはあくまでもプロローグ、前哨戦である。

栗子さんの正式なモンブラン紀行はこれをその後の予兆とすることによって始まったのである。

 

(気まぐれに続く。)