酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

安吾先生

酒は奇跡だ。

…って、安吾先生が言ってたんだっけな。

 

おれが今できることは缶麦酒のプルタブをひいてべろべろになることだけだけど、確かに生まれてきてよかったと思っているよ。

幸福とはこういうもの。
さいなら、はじめてのこいびと。

ぼんやりしていたらいきなりふられてしまったけど、恋というのは楽しかったからまあいいや、仕方ない。全部コーランに書いてあったんだろうから。

とても寂しくてかなしいんだけど、何だか私は今は不思議にくすくす笑ってよろこんでいる。あなたに出会えてよかった。やなこといっぱいあったこと含めて楽しかったなあ。それだけだなあ。

また寂しくなるのはわかってるけど。

ありがとう、生まれてきてよかったです。
生まれてきたことを死ぬまで精一杯遊ばなくっちゃ。

 

なあんてね、台風の中思っているよ。おやすみなさい世界。

ヤナちゃん55歳ライヴ

ちょっと前の話ですが、行ってまいりました。吉祥寺曼陀羅Ⅱ。

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嬉し恥ずかし告白タイム、胸の内に抱き続けた熱い思い、積年の恋心。
この日を心待ちにしていたのだ、愛しのカレのお誕生日ワンマンライヴ。

ヤナちゃん55歳誕生日を記念して、昼の部、夜の部に分けて55曲を歌いきるという、55年酷使してきたご老体には大層厳しい企画である。

 

さて、これに関しては、大学の後輩にも同好の士がいる。熱烈なヤナちゃんファンである。(ちなみに彼女は川上弘美ファンでもある。前世では姉妹だったのかもしれない。)

後から、お互い別々に同じ日のチケットを手配していたことを知った。

私は昼の部、「にっちも編」
彼女は夜の部「さっちも編」

にっちもさっちも行きたかったがまあいろいろ無理である。コアなファンは地方からやって来て当然両方ハシゴするらしいが実際まったく大したもんだ。

 *** *** 

当日、原爆の日、日曜日。
(私の母の田舎は広島だったので、子供の頃は毎年夏休みを広島で過ごした。そこではこの日はもうなんというか、起きたときから空気の質感を変えてしまうような厳かな粒子が漂っていた。ものすごい非日常的に特別な日だったのだ。膝を正して正座をし、式典TV中継に臨む。黙祷の間、その短い一分間に、ものすごく一生懸命その日のことを想像する、考える。八月の広島はそういうトポスであった。なまなましいリアリティを感じていた、怖かった。はだしのゲンもあの頃読んだ。この日が今現在、日常の一日であることがいまだにどうもしっくり納得できない。感覚的に。)

…で、戦後72年のこの日、さまざまに無感覚になってゆく自分のことをしみじみと感じながら出かけた。 

久しぶりのデートを兼ねて姉と行ったんである。姉は結構なんでも楽しめるタイプの、なんというか雑草のように強いオールマイティにクレバーな感性の人である。

姉とのデートは結構楽しい。姉妹ってのは割といいもんである。
電車の中で来し方行く末ボソボソ話し合ったりね、両親のことも話し合ったりもできて、とりあえず何だかんだ姉ってのは頼もしい存在なんであるよ。(オレ根っからの妹体質。だってさ、生まれてからずっと妹だったんだからさ、そりゃ蓋し仕方あるめいってとこでしょう。)

*** *** 

で、会場。

並んだ。ぎうぎうだった。暑かった。疲れた。
会場内もけっこうぎっしり。固い小さな椅子にちんまり座って、前の人の頭の隙間から全身全霊をかけてカレの姿を見つめ続ける。これはもう、放課後、ひっそりとグラウンドの隅から憧れの先輩を目で追う女子高生そのものである。


…そしてだけどやっぱり素晴らしかった。頑張って行ってよかった。
なんて色っぽいのでしょう、ヤナちゃん。


中盤のピアノ弾き語り「君を気にしてる」のあたりではもううっかり涙ぐみそうになっていた。(あたりを見回したらやっぱりホントに涙ぐんでる人がいた。ヨシ。)

そしてその後の「れいこおばさんの空中遊泳」からは「れいこ!(ヤナちゃん)おばさん!(観客)」「れいこ!(ヤナちゃん)おばさん!(観客)」と店内大合唱、曼陀羅歌声喫茶と化した。コアなファンはいるもんだ。

泣かせたり笑わせたリ、構成の緩急工夫したエンタテイナーである。
楽しかった。

そしてやっぱりどの歌も切なかった。

 

「弱い人間が弱い心をさらけ出す…」

呟くような歌い出し、そして緩やかに流れ出す、ギターの和音。この歌が大好きだなオレ。ヤナちゃんのブルースの真髄だ。「ブルースを捧ぐ」

再び涙腺が熱くなった。どうにもならないほど大好きなのだ、このロクデナシ負け組への哀愁に満ちたシンパシーが。

ライブ、やっぱりイイ