酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

霞ヶ関

(ちょっと前の話ね。秋の終わり。メモしかけたままほっぽってた。せっかくだからアップしておこう。備忘録。)

 

行ったことなんてないね、と思ってたけど、メトロから上ってきたら、眼前に日比谷公園。アラここか。

あの辺は 意外と好きである。主として大学時代の思い出のイメージだな。あと、日比谷野音のコンサート。たまやRC、ここではほかに誰のがあったっけなあ。もうすべての記憶は曖昧で不確かだ。

何にしろ、リアルタイムであの世代として生き、彼等の音楽の生まれ響く場所を、その時空を共有し共振することができたことを私は非常に幸福なことに思っている。この幸福の意味するところは、己が生まれ生きたことまるごとに対する誇りである。そしてここで私の誇りとは感謝と同義である。

街は都会の夜景。私がこの辺りが好きなのは、道路がはろばろと広いからだ。視界が開けている、街路樹が大木である。歴史がある。それは、合理や経済効率ばかりを優先するのではなく、近代の黎明期、気概と葛藤の可変エネルギーに満ちた時代、都市のデザインに関わる人たちががもっていた堂々たる誇りと理想への夢、気概、矜持のようなものを、時代を超える瞬間の眩暈とともに彷彿とさせる広さである。換言すれば、それを意固地に象徴しているような広さである。エリーティズムのよき面をあますところなく発揮できた時代。歴史を経て風格を、威厳を深めてゆくタイプの、街の堅牢な骨格。生活、という温もりとは異なる次元のところにそれはある。高円寺が、若者がジャージでコンビニおやつを買う深夜風景や、裾の破れた半纏と下駄ばきのお爺さんがそのままぽこぽこお散歩してたりするのがとっても快い日曜風景のものであり、吉祥寺がアコーディオンを鳴らしながら公園の横の道を歩くヒッピー崩れのおじさんがしっくりと楽しい日曜風景であったりするのとは、全く別の美学、快さ。

ライトアップされて狐火よろしくぽうぽうと順番に浮かび上がり、周囲を照らす黄金の銀杏並木、静かな威厳を湛えた老木たち。このあたり一帯が巨大な幽玄能の舞台のようだ。広い道路に威圧的に聳えるビルディング、その隙間からぽうっと光る東京タワー。光の川のように流れてゆくヘッドライト、テールライト。地を流れる天の川のハレーション。この風景の印象が数十年昔の記憶とダブってゆく。

ここで既に奇妙な魑魅魍魎の跋扈する異界舞台に飛び込んでゆく前振りはたっぷりである。

お題は霞が関。舞台に上がれば全員役者だ。

 

ということで、これはやっぱり初めて、夜のお役所内部探訪。いや探訪は別にしてないんだけど、友人がお役所内部でのセミナーの講師をやるとかいうことで、なんだかよくわからないけど「こっそりひっそり部屋の片隅座敷童」的な立場で傍聴することになったのだ。まあ建物の中入るっていうだけで異世界探訪ではあるかもしれない。

いろいろおもしろかった。いろいろ寂しくなった。
そして非常な勢いで脳内にさまざま芽生えたこのぐるぐるした感覚を論理として言葉として、ナンダ、何か、この時間があったことの証明のよすがを残しておきたいという思いに駆られている。

 *** ***

会場に入る。
ひやりとする、講演会という密室空間の特殊な時空。集団心理のことを思う。

例えばさ、オウム真理教の洗脳セミナーとか、漱石の有名な「現代日本の開化」外発的開化(「皮相上滑りの開化である。」とかもうやっぱり漱石の文章大好きだな。)のあの講演会とかビジネス系自己開発セミナーとかネズミ講販売会とか原理の洗脳部屋(大学入学当時サークル勧誘と称して連れ込まれたので行ってみたけど大しておもしろくなかった。たまたまだったかもしれないけど、当たった勧誘員があんまり賢くなかったのでまるで議論というものが成立しなかったんである。)とかなんでもいいんだけど、とにかく密室で、特殊な一つの部屋でひとつの意味、洗脳効果をどこかに孕んであたかもここで語られている論理が全世界を覆っているものであるかのようにみせる、そんな論理の時空を皆で醸成し共有し共犯関係にあるようなこの感じ。今この空間でおこっていることが、実際外部の時空とどう関わってどう連鎖してゆくのか、(参加した個人の中で、そしてその個人から、社会の歴史への広がりの中で)という時空の立体的、いや四次元的鳥観図のことを考えると頭がクラクラしてきそうになる。そしてこれがまた霞ヶ関という権力中枢に組み込まれ国全体に対し何らかの影響力をもっている場所であるということ、それがこんなに小さな狭いところであるという奇妙な懸隔、そのうっとり眩暈がしてきそうな違和の感覚。

 *** ***

内容に関してはねえ、いやなんというか、あんまり今言いたくないな。話がややこしくなってめんどくさいから。でもやっぱりとにかく気合いの入ったちゃんとしたプロだなあ、時代を得て(語義通り「ときめいて」)絶賛売り出し中新進気鋭小説家のセンセイ。えらいなあ、きちんと立派な講演で、次々とあっちこっちからの角度から質問飛んでくる質疑応答コーナーでもすべてに臨機応変に対応。立派なおじさんたちに、先生、先生、と呼ばれちゃったりして、友よ、キミはとっても立派な優等生だったのネー、って、なんだかとっても眩く見えたよ。実際、後日のアンケートによると、とっても好評だったらしい。う~ん、さすがの実力である。

 *** ***

高校の放課後の音楽室であったと思う。
だんだん部員が集まって来て、部活が始まる儀式の前のわちゃわちゃした時間。

男の子たちがふざけて本気喧嘩乱闘直前のフリで周りを脅かすごっこやサラリーマンのフリ名刺交換おじぎごっこや、そういうのやってた、そういう他愛ないシーン。あの頃我々は本当によく笑っていた。(怒ったり喧嘩したりもしたけど。)

