酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

安房直子、金子みすゞ

金子みすゞの詩を読んでいて、その寂しい優しさになだめられた。
この感じは、安房直子さんの効き目に少し似たところがある。

なんだろう。

ひやりとするような怖さも似ている。
優しさは寂しさと同一であり、あきらめと受容と同一である。

だがこれは救済なのだ。唯一の。
むごい不条理もすべてを受け入れあきらめ、すべてのかなしみにただ寄り添う。

それなのに、そのとき、不条理をも含め、世界まるごとそのままのうつくしさをうつくしさとして賛美することができる。

それは、論理だ。非人情ということ。
私はそう思う。或いは、法(ダルマ)。その非人情(漱石が「草枕」で言ってたやつね、確か。)のうつくしさを人情とのあわいにうまれる寂しいあきらめに似た深い深い優しさでくるみ込む言の葉の技術。

あくまでも、それは「外側」にある。システム化された人情の外側の非人情。それは社会的なるもの、制度、物語の内側にあるものとしての倫理や義理人情として流される「情」を離れた、その外側にあるもの、歪みも憎悪も入る余地のない、冷徹で何もかもそぎ落とされた骨組みとしての論理、ただただ、論理である。宇宙の成り立ち、世界のなりたち、現象、電脳のような、「ただそれだけ」のもの。

非常に女性的だ、と思う。
母性というのではない。ただ深く女性的なるものなのだ。或いは、アンチ・ファルス。

更に言えば、ファルスとしてのアイデンティティ、個の概念を離れるために、それは個からの解放であると同時に、個としての死に直結した論理である。怖さや寂しさはそこに由来する。だがそれは、個を「否定する」というのとは違うのだ。ただその外側も内側も、なにもかも等しく肯定する大きな法、論理である。

ここで、個的な特別な思い入れというアンバランスは非人情としては「否定される(はずのものである)が、理解される」。

純然たる論理学や哲学というよりは、言の葉の柔らかさによりそったあいまいな文学という分野の面目躍如たる場面である。救済、甘やかで切ない優しさはそこに由来する。個は、限りなくその存在を肯定されている。失うことをも含めて、それは失われない。(矛盾しているようだが。一度存在したものは永遠にその存在を失うことはない、過去が損なわれることは決してない、「なかったこと」というのはありえない、という論理のもとに。)

一つのアイデンティティとしての、キャラクタライジングされた既成の個の概念からの解放とは、ファルスからの解放とは、つまりは物語の登場人物であることからの解放である。それは読者の超越視線を持つことを意味するものだ。物語の存在とその中の登場人物であることを認め(存在を肯定する)、その上でまたそれを客観視する解放された超越者の視点を持つ構造を創造する手段。コミットしながら解放されている。物語行為(読み書き双方。書くことは世界を読むことであり、また読むことは世界を書き出だすことである。)が、そして芸術一般が、宗教と同様に救済の手立てであることの理由はこの世界構造の発見、その次元をくりあげて己の存在する世界構造をも(虚構)物語内部にあるものと同様であることを見出すような実感、寧ろその体感のような認識と感覚に由来する。

…苦しさが、ほんのりと優しくなだめられる、切なさと寂しさが救済と同義であるという構造は、しかしやはり不思議だ。大きな構造をとらえてみるとき、ホントはそれは全然不思議ではないんだけど。

やっぱり人間は、不思議なのだと思う。

 

安房直子さんの代表作ともいわれる(教科書に使われて知名度が高いってことなんだけど)「きつねの窓」という非常にうつくしい短編がある。

こないだ、いろいろの話のついでにぽろっとこの作者の話を思いだして、どうしても読んでもらいたくなって、会話の相手に、この一冊を差し上げた。気に入っていただけたようで私は嬉しかったんだが、(絶対気に入っていただけると思って差し上げたのだ。)ついでに自分も久しぶりに読み返して、やはり幾度でも新鮮に心に沁みるこの喪失のかなしみにみちた救いのない救済の響きを聴いた。聖書の言葉のようにして聴いた。僥倖であった。これもコーランに書いてあったんだろう。(運命である、という意味である。)