高校を出て、それぞれの道を進んで、その日々はだんだん遠い思い出になってゆくという現象が当たり前におこるなんてことは、知っていても信じていなかった。もう10年も過ぎたころ、ひとりの友人がぽろっとこう言った。「あのころはね、高校のあの日々が永遠に続くと思ってたよ。」

そうだ、私もそうだったのだ。10年過ぎたからこの言葉が初めて理解共有できるのだと思った。理屈で知っているのとは別である。この世界が変わるなんてリアリティを感じちゃいなかったのだ、実際は、ずっとずっと。ただ新しく得てゆくことばかりのような気がしていた。失うなんてことを思ってもみなかったのだ、知らなかったのだ。

でも、やっぱりそれは何の特別さもなく当たり前に我々にやってくるものだった。(私は今でも心のどこかでこんな現実なんて信じていないんだがね。)…で、大学も卒業して大分たってからね、みんなあれこれ人生紆余曲折の荒波で、立派な社会人になっていった。取り残されてゆく私のような人間もまだぽろぽろと存在していた。そんな頃。

彼らがあの音楽室でふざけていたシーンがふざけているのではなく現実に目の前で行われていた。名詞交換、自己紹介として職業と役職という付与されたアイデンティティ、そして、互いを挟む、敬語。立場の上下の在り方の暗黙のしきたりと了解。

取り込まれたのだ。システム。
みんなが平たくて自由であったときは過去だった。パロディであったはずのその世界の中に、がんじがらめに捕獲され取り込まれている。

どこからどこまでが人生の演技なのだろう。
上手に己の役割を選び演じてそのひとつの社会システムという世界の物語のゲームの勝者を目指したり、とかさ。そういう物語の役割演技。

春樹の「女のいない男たち」での、役者と演技のテーマのことを思い出す。我々はいつ何を演じながら日々の日常を生きているのだろう。自覚的なレヴェルで、そして無自覚に組み込まれたレヴェルで。人生の物語を。

「キミは演技してるんだよ。」
と、以前ゼミの教官に指摘されたことがある。友人と、これってどういうことかねい、ってあれこれ話したりした。
「演技してない奴がどこにいるってことだよね。」
という結論である。

逆に言えば、本当の自分、なんてものがどこにあるってことで。

否定形でしか語れないもの。構造的にそれは真理と呼ばれるものと同じものである。

 

…で。
それを追い続ける方法論について考える。

例えば、あくまでも制度の中にありながら、不思議に精神が自由であったというときのことを、それが何によって守られていたのかということを、大人たちの祈りが子供の教育制度の中にどのように立ち現れているのかを考える。己がすでに取り込まれた世界、社会(すなわち自分自身《の一部》)を批評批判する心を持った次世代を育てようとする、なんてことが、もしかして人類の隠された逆説的本能なのだろうか。敢えて滅ぼされようとする父たちの構造。アポトーシス

己が捕まってどうにもならなくなっているものに対し、己がその身を毒されながらそれ自身になりながら、核の傘で守られた日本のように不遜にそれ(己)を笑うものを育てる制度の成果を、そのひとつの在り方を、未来に何かの望みをかけたものとしてただ構造として是、というように感ずる。ただそういうありかたなのだ、と。

でもね。

切ない。ほんとうにこれは切ない。奇妙な哀しみに満ちている。
権力ごっこもマネーゲームも政治も「大人の都合」も「大人になったらわかるよ。」も知った風な正義も、それら倫理の相対性、そうしてあぢきない水掛け論も、本当に全部演技で遊びのゲームで、すべてが終わった後のイデアの世界では、それが全部正しい学級会で正しい先生が正しく子供らに道理で正して見せてくれてみんなで笑って小突き合って正しく仲直り、な絶対の宗教みたいな道徳の時間に還元されるような、TVドラマのあとのスピンオフみたいな、悲劇ドラマのキャラクタ推しオタクたちのパロディ二次創作みたいな。

イデアっていうのはそういうとこだと私は思っている。)

 *** ***

霞が関ビルの中の、官僚たちの、微妙なその権力構造の匂いなんかのことね。

後で、その友人がぽろっとこぼしたのだ。
民間と官僚ってのはやっぱり違う、と。やっぱり彼らは「お上」である、と。お上の人たちのその自意識を感じたと。

組織の権力構造のありかたやその是非や醜悪さ歪み非常識非人間性なんてものがあるとすれば、民間だろうとボランティア組合だろうと相撲協会だろうと芸能界だろう家族制度だろうと、大なり小なり、どこだっておんなじだ。どんなかたちでも。どっちのかたちにより強い正義や美学がある、なんてことは絶対ない。

けど、特殊な場所では、周りに対し双方向のベクトルを以て開かれ平均化されにくい閉ざされがちな場所では、それがより純粋で見えやすくなっている、のかもしれない。そしてここは「お上」というかたちで、開かれ方が一方通行だということなのだろう。

つまり、彼女が「違い」として感じたのは、そういう外部との関係性、ということなのかもしれないな、と私はなんとなく思ったんだけど、なんとなく。関係性がひらたい双方向ではない、という。

イヤでもさ、思うに、拠って立つ基盤自体がそもそも違うのだ。平たい経済という共通の論理の上にあるか、そうでないか。彼女はそれを空気として感じたんではないかしらん。オレにゃあんまりよくわかんなかったけどね。両方知らないから。どっちが正しいとか思わないし。

というか、違ってしかるべき、というか、おんなじ論理基盤にあっちゃいけないと思うんだけど。そもそも。だってそれじゃあ何のために政治システムがあるかわからない。経済がすべての権力の基盤になってしまわないためにあるんじゃないんかね、お上ってのは。学生時代もっときちんと真面目に勉強しとくべきだったな、こういうの。どうやって単位とったかわかんないくらいだもんね。小説とかなんとかばっかりおもしろくて。さっぱりわかんないってのもかなしい。まあとりあえずみんなが共通でもってる皮膚感覚だけは同じように持ってると思うんだけど。

あとねえ、大きな要素としては、エリーティズムがそのよき面といかんなく発揮できない時代性、のようなものが「現在」としてあるってとこかもしれない。あの霞ヶ関の風格と威厳の、あのうつくしい風景を作り上げてきた近代の黎明期とは違うのだ。

時代性っていうのはとてもおもしろいがとても難しい。

漱石が「文学論」で定義づけていた概念として焦点化されるフォーカスFと、そこに不可避として付随する感情、フィーリングfのように、文学(広義でいう概念・或いは物語)が(F+f)として定義分析されるとすれば、Fを個から社会へ広げてゆくとき、fもまた個々のものから集団と組織が織りなす、ひとつの定義や概念としては把握しがたいものとして、曖昧な、けれどどうしようもなくくっきりとした色彩をもった「時代性」として獲得されていく。問題は、その分析の切り口をどこにもってゆくか、己がそれをどこにもっているかを、各々のおえらい専門家たちが各々のその位置を自覚することなんではないか。やっぱり偉い人なんだから、そういうとこまでとことん偉くあってほしいんだよな、偉い人。

…なにしろ、さまざまの分野のさまざまの専門家が、それぞれの切り口をもってそれを語ることができる。それぞれ素晴らしい。

で、けれど、そのすべての声の総合が等しく聞かれ、政治としてのエリーティズムを正しく位置付けてゆかなければ、かならずポピュリズムへのアンバランスな反動は起こる。大雑把に言うとさ。で、どう転んでも、その両極のアンバランスは崩壊と戦争をもたらすのではないかしらん。エラソーに言ってるみたいだけど、これは勿論ぼんやりした感覚でしかなくてよくわかんなけどさ。下々から見上げたトーシローな大衆的感覚から言うとねってことで。

暮らしづらくなって人心が荒れてくると世の中やたらと物騒でさ、で、地震も起こるし長雨異常気象も起こるしさ。こういうのってなんか歴史的にも連動してるんだと思うんだけど。大体野菜がずっと高くてこの冬は鍋もなかなかできなくて大変困っている人々が多いのだ。(私である。)野菜大切なのに。(特に私にとって。)(納豆や麦酒も大切だけど。)

だから偉い人もそうでない人も、みんながみんな、怒る前にとりあえず笑ってみればいいのにさって思うんだけど。怒った後でもいいけど。つよいひともよわいひとも。とりあえず。

すべては、それからだ。

 *** ***

…ひとりひとりみんなどこかで捕らわれながら、どこかで絶対持っている。個々の魂の自由。自身を含んだ世界をすべてパロディにしてどこかで笑っていることができる。自由。パロディ。

笑いは批評であり、笑いは自虐であり、笑いはそして、解放である。

なんとかそこんとこを、繋ぐことができれば。知性というものが。

 *** ***

…というようなはげ山の一夜でありました。

まわりじゅう偉くて立派なひとばっかりで、いつもいつもいつでもどこでもどこからも誰からも取り残されていくふにゃふにゃでのろまのワタクシはその夜も大変寂しくくたびれたであります、ハイ。おもしろかったけど。

蛇男・依頼人プロフィール

請われた。

物語にしてくれ、物語を作ってくれ、と。
あの稀代の物語メーカーが物語に餓えている。激しい乾きと飢餓を抱えている。マリアの慈愛のように降り注ぐ「他者による」異質な意味と物語によって鎮められなだめられることを欲している。

…そうだ、彼はいつでも周囲の人間を巻き込んで力技な物語をくるくると紡ぎ出してきた。飴と鞭を、毒と薬を、快楽と苦痛、浅ましさと崇高さを突き交ぜた激しい極彩色のドラマツルギー。その中に人を読み込み巻き込みその中の登場人物に仕立て上げる。その中に生かすことによって自分も生きることができる、他者を認めず自分の物語に。

そんな生き方だったのだ。

作りだし続けなければ生きていけない。紡ぎ続けなければ存在自体が崩壊してしまう。
…昔から口癖のようにつぶやいていた。「楽しくなければ生きられない。」

虚実の境が見えなくなってゆく。多分作り出している本人にとって。
多分それが「現実と真実」をつくりだす行為であるという原理があるんだろう。作り出し続けなければ世界が虚無に、意味のないものになってしまうという恐怖、強迫観念に駆り立てられているようにも思えた。彼にとって世界の基盤は虚無と闇なのだ。独りひたすら自我の物語の光を灯し続けなければ世界がまるごとなくなってしまう。その歴史ごと存在を否定されてしまう。無だ。

泳ぐのをやめた途端死んでしまうイワシのようだ、と私は思っていた。

オフェンスし続けなければ生きる場所ができない、呼吸ができない。そうせずにはいられない。攻撃する、あざ笑う、罵る、崇拝してみせる。

美学の構築だ。
神が死んでしまったあとの人はみな、多かれ少なかれこうやって生きている、の原型を荒々しい形で見せてくれる。

だけど、いつでもフルパワーなんて続かない。孤軍奮闘、自力で世界を構築し続けることなんか誰にもできない。それは神の領域なんだから。

だから時折力尽き、己の物語に自家中毒を起こし、一気に枯渇してしまう。そして彼は一気にダメになってしまうのだ。何でも知ってると思い望むものはみな手に入れてきた裸の王様が我に返るとき。彼はやわらかく無防備な裸の赤子になって世界に意味を見いだせず途方に暮れる。ぱくぱくと苦しそうに水面で虚しく酸素を求めていた夜店の金魚の姿を私は思い出す。

与えてくれ、救ってくれ。寂しくて死にそうだ。

この声は、ひとりのものではない。油断していると、地球上ありとあらゆるところから響いてくる、地鳴りのような大合唱に私はつぶされる。与えてくれ、救ってくれ。死んでしまう!全人類の歴史が降り積もった古い記憶の地層から、世界の闇を揺るがす地鳴りのように響いてくるこの声。