青のいろの使いかた。「なめとこ山のくま」的な、狩るもの狩られるもの、自然と動物との関係性、経済社会と個的な世界の価値関係の反転。(「代償」の意味の決定的な変換が仕込まれている。)流れる日々、日常の中に埋め込まれたイデア、喪失と救済のための、何人にも侵されることのない自分だけの「御大切」。永遠の過去の場所。

たくさんのテーマを、安房直子作品にさまざまに展開されるそれらをまたひとつひとつ掘り出して磨き上げて抱きしめ、またそっと心の奥に埋めなおす。そんな風にして、書きたい。誰も書いてないことを書いて残したい。

読み返すごとに、新しくよみがえる。言葉を咀嚼し磨き直し自分の中に現在させまたそっとしまいこむ。この行為は、読書の現場を重ねてゆく行為である。作品が都度新しく自分を重ねた形に昇華され消化されてゆくプロセスである。読み返し或いは思い出すごとに。

ちょっとね、そう思ったんだな。野望だな。もう少しだけ生きてくための。


「物語は、作品は、作者と読者とテクストの三位一体となって、三者のその境目は失われてゆくものとなるためにナラトロジックな構造をもっているのだ。どんどんと自分と一体化してゆく。自分は解放され自分にすべては取り込まれる。内側からも外側からも解放される大切な場所を持つことができる。」

この構造を証明するためのね。

猫と中央線

犬は人に付き、猫は場所に付くという。とすれば、私は完全に猫派である。

大体犬は苦手でなんである。子供の頃野犬集団に追いかけられたトラウマのせいかもしれぬ。
だが、家族親族、私以外は皆犬が好きらしい。犬派であるらしい。子供にはほぼ無関心な父でさえ、姉んちの愛らしいヨークシャーテリアは猫かわいがりする。(犬だが。)無垢でいちずで人間を愛する文化に取り込まれた狼の末裔、忠実な犬。

私だけきっとどこか徹底的に何かが欠けている。どっかの木の股からたまたま生まれた異形のモノなのではないかと、子供の頃から思っていた。実際、高校の頃など、よく座敷童とか自転車のかごにはいってるネコのようだとか青い血が流れてるでしょとかよくわからない評価を受けていた。

気がつくと教室の隅っこにただひっそりと存在している異界の生物な感じなのかね、思うに。(ひょっとしてさ、「ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ…」の理想形ではないか、これってもしや。)(そうして私は心の底からそれを望んでいたし望み続けている。)(いや褒められたいのは褒められたいけど。)(毀誉褒貶は全部セットだからな、疲れちゃうんだよ。)(「井戸のつるべじゃあるめえし、上げたり下げたりしてもらうめえぜえ。」)(…やっぱりちょっと寂しいかな。)

で、場所、ということ。
トポス。すでに単なる空間という概念を越え、時空の概念を完全に統合した世界構造に対する空間的アプローチを意味する言葉である。それ自体が構造として全体性と意味をもったところ。

ということで、個人的な場所への思いをトポスとして考えてみる。
個人的な思い出が増えるたびにその人も場所も、心の中に現象した風景として写し込まれ、その時だけの(永遠の現在の一枚として、インデックスとして取り込まれる。これは「標本」だ。存在を証明するための標本のカタログが人生の記録として増えてゆく。標本とは、知識であり、またそれは存在という内実、その実在へ至るための道標である。

昔から思っていた。例えば人を好きになることは、その人ではなく、自分がその人といる風景まるごとを愛することなのではないかということを。あくまでも、対象はそのひと自身、単体、アイデンティティを指すのではない、その風景を指すものである。己と対象とを含んだ風景という現象を、そのひとつの世界を「そのひと」として愛するのだ。

つまり、私はおそらく、ひとりの人間の個性というものを、その絶対的なアイデンティティとしては信じていない。それは自分のそれを信じていないからである。現象として、関係性として、或いは夢見られた物語として、それらすべてを統合したトポス、意味に満ちた場所として、そこからくる幸福感と意味と物語を、愛する。だからこそ人を愛することは、自分を愛することであり、世界を愛することなのだ、きっと。

よくね、恋をすると世界のすべてが輝いて見えるとかいうやつ。これもそのひとつの解釈としての表現なんじゃないかと思うよオレ。喜びや切なさや痛みや、とにかく、エナジイに満ちたところ、それが発生するところ。あらゆる意味と物語を発生させる力の、世界のアルケーとしての場所。