 *** *** 

蛇男はやってくる。
いつでも、時空の隙間から湧いて出る。私はそれを見る。依頼人を私はそこに啓示した。

蛇男はやってくる。
この声が発せられる場所へ、求められた場所へ、すべてを与えるために、そして何かを失わせるために。

栗子さん プロローグその2(おまけ)

クリスマススペシャル、「栗子さん・プロローグ・その2」的なおまけ番外編。
彼女が秋に本格的なモンブラン探求に至る予兆としての、プレ・モンブランな夏の思い出、マロン・ケーキ編である。

せっかくクリスマスなのでちょっと浪漫な恋愛小説風にしてみました。

 *** *** ***

インディアン・サマー

街は夏の名残、いちめんの眩さ。その、強いけれど切ない秋の陰りを帯びた静かな光に満たされていた。日曜昼下がり。

そのとき、栗子さんは、こいびとに非常に冷たい仕打ちを受けた。大層傷ついていた。そしてすっかり機嫌を損ねていた。

何か気に障ったのだろうか。それともひたすらひとりの哀しみにふさがれているのだろうか。不機嫌丸出しの表情のこいびとを前にして、彼女は途方に暮れ、ぴよぴよと囀りながらその周囲を旋回してみたりしていたのである。おろおろと歩き回り、たくさんのなぐさめのことを考えた。そして、どんなに言葉を凝らしても、何も聞かない隙間のないそのヨロイに為すすすべもなく、ただそうやって在るしかない己と彼をかなしんだ。そして最後にあらんかぎりの思いをこめてそっと差し伸べてみた手は振り払われた。「触んじゃねえ。」

すべては狂ったように静かで強烈な陽射しの中の風景である。じりじりと照り付ける、日曜昼下がり。(ああ、ムルソーよ。違う、これは違うんだよ。)

普段あまり感情をそのような形で表出することは避けている。が、これは外界へと表出し、対象に向けて態度に現さねばならぬレヴェルである、と、このとき栗子さんの精神は判断した。私はひどく機嫌を損ねている、彼に対抗し、これをそのままのかたちで表出してもよい、と。

そして、彼女の論理と精神は共に身体にその理性のくびきを外してもよいGOサインを伝え、身体はその信号のままに行動した。

徹底的に不貞腐れたのである。

普段ひたすらソフトで穏やかな栗子さんである。
普段ひたすら自分の機嫌で手一杯なタイプのこいびとも、いささか驚いたのであろう。そこでぷいっと栗子さんを置いて永遠に行ってしまうということもやりかねない人であると栗子さんは知っていた。既にもうその覚悟はできていた。あらかじめ心をかなしみでいっぱいに満たしてショックを和らげるクッション体制を整えた上でのGOサインである。感情を表出するとはそういうことだ。

だが。

非常に驚いたことに、彼は態度を軟化させた。非常に驚いたことに。
更に、非常に不器用な形をもって話しかけてきた。そのかたちとは、反射的に栗子さんをなだめようとしていたもの、なのではないかと思われた。ひょっとして。(それはとてもそのようには見えないものであったのだが。)そしてその反射はやがて、黙り込んだ彼女をひっぱって、無理やり可愛らしい喫茶店に押し込むという行為へと発展変容したのである。

ちりん、と木のドアのベルが鳴る。

「スイーツはわからん。選べ。」

目の前には、さまざまの意匠をこらしてきらきら輝く宝石棚のような洋菓子のショーケースである。いつどんなときで眺めれば心慰められてしまう魔法の飾り窓。

生憎そのときそこにモンブランはなかった。代わりにあったのは、マロン・ケーキ。

これはいろいろときちんと確かめねばならぬところである。
栗子さんは、ウインドウの向こう側のにこにこした女の子に、それが「ラムの効いたマロンクリームを柔らかなココアスポンジで幾層にも重ねたオリジナルの季節限定マロンクリームケーキ」であることを確認し、また、こいびとにはこれは彼が彼女の機嫌を取っている行為であるのかどうかを確認した。

 

「もしかして私の機嫌をとってますか。」
一瞬の間がある。
「ウン。」
目は背けたままである。

栗子さんは、ただ衝動的に、純粋に女子の機嫌をとろうとする瞬間の男子一般の風景が意外と好きである。年齢の多寡、洋の東西を問わず、それはその世界の風景を一瞬にして優しい色で染め変える。その世界に対し、普遍的な愛しさのようなものを感ずるのである。いわんやその対象が己であり、且つその男子一般が一般ではなく自分が執着していた特定の個体であったりした場合、それはもう意識が空の彼方へと飛翔していくくらいのレヴェルで、対象との関係性における愛情へと変換することを必然とする究極の陶酔であった。

黙ったままの二人のところに、珈琲とケーキの皿が運ばれてくる。

昼下がりの小さな喫茶店、こいびとの頼んだ珈琲とケーキの甘い香り、風も光も窓の外。三時の子守歌のように明るく閑雅な街の風景であった。これはずるい。彼女はじいんと快いその優しい日曜日の風景の中にいた。

徐々に、これは何らかのかたちで対象に伝えねばならぬ、という衝動が彼女の内部でかたちづくられてゆく。その考えはそのうちに小さなこころのなかには収まることができずにあふれだし、何だかたまらなく笑いたくなってくる。そこで彼女は彼の肩をつつきこちらに注意を振り向けるのである。もしもし。

店内は微妙にざわめいていたしそれは群衆の前で演説すべき事柄ではないと思われた。それはあくまでも個的なメッセージであったのだ。

ということで、無心にマロンケーキを頬張っていた彼の耳に口を寄せ、彼女はそのとき決して偽りではないと思われた己の心象風景のその率直な観測結果の様相を、個的メッセージとして端的に述べたのである。