喜びや痛みや、そのような情動に満たされたエナジイにみちたその空間は、永遠につながる一瞬の切り込み、神話的時空に繋がるところ、あるいはそれは、アボリジニたちの言う「ドリーム・タイム」なのだ。神話的空間…だからこれがアレなんだよ、西田のその「永遠の現在」の構造。意味に満たされた完全な世界。

なんでこのことを思い出したかっていうとだな…えっとだな、中央線沿線が私のひとつのメインを成す故郷なんだけど。…つまりだな、私は幸せだったのだ。美しく晴れた11月、晩秋の明るい光に満たされた懐かしい日曜日の中央線に揺られていたとき、その場所だけに開かれた時空に包まれたとき。とても自由だった。過去の中で自由だった。

思い出したのだ、街の風景の中に沁み込んだいろんな人との思い出の重層が現在に重なってよみがえってくるような、その感覚とともに生きていた。生きてきたよかったと思い、その現在を今の目の前の人々の人生すべての豊かさに重ねて、世界は現在過去未来すべてを含んで光に満ちて豊かであった。永遠の現在。

 

猫ってみんなこんな風に場所に思いをもってるのかなあ、ひょっとして。

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風の谷のナウシカ試論(ますむらひろし「アタゴオル」「ギルドマ」との対照から)

ナウシカ再読、了。(アニメじゃなくて原作ね。)

学生時代、読み始めたらとまらなくて一気読み、深夜に興奮して眠れなくなった記憶がある。


やっぱりおもしろい。神話だなこりゃ。

やっぱりね、ナウシカ原作…なんかなあ、なんかないのかなあ。この面白さをきちんと分析したものが。ものすごいたらふく神話的モチーフ並べてきれいな構造をもって、そしてそれはただしく野生の思考で。

ちなみに私は必ずしもナウシカに賛同するものではない、と思う。(ラストシーン、クライマックスの究極の選択んとこ。)寧ろシュワの墓場に秘められた知恵と技術の、人類の永遠の夢憧れ祈りの上澄みを愛するのではないか。ナウシカが破壊したそれを。

殺戮と汚辱と差別と。既に罪業にまみれ、血塗れになった存在、汚染されつくした世界に心身ともに適応してしまった「穢れた存在」として(実はそのようにプログラムされていた)自分たちの姿をよりくっきりと相対化し「間違った存在」と明白に規定する、「正しい」無辜なるものとして生まれるべき新しい人為的生命のタマゴ、その未来像プログラムを。

だが彼女は破壊した。古の人類の智慧を、信仰を、新しい美しい理想郷への祈りを破壊した。

ナウシカのこの行為は何を意味するのだろうか?
これはまさにひとつの世界の破壊と終焉のあと、再生するべき新しい世界の運命を「決定づける」行為なのだ。

どの宗教の教えにも含まれる、終末論、破壊と再生のイメージと意味付けにこの問題意識はがっぷりと取り組んでいる。

来るべき新しく再生された清浄な世界の朝が訪れるとき。プログラムどおりなら、そのとき、浄化のプログラムの一環として仕組まれた人工の生態系の中、今まで汚穢と恐怖と嫌悪の対象であった蟲たち、そして穢れた臭い者として差別されてきた蟲使いたちの、その立場に、実は今まで彼らを差別してきた側の者たち全員がまるごと同じものであったとして立つことになる。

そのとき、王蟲たちの友愛を知り、蟲使いたちを等しい価値を持つ生命として愛する全体性としての友愛を受け入れることでしか、血塗られた自分たちの魂が論理的、構造的に救われることはできない。存在したことまるごとをすべて否定されることを避けるために。…ナウシカが立つのはその立場だ。どのようなかたちであっても、一旦生命として存在してしまったものはすべて同じ尊さをもつ、と。真の存在のための影であった、存在自体は無意味なものであったとして貶められ否定され、人為によって淘汰されたりするべきものではない、と。目的のための道具として生まれ生きたものではない、と。

…このような構造への洞察と決断を、ナウシカの凄まじい戦闘の選択は露わに描き出す。
そして彼女の選択とは、その「今」を貶め相対化する存在としての未来像そのものを、新たな、無辜なる差別者の存在する世界という未来まるごとを拒否することであった。換言すればそれは、彼等の、理想を追い求める、「光の純粋を追い求める」ことによって必然的に発生する「まったき影への嫌悪と否定」を見抜き拒否する行為である。純粋な光へ素朴な賛美は、影の排除、そしてそれへ憎悪や侮蔑によってしか存在できないものだから。

ナウシカは現世の智慧としての神話的存在だ。彼女が破壊の女神であることは非常に意義深い。シュワの墓場の理想へ至ろうとするための智慧と祈りは男性原理的な合理的純粋さであるがナウシカは女性原理としての混沌と全体性、更にはその先の世界存在への「愛」のような、存在してしまったすべてを包む母としての性質を持っている。

…それ以外に救済はありえないのだ。そしてそれは闇をも包含することを前提とする。己の生が決してスタンドアローンなものでなく、たくさんのたくさんの死の闇の上になりたったたったひとつのあえかな輝きであることを彼女は奇跡として、生命という、死の闇の中にまたたく光の奇跡として、その闇を包含したまるごとを、己を全体性の一部として激しく感覚するのだ。

「違う、生命は闇の中に瞬く光だ。」という有名な科白がある。

トルメキア王の道化に憑依して(それにしてもこの「つくられた知の神が道化に憑依するってやりかたは絶妙だな!滑稽と究極の知が同一であることを体現する者」)語る、古代の智慧と理想の象徴、その「人工の神(純粋な理想郷、永遠の正義への祈りの人類の技術知の結晶だ。)」を彼女は「哀れな不死のヒドラ」と呼ぶ。

彼が、ナウシカにみだらな闇の匂いをかぎとり糾弾し「生命は光だ!」と叫んだ時の答えが先のナウシカの科白だ。光のみを肯定し闇を否定する彼と、闇と虚無と共に生き、繰り返し死を乗り越えて生きる生命のかたちを主張するナウシカとの決別である。

「浄化のための大いなる苦しみを罪への償いとしてやがて再建への新しい朝が来よう。」という技術の知の言葉をナウシカは拒否する。彼女はそこでひそかに闇に追いやられ否定される者たちへのまなざしを閉ざさない。「お前が知と技をいくらかかえていても世界をとりかえる朝には結局ドレイの手がいるからか。」この議論のシーンは「異邦人」(カミュ)の理性の神父と怒りに満ちた生命のムルソーの議論を思い起こさせるようなエキサイティングなシーンだ。

「私達は血を吐きつつくり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ!!」

穢れの極致、猛毒の深奥にのみ、極限のうつくしさが真理が存在しうる(それは構造としてセットなのだ。)、というテーマがこの作品の随所には現れている、王蟲の体液、神聖な腐海の森の奥の聖人セルム。存在全てを肯定するためには、言い方を変えると世界の一部(闇なるもの)を言下に否定する殺戮行為を避けるために、そのようなかたちの世界構造を示しだす宮崎駿の物語構成は非常に効果的なのだろう。

虚無と共に生きることと、友愛と共に生きることの同義、その全体性を生きる、ということを。

 *** ***

で、巨神兵、オーマ。これが泣かせる。…これはシン・ゴジラ的なるものなのかねえ。
共通点が多い。世界を破壊する力、武力、力としての存在であり、人間の作り出した、いや、呼び出した、そして己の手に負えなくなった破壊神のイメージを帯びた巨大な力である。だがそれはあくまでもただ純粋な(力)である。ナウシカが彼に与えた「オーマ」という名が「無垢」という意味であることは明らかにその思想をあらわしたものだ。

そしてナウシカから名づけられた彼はその瞬間、その存在をナウシカ的論理による正義に属するものとして知性を伴いながら「規定される」。名を与えられる瞬間とは、混沌からやってくる純粋な「力」がコスモス側に取り入れられ、その力が解釈され得るかたちとして、意味と性質(或いは人格)を持つ瞬間だ。ナウシカを母としてのそのオーマの覚醒は、ひとつの意味を持った生命のこの世での誕生の瞬間でもある。

爆弾や核兵器、ただ殺戮のための武力のかたちのはずが、物語の中で魂や知性を持ち得ることを示唆した生物体のかたちをとって象徴されることの意味は深い。ゴジラ然り、巨神兵然り。たくさんの議論の可能性がここに開かれる。あたかも、古今東西の神が神話の中で人格神として規定され続けてきたように。