「あなたが好きです。」

実は、これは長いこと生きてきた栗子さんが生まれてはじめて口にする言葉であった。長いこと生きてから初めて口にできるようになった言葉であったということである。

一瞬の間があった。
永遠に感じられるようなその一瞬、ただひたすら愉快であった。くすくすと笑い出したくなるほど可笑しく嬉しい。胸いっぱいの、絶対の。一方的にあふれだす生命のエナジイとしての幸福。一生この瞬間を憶えているんだろうな、自分は。栗子さんはその永遠の光に包まれながらうっとりと確信していた。

その時、ごうっと電車の音がしたのではないかと思う。中央線が、遥かな時間の彼方を、永遠に続くこの夏の、あの入道雲の下を通り過ぎて行く音が聞こえたような気がする。今この風景をまるごとカプセルに閉じ込め、次元の彼方へと運んでゆく鉄道の音。

 

鳩が豆鉄砲、というのはこういう顔のことをいうのであろう。ヤーイ、豆鉄砲食らいやがった、と栗子さんは思ったのだから。

あまいケーキを口いっぱいほおばったまま固まった、妙なる調べを奏でる阿呆づらであった。彼の脳内ではラムの効いたマロンクリームの味と混ざってしまって、おそらくその言葉の意味がよく理解できなかったのであろう。実に言語というのは難しいものだ。

ながいながいその一瞬の後。
ごくんとケーキを飲み込んで。

呵々大笑。

あははははは、と、初めて見るようなあけっぴろげな笑い方だった。
素晴らしく理想的な反応だった。さまざまの、複雑なわからない感情の混乱を吹き飛ばそうとする生理的に反射的な反応だった。普段の、こってりと左脳で吟味しつくした外連味たっぷりのひきつり笑いとも皮肉な冷笑とも、日常の中のアクセントのリズムをもった笑いとも、優しさの表現としてのほほえみとも全く違う、ただびっくりした、という表現の発揚としての笑い。そしてそれは、嬉しい、という感情の輝きがそのすべてをほのかに覆ったものだった。すべてはこのとき正しかったのだ。自身も快くびっくりしたあと、安心して、栗子さんも笑い出した。

 *** *** ***

…さて、この小さな可愛い町の小さな可愛いお店の「ラムの効いたマロンクリームケーキ」は正式に言えばモンブランではなかったのだけど、これはあくまでもプロローグ、前哨戦である。

栗子さんの正式なモンブラン紀行はこれをその後の予兆とすることによって始まったのである。

 

(気まぐれに続く。)

 

栗子さん・プロローグ

栗子(リツコ)さんは、栗が好きである。
ケーキのチョイスはモンブラン

が、体質のため、成人したころからケーキ類全般、食べられなくなってしまっていた。身体の組成も大分変化し、今はもう大丈夫なのではと言われているが、数十年も食べていなかったため、口にすることに対して大変心理的ハードルが高くなってしまった。それが食べ物であるという認識がなされないのである。思考回路の分断が成立してしまったのだ。で、まあ、摂取しなければ死ぬという類のものでもないので、ずるずるとひとかけらも口にすることなく数十年が過ぎてしまった。

が、ある日ハタと思い至った。このまま一生あの華麗にして深遠なスイーツの世界に遊ぶことなく一生を終えることになるのか、自分、と。あの夢のような世界を。

大概の子供がそうであるように、栗子さんは甘いおやつが大好きな女児であった。お土産のケーキの箱を開けるときの心のときめきは一生を運命づけるほどの甘くあたたかい至福の時間の累積記憶を形成した。それはかけがえのない財産である。

母がケーキを拵える際には、なみなみならぬ真剣さをもって菓子ができあがるさまを観察しそのミラクルな現象に驚嘆の眼をむいた。幸せクリームな卵色、粉、砂糖、ナッツに蜂蜜、練る、混ぜる、泡立てる、重ねる、冷やす、そしてオーブンにおける魔法のような焼成過程…原料の化合のプロセスに従って次々と現れる世にも美しい色彩と質感のそのけざやかなる美的化学的変化。その甘やかな香り。普段ナマケモノの権化であった女児栗子も、この時だけはいそいそと手伝いにいそしんだ。(ボウルを押さえたリ器具を渡したり、その程度だが。)生クリームを泡立てたあとのボウルを洗う前に奪い取るようにして抱え込み、きれいにすくいとってなめるのが楽しみであった。身体を壊して療養所に入り、おやつに不自由した時期には、夜な夜なチョコレートの国の夢をみたものだ。女児とは概してかようなおやつ大魔王なるものである。

 

…さて時は師走、既にその半ばも過ぎた。風景はそろそろ年末年始の独特の風情を帯びはじめている。

関東年末年始においてそれは、やたらと眩しいきらきらの青空カラカラの空っ風、吹きすさぶ北風小僧の勘太郎である。「正月みたいな空」とはすなわち、快晴特異日非日常且つ非常識な異世界レヴェルにあるもの、人から日常の音のリアルをすべて奪う暴力的に激しい静寂に包まれて、ぽかりと開けたお正月空間の金色に輝く青空のことである。

初詣に誘う神社のポスター、歳末セールの張り紙。だが派手やかな色遣いも生活のためのあざとい商売ッ気も何もかも、街の風景すべては遠大な初冬の淡く透き通るような光に静かにまぶされ遠く懐かしく眺める記憶の風景に見えた。わずかに残った裸木を縁取る銀杏の黄金の光がほとりと落ちる。風に吹き上げられ、きらきらと舞う。