善悪の彼岸からやってくる「純粋な力」がこの世界に取り入れられるとき、それがどのような性格をもった存在となるか、という定義づけのミッションのテーマもまたここに可能となる。

ここでの「己の現世での生を育てる親を選ぶ『神』」という構造で思い出すのは、イエスを生む処女マリア的なイメージもあるだろうが、思うにこれはいささか薄い(現世でのマリアとヨセフはイエスの性格付けに決定的な影響を与えるものではないように思われる。聖書はワシちゃんと読んでないんでこのへんあんまり言えないけど。)。私がすぐに思い出すのは、ますむらひろしの漫画である。「アタゴオル」シリーズに、主人公の自堕落で放埓なデブ猫ヒデヨシを父として選んだ植物の王の話があるのだ。

「ギルドマ」。(ここでは男女の役割が反転している。規律は闇の女王に属し、自由は光の王子に属する、したがって、光の王子が選ぶのは母ではなく父なのだ。)

ある日、ギルドマの地で、封印を解かれ、規律と支配の植物女王ピレアが復活する。(これは繰り返される神話としての約束だ。)己だけの唯一の秩序の美を尊びそれを乱すものを憎み殺戮することによって成り立っている女王。世界が彼女によって支配されあらゆる個性を否定されようとする危機に陥ったとき、必ず生まれる約束になっている対立項が、植物王「輝彦宮」だ。

植物王の種として生まれ出でたとき、輝彦宮はこの世での力の強いものを父としてその力と性格を担って育つ使命を負う。ピレアの憎しみの闇を封印するための生命の輝きの力を育む対立項として生まれる者だ。

…ここで興味深いのは、ナウシカとヒデヨシ、この父と母、男女の原理の反転した物語の解釈である。

穢れを蔑み否定した唯一の究極の調和と美の理想を掲げる敵(古代の知性・ピレア)と、穢れをも包含した全体性としての生命の輝きを重んじる主人公側(ナウシカ・輝彦宮)の闘い。同じようなテーマを掲げながら、この二つの物語においては男女の原理が全く反転して描かれているように見える。父の正義と母の正しさの相克。

…闇と光、という比喩が共通している。正義とそこからはみ出るものについて。これについて考えてみよう。

ここで問題となるのは、個と全体、という要素でもある。

例えば、正義を掲げ理想を追う個を光としたとき、それ以外の外側は闇となる。世界のベース、その基本は虚無と闇だ。虚無の闇のなかを、それを否定しながらすべてを己の光で支配し照らし出そうとして行く光としての個、自我。永遠にそのままの己自身であろうとする自我。この図式の物語を掲げているのがナウシカと輝彦宮の敵である。不死のヒドラ。憎しみのピレア。

ナウシカと輝彦宮はその双方が穢れと闇を包含した全体性を生命の豊かさと輝きそのものであるとして掲げるが、ここでの男女の違いは、ナウシカが個を超えた全体性の中にそれを見出し、輝彦宮がファッショとしてののっぺりした一様な価値観に閉じ込められた世界の全体性として定義する闇の母ピレアを、個の多様さ、その自由で放埓な無条件の生命の笑顔の輝きでもって破壊する解放の中にそれを見出した、という、いわば反転性を孕んだ違いである。だが、双方が、多様への、全ての存在を肯定する「世界の解放」であることは共通している。

それは、やはり母という要素が闇を孕んだものである共通した原理に基づいているが、その「母(世界・マトリックス)の闇」の両面性を如実に現した違いであるところがキモなのだ。母は闇から光(多様)を生み出すものであり、光(多様)を闇(本来カオスであるはずのここが、「ギルドマ」ではファッショへと読み換えられる危険をはらんだものとして解釈されている。)へ戻そうとする両義の存在であるから。

ナウシカを見てみる。
ひとつの光「個」が己だけをスタンドアローンな唯一の光として他の存在、その多様を否定し、換言すれば闇の中の光の多様を否定することによって闇という混沌の全体性そのものを否定する動きを持った時、その光は全体性を失ったヒドラとなる。純粋と不変と不死を願うもの。それはいつしか他を憎み殺戮と差別を生むだけの権力構造となる、歪みとなる宿命を負っている。…純粋な願いであったはずのものが、腐るのだ。