すべては愛おしい。それはただ人々の生活全体をひたすら幸あるものと思わせる遠い別世界のカプセルの中のようだった。

同じように、この風景の金色の光の粉に己の姿を縁取られ包み込まれ行き交う人びとの風景。光に縁どられ、半ばその光に溶かされている。ひとり、葱の束を抱えよちよちと歩くおじいさんなどとすれ違いながら、今この世界に包まれている奇跡と不思議を感じ、栗子さんは突然幸せになった。その遠い風景の中に幸福という物語の意味を見出したように思った。この限られた世界は今、限りなく繰り返す年月の流れの中で、穏やかに年末を迎え年始の準備をしようとする街の不思議な静けさと華やぎの中にあった。一冊の絵本の中でひととき開かれた一頁の中の風景のようであった。…その平和のことを大層貴重で愛おしくかけがえのないものと感じたのだ。栗子さんはそのとき、激しく強く、心の底から世界の平和を願った。

そしてこの明るい風景の先の隣町には、レ・アントルメのモンブランがあるのだということなどを考えたのである。

 

だが今日のターゲットはそれではない。向かうのは逆方向である。

…目の前の風景、頭の中の風景を混ぜ合わせながらふわふわと歩いてゆくと駅に着く。明るい冬の陽射しの中で栗子さんはずっと、嘗て幸福であったときの、さまざまの己の人生のシーンを思いながら歩いていた。

駅に着けばまた風景が変わる。繋がる場所も変わる。栗子さんは、それを楽しがりながら真昼の明るい電車に乗りこんで、ゴトンゴトンと揺られていく。彼女はまだ幸福なままだ。

  ***  ***  ***

栗子さんは栗が好きなのだ。

秋になると、栗への思いは尋常ならぬ激しさをもって彼女の心を支配する。あたかも熱病に冒されたごとく。そして西暦2017、今年は特にモンブランへとその指標が焦点化された。これは先に述べたように、嘗て己から理不尽にも失われた幸福な菓子の世界を、その過去から未来へ向けて取り戻そうという人生の大冒険である。

 

週末になると幻想第四次鉄道TOKYO・中央線に乗り込んで、百花繚乱モンブランワールドへと彼女は向かう。

秋が巡り、無花果と栗の季節が街に巡ってくる、そこに平和が続く限り、おそらく。
彼女において「モンブラン=この街に菓子類の享楽文化があふれている証左=このちいさな世の中における平和の証明」なのであり、栗子さんはこれを三段論法的に応用した形として「モンブラン=世界平和へとつながる象徴」という図式に変換し真理として存在させしめている。この根拠こそが、彼女が今この行為を以て今日を生きるためのよすがであるといえよう。

この世界平和を追うために、幸福という真理を読み解くために、彼女は今日もひたすらモンブランを求めて歩くのだ。

(気まぐれに続く)

ロスト・クリスマス(メモ)

もうクリスマスは私にはやってこないんだな。

 

どんなにツリーを飾ってみても、クリスマススタンダードやバッハのオラトリオなんか聴いてみても、しがみつくようにして古い映画なんかや観てみても。クリスマス・キャロルや素晴らしき哉人生やくるみ割り人形や…。

 

螺旋を描くようにして重なりながら繰り返されていたはずの私のクリスマスはもう戻ってこない。うまく思い出せない。

 

膜一枚向こう側にあってどうしても入り込めない。

今まではそうありながらも、ほんの少しずつだけ、危うく重ねてきたんだけどな。どんどんどんどん失われてゆく。零れ落ちて離れて行ってしまう。

 

いつからこんなにもひどく失ってしまうようになったんだろう。

この寂しさに、ふと川上弘美「物語が、始まる。」のあの胸の痛む切なさの読み解けない論理を思い出した。物語が始まることと失われることの意味を。

難しいな、少し考えてみようかな、25日まで。

f:id:momong:20171220010242j:plain



妄想

荻窪の小さなワンルームで、するんと背の高いあのひととさまざまの考えを一生懸命語りあっていた時代のことを思いだした。

とても大切な思い出なのに普段はしまいこんで忘れているんだな。

…いや、そういうかけがえのない時間を重ねてきた、その上で現在が成り立っているという豊かさをこそ私はきちんと把握しなくてはならないし、それは、崖っぷちに立たされたと思ったとき、自分を支えてくれる唯一の、最後の望みの綱になってくれるものとしてある。

 

Y君と私は、ふたりとも二十歳そこそこで、同じ大学に通っていた。

彼はウチのすぐ近所に越してきて、私は夜になるとよく家を抜け出してあの部屋に遊びに行った。近所のコンビニに一緒に行って夜中のおやつを買って帰ったりして、何だかままごとのように楽しかった。(私はかぼちゃプリンが好きで彼はチーズ蒸しパンがお気に入りであった。)土日には一緒に街をほっつき歩いて買い物につきあったり喫茶店でケーキを食べたリ(吉祥寺のレモンドロップは当時からあったんだぜ。あの頃は井の頭公園口のお店だった。多奈加亭もチェーンなんかになってなくて、とっても素敵なかぼちゃケーキがあったし、ゆりあぺむぺるは当時から白ワインとスイーツのマリアージュなんていう洒落たことしてた。)、朝には待ち合わせて学校に一緒に行ってみたり、日常のちいさなくだらないことでたくさん笑ったり。若さのもつ尊大さで人生について偉そうに議論したこともあったのだ。本当に忘れていた。

麦酒の味を教えてくれたのも彼だった。それまでおいしいとか習慣的に飲みたいとか全く思ってなかったのに、あれこれ飲み比べにつき合わされてたりするうちにすっかり麦酒なしでは生きられない身体に。(アル中への手ほどき…感謝すべきところか抗議すべきところか…。)

泣き虫のあのひとの純粋さに大層驚いたこともある。最後にみたあの人の顔は、私がさよなら、と言ったとき、目を真っ赤にしてほろほろと泣きだした、あのやわらかな泣き顔だった。あの顔のことなんかを今なんだかつるつると思い出している。私は泣くことはできなかった。どうしてかわからない。寂しいことよ、とは、確かに思ってたんだけどな。

で、もう少しで世界が滅ぶんだったら、或いは自分の人生が終わるんだったら、どうする?なんて話をしたことがある。確か二人で彼の淹れてくれた珈琲を飲みながらだったと思う。日曜の夕暮れ時。

「今もってるカネ全部きれいに使い切る。今まで我慢してたやりたかったことぜんぶやるな、オレ。」

…なんてことを言うから、なんだかものすごい陳腐でつまらないなあと当時未熟な私は思ったんだけど、今、実は自分が彼とまったくおんなじことを考えてるということに気付いて愕然としているんである。(それで思い出したんだけど。)

我々は皆大抵、日々が続くという前提のもとに、普段のこの日常に支えられ、また、閉じ込められている。明日を守るために明日破滅しないために社会的立場を守り暮らすために節約したり我慢したりして置かれた場所で分相応に生きようとしているのだ。

けど。

心のどこかで、ここからポンと抜け出して限りなく自由になりたい、と、いつだって思っている。何もかもから逃げ出して。(問答無用に不可抗力な力ですべてをぶっ壊してくれる、ゴジラのあの圧倒的な破壊っぷりに痺れる快感をおぼえる原理。縛るものに対する破壊への衝動はこの自由への憧れからくる。)

夕暮れの最後のひと切れの中を遥かに光りゆく飛行機を見上げて、あれに乗ってドコカに行きたいなあ、とか、電車に乗っていて、このままふと出奔してしまいたいなあ、とか。

それがあたかも貨幣経済に関した陳腐で通俗な欲望に帰結してしまうものであるかのように感じてしまうことの切なさは、深く人間の業に関する寂しさである。と同時に、一見非の打ちどころのない合理的な貨幣経済制度による社会が、どこか決定的な歪みの源となる構造をそれ自体もっていることを示唆している。その圧倒的で暴力的な魔力、束縛力は、人の本来もっている「ほんたうに大切なもの」を問い続ける力を曇らせるものなのかもしれない。とてもとても個別的なただ「それ自体」でだけであるはずのものを、代替可能であるかのような記号に還元してしまおうとするメディア構造の力。

 

さて、ということで。

煩悩満載最後の望みプラン。

とにかく何にしろ断捨離しなくちゃ動きがとれないな。業にまみれた我が人生、せめて後に残るケガレの痕跡を少しでも減らしておきたい。

で、ほんのしばらくまったくのひとりの自由になってみたい。何にも脅かされることなく怯えることのないところに生きてみたい。そうして、行きたかったところ、やってみたかったこと、我慢してたこと。…しかしねえ、憧れだったあの店のあのケーキ食べておこうとか、もう一度、懐かしい友人たちとあれやこれや遊んで笑ったり話し合ったりしておこうとか。せいぜい、その程度。あと、旅。圧倒的に、これ。旅だ。持ってるお金がからっぽになるまでひとりでひっそり。日当たりのよい明るい部屋を選んで日を暮らし夜を明かす。そこではきっと今日常の中で読めなくなっていた本や漫画がちゃんと読める。今家にたまっている積読を抱えて行って何にも邪魔されず心配もせず読みふけるんだ。ふらっと映画館に入ったりとかもね。そして考えたこと好き勝手にいっぱい書き残して。

…いずれにせよ、時間とお金と身分と、あらゆる身体性に心が縛られて抑圧されてきた、小さな小さなことどもが降り積もって致命的になったココロノコリたち、山積物。本当はいつだってできることなのに。或いは、心の中にきちんと小さな永遠の日曜日を持っていたら。…ただ勝手にひとりで牢獄に入って、頑張って生きている眩い人たちを羨んでいた。

 

…いよいよとなったら(このときはすぐに来るだろう)、怖さや痛みが麻痺するように酒をたらふく飲んで泥酔してから湯を張ったバスタブに入り、鋭利なナイフでぐっと内側に向けた手首を切る。このやり方が、お湯の中に血液がどんどん流れだしていくから確実だという。服は着たままでいよう。そして独り言をぶつぶつとつぶやきながらそのまま眠ればいい。

まあしかしこれもまたその後の陳腐で悪趣味なお昼のメロドラマや安手のB級サスペンスホラー映画みたいなシーンだなやと想像したらやんなっちゃったよ。己の最後が驚くべき残虐さと醜悪さと陳腐さ、そのあじきなさに彩られたかたちで締めくくられるってのも…まあそんなもんか。(ちなみに私はホラーやスプラッタは大嫌いだ。好んで怖い思いをしたがる輩の気が知れぬ。映画はおめでたいハッピーエンドに限る。世界は脳天気なお花畑であるべきだ。)

つまりだな、この陳腐ないやらしさは、第一発見者になる彼、私を追いつめたあのひとのこの後の人生を一生その風景のトラウマでダメにしてやる、とか考えているところからくるワケだな。「こころ」のKを気取ってたりさ。とりあえずこれは、無力な自分の身をかけた精一杯の復讐。窮鼠というのはこういうやりかたでしか猫を噛めないものなんだ。それにしてもなんて穢れた根性なんだろうねこういうのって。我ながら。

…だけど本当に、こんな風に憎みたくなかった。本当に本当だ。私があのひとを攻撃したことはない。(わざわざそうやって労力を割く価値もないと思ってたわけなんだが。)ただそっと逃がしてくれればわざわざ執拗に攻撃しにこないでくれれば。…そりゃね、諸悪の根源は、ひとをばかにしている私の傲慢さなんだからさ。それはわかってる。

ああ、自分で自分の首を絞めなくちゃいけなくなっちゃったのは、どうしてなんだろうなあ。

愚かさと甘えと、矜持と。

だけどとりあえず今日、私は生き延びて、その今日の分の幸せをたっぷり受けとって、感謝と祈りの心持ちで眠れたりするのです。

ああ、幸せだ。

おやすみなさい、サンタマリア。

物語(蛇男補遺)