で、ギルドマ。
闇が、調和と静寂という全体性の美を掲げ、散乱する個的な光の多様を圧殺しようとするとき、その闇は逆に多様としての全体性を既に失ったものとなる。反転だ。

このような反転はいわば、闇の中をゆく光としての自我を感じながら、それがいつしか反転した光の中をゆく闇の中の自我となっている構図、ネガとポジの物語が常に共存し反転しながらどこか等しいものとして認められている、という両義の構図へとつながるものであることを意味するのではないだろうか。

蟲と腐海の穢れの中をゆく己という図式が、いつしかその深奥に腐海の深奥の清浄と王蟲の内部の友愛と癒しの美の真理の中に包まれた小さな闇となっている図式に反転していることの物語を。

 

男性原理と女性原理は、ただ、構造を示す、文字通り「原理」である。相克するものでありながら常に両義を孕み止揚され続けなければならない神話のための闇と光の反転の原理。それが仕組まれた装置がこのような「物語」なのだ。

何しろ、結局どっちにしろ多様性をいかに許容するかってハナシなんじゃないのかねえ、と私は思ったんだけど。

 *** ***

「己の外部」その理解できないものの存在を許すか、許さないか。それはすなわち世界の多様を許すか、許さないかの問題である。多様性、ダイバーシティの本質はここにある。理解するのではない、それは不可能だ。理解できないものの存在を己の存在と同じものとして許すのだ。己のキャパの小ささを理解するのだ。理解しえないという前提を理解し合う。その不協和のなかにこそ個と全体の共存と調和は極めて逆説的にだが初めて存在できる。

個を超えるものが女性原理であり、個にこだわるのが男性原理である、とすれば、その全体性や個を支える基盤を何かに仮託するとき、己を失うとき、ファシズムがうまれる。己の頭で考えることをやめるとき。唯一の正義のみを信奉することの美学のお気楽さに帰依するとき。アクセスのためのルートが違っても構造としては同じなのだ。

共に、ファッショへの恭順と被支配に通ずる。

闘いの神話は、常に「現在」する物語としてある。

 *** ***

たくさん言いたいことあるけど、風呂敷広げたら結局なんにも言えない。
オチがうまくついてないんだが、とりあえず見切りアップ。風邪ひいてツライのよ、今、オレ。

とりあえず寝ます。おやすみなさいサンタマリア。よっぱらいだから、きっとまたこれ書き直します。

ナウシカこれから書く編集宣言

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ナウシカ再読、了。神話だなこりゃ。野生の思考。
 
寝る。明日は曇り。(来なくてもよい。)
 
付記(11月11日丑三つ時)
ますむらひろしのギルドマも読み返したから漫画繋がりで書こうと思う。
 
寝る。
明日はきっと午後には晴れる。だからモンブランでも買いに行こう。

薔薇

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帰宅したら、薔薇の花束が届いていた。

誰だろう。
誕生日に花束を贈られたのなんて、何年ぶりだろうか。

誰だろう。
薔薇ならば、深紅で、開きかけの蕾が一番好きだと口にしたことがあるのは学生時代の話だ。誰がそのことをおぼえていたんだろう。

誰でもいい。
何かの気のせいかもしれない。最近、すべてできごとは夢の中のことのような気がする。

私は花束のりぼんを解き、食卓に飾る。少し疲れていたけど、少し嬉しい。


誰でもいい。

ヤナちゃんの歌を思い出したんだ。
脳内でぐるぐると歌い続ける。

「まだ見ぬ恋人よ傍に来て。ロープにぶらさがる男を抱きしめろ♬」
(オレ男じゃないけどな、気持ちとしてはこれなんだ。)

それから、ムーンライダーズ
「薔薇がなくちゃ生きていけない♪」

ありがとう。

精一杯生きなくちゃ、まだ見ぬひとと、酒と薔薇。
これさえあればきっとひとは生きられるようにできている。

川越

誕生日メッセージくださった皆さま、ほんにありがとうございます。

生まれて育ってさまざまあって、こんなに生きながらえてきたことを不思議に思います。実にありがたいことです。人生投げずにしっかり強く生きなくてはいけないなあと思います。一応真面目にそう思っているのです。基本的にすぐすべてを投げだす「にんげんのくず」タイプなのですが。