だったら私は、自分に都合のいい物語を捏ね上げて、それを信じることにするよ。

夢の中で誰かに言い放った、と思ったら目が覚めた。壁の時計は二時を指していた。深夜二時。

部屋は変な具合に歪んで見えた。自分の目の中のレンズがどこかひずんでいるせいだ。蛇の虹彩。そのせいで世界がゆがんだのだ。灯りをつけているわけでもないのに部屋全体は淡く発光し、夜なのか朝なのかもわからない。


確かに見覚えのある私の部屋、それは私のための部屋だったが、やはり私の部屋ではない。

…ヤラれた。蛇男・チャンネルだ。
喫緊の要請にでも出くわしたんだろう。予告もなしに送り込むから困る。そしてこういうときはいつもの場所とは少し違う、奇妙にアウェイな部屋に送られてしまうのだ。メディアルーム、その機能は同じであり、ツールはどこも同じではあるんだが。…まあどうせプログラムは私が組み立てる。

夢の中に閉じ込められたままの空間。視界は柔らかく薄闇に包まれているが、どこか薄明るい。全体奇妙に色が抜けて白茶けていた。


のろのろとベッドから這い出る。

机にはキイ・ボードが置いてある。机の前の窓がそのままディスプレイになっている。
画面は一面霧の風景に見えた。何色でもない、暗いのか明るいのかも判然としない、ただ濃い霧のように視界をふさぐ質感。


何かに背中を押されるようにして机につく。

窓の外の虚空から、叫び求める声がひしひしと迫ってくる。あたり一面からくる。どよめきのように背骨から脳髄へと鈍く響き渡る。骨髄のその奥で、微粒子がざわざわと波のようにさざめく、ブラウン運動

泣くようにして、私は笑っている。

それは私に求めているのか、私が求めているのかわからない。

物語を、物語を!

どうしようもないこの衝動が外側からくるのか、私の内部から来るのかわからない。
それが愚かしいことなのかうつくしいことなのかもわからない。

ただどうしようもないから、衝動のままにひたすら指はキイボードを叩きはじめる、絡み合うプログラムを打ちこみ続ける。思考が、思考ではなく、身体が身体ではない、わたしとは、ただプログラムを体現する現象であった。

打つそばから次々とそれはほのかな光を放ちながら起動してゆく。大気中にほそく震え輝く金色の雨のような菌糸が張り巡らされ、発芽する胞子のように、その菌糸から発光する子実体が現前する。さまざまな形状で、とりどりに柔らかな光を放つ、ほのかにうつくしい夜光キノコの森が出現する。それは生えだすや否や、ふわふわと夜光クラゲへと変態して漂い出す。空気が水のように澄み渡る。

この手の中から、うまれてくる、その柔らかな光の世界。この部屋は煌き震える金色の糸がはりめぐらされ、ゆらゆらと蛍光クラゲの泳ぐイカサマなカラクリ部屋、くすんだまばゆい霧に満ちたきらびやかな空間。

窓を見る。この部屋と共振しながら、そのインスタンスであるところの世界が映しだされる。
こんなインチキな場所から、こんな優しい光が照らしだされることができるのだ。私の中で何かがゆっくりと昏い瞳を開く。光を吸い取る。やわらかく、ふるふると、喜びに震えるいのちといのりがある。

…よし。依頼は果たされる。このプログラムは正しく機能する。それが否応なく私を支配してゆくのを私は感じていた。生み出したものに飲み込まれる。うっとりと心は正しく飲み込まれてゆく。現象と一体化しながら、私はここで私として成り立ってゆく。

***

森だった。
そこに映し出されたものは、限りなく深くゆたかな森。
私は私として成立しながらその底をゆきながら、キイを叩き続ける自分もうっとりと感じていた。意識はその生物相に似た迷路をさまよってゆく、ずっとさまよっていたことを知る。生きているということは、ただそれを切りひらくということだった。

次第に、幸福という概念が記憶の奥から滲みだしてゆく。それはわたくしの外側からくる。幼い日に与えられた明るい部屋の中、与えられた菓子の記憶のようにふわっとほのあまく胸に広がるもの。あたたかく、あまく、やさしく。私の五指の操るままに、世界は現前し、その姿はさまざまにうつろってゆく。私は夢中になって、プログラムを変換し続ける。

OSは定まった。各アプリケーションにはある程度自由度がある。それらが拮抗したバグも数多く出ることだろう。だが、大筋は定まったのだ。

ENTER。

***

「もういいよ。」
蛇男の声がした。

金色の虹彩を正面に向けたまま、横に立っていた。私はぼうっと意識が途切れてそのままぽかんと呆けていたのだ。起き直ると、しんしんと痛む目を押さえ、奴が差し出した白いカップを受け取った。濃い珈琲。蛇男の淹れる珈琲は、いつも地獄のように濃くて熱くて、もうその地獄になら堕ちてもいいと思う。魂に炎の灯る魔法の液体だ。

痺れるような快楽にぼんやりと微笑みながら、私は窓の外を見晴るかす。自動生成モードに入った森、そしてその向こう側。

向こう側、その森の外には静かに光る街が広がっている。空や雲があまりにも眩くきらきらと光るので、街は光を乱反射し、屋根も樹々もそれ自体が凄まじく発光しているように見える。あんまり明るく光るので、どこかがらんと暗く見えた。本当はあんまりにも美しく明るいので、その強度に耐えうる感官のキャパシティをもたないからだ。瀝青のように濃い闇に見える。

そう、ここでの感官がそのあまりにもまばゆい輝きの真理を受け取るキャパをもたぬ。それだけのことだ。それが本当が損なわれることなどない。それはバグではなく正しくプログラムされた、その正しさの外側にある。その外側にのみ存在できる。

いつか、あの中へ還ってゆくためには永遠に創造し続けなくてはならない、創造主とは機能である。いつかあの懐かしく明るく光る青空に満ちた街の中へ、私は行くのだ。

「もういいよ。」
後ろからポンと肩を叩いて、きっと別の誰かが私に言うだろう、部屋を出る、その日には。