 *
で、にんげんのくずのくせに姉にお祝いしてもらっちゃったんである。「川越案内してやるぞ。」の川越ご招待。

川越って素敵なとこだというので行ってみたかったので、ホケホケと甘えるくずである。姉のアテンドでいざ川越アドベンチャー

奇跡のように素晴らしい晴天に恵まれた金曜日。
これで一年分の幸福は使い果たしたな、と思いましたな自分。

母と姉と三人で気楽なもんで、こういうのはいいもんである。連れてってもらったのが古民家カフェならぬ古民家蕎麦屋。非常に素晴らしいナイスな蕎麦屋である。さすが我が姉のセレクト。

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編みねこもミノムシにして連れてってやった。
新蕎麦だと聞き喜びに舞う二匹。

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創作料理もとっても気が利いてるのだ。日本料理ってやっぱりなんて上品でおいしい美しい食べ物なんでしょう。

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蕎麦懐石。

先付は嶺岡豆腐(牛乳と白ゴマを葛でよせた店のオリジナル秘伝レシピだそうな。白和えの和え衣部分が固まったようなイメージの食感。)わさびが効いて、なめらかでこくがあって大層な美味。出し巻き、豆腐田楽も上品な味付けに感動。きのこの葛あんよせ、このあんの絶妙のだし加減と生姜の香りが、その、ナンダ、料理人のおセンスなんだろうなあ。

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お吸い物はふたを開けたらふわあっとあたたかい出汁と柚子の湯気の香り立つ幸福な一椀。お正月のお雑煮思い出すんだな、この柚子の香りのお吸い物って。

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玄挽き蕎麦は残念ながら新蕎麦じゃないということで、少ししょぼみつつ、でもいいの、野趣あふれる玄挽きセレクトに悔いはない!の顔。

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透き通って輝く更科の方は北海道産の新蕎麦だよ。(ちっちゃいポケットカメラでそそくさと撮るのであの透明感がうまく撮れてない。)(くやしい。)

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天ぷらは、野菜やスズキとキノコのはさみ揚げ。これがだな、熱々で、サクっと音がしたのヨ、ほんとに音がしたの、サクって。ウチの天ぷらはふにゃっていうよねえ、などとしょうもない言の葉の類をぐだぐだと交わしつつ。

デザートはひんやりした蕎麦の冷製、葛よせ、小豆餡。
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姉「これ、サイコー…」

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(窓からの風景、蕎麦屋中庭)


いやあ、お天気に恵まれて、目に入るものすべて大層うつくしく輝いて見える平和な秋の日、なんだかほんとうに、ありがたいこってす。

 *** ***

午後は、氷川神社で七五三のめでたく可愛い風景をたくさん見た。両親に手を引かれるめかしこまれた幼子というのは実に愛らしいものである。存在するだけで無条件に愛されている、このような存在が世界を優しいものとするたったひとつの救済なのやもしれぬ。

彼らがかっこいい巫女さんに伴われて神主さんに祈祷してもらってる風景も見たし、様々な思いをもっておみくじを引く老若男女、はしゃぎまわる修学旅行生の群れの中を平和に歩くこともできた。樹齢600年のご神木にもぺたぺた触ってきた。

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そして川越の観光メインストリート、菓子屋横丁。
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ここは大変たのしいとこである。名産の芋があふれておる。イモだらけといってもよい。ということで、店頭看板の「おいものビターなカフェラテ」に正しく引き寄せられた。

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ひとやすみでお茶。ちなみに姉と姪っ子は「芋娘」としてその芋好き(サツマイモね、甘いヤツ。ヤマイモやジャガイモやエビイモじゃなくて。)っぷりを広く知られてものである。

ちょっと大正浪漫な和風のたたずまいの仏蘭西料理屋「初音会館」の別館カフェ。窓の外は昼下がりの陽だまりに憩う人々の風景。ビターなエスプレッソに焼きいもアイス。これをサクッとしたゴーフレット様や芋チップスですくって食べた後は無糖のカフェラテ部分にくるくる溶かし込んでおいしくいただいてしまう楽しいおやつスタイルである。

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楽しいおやつは結構な正義だと思うな、オレ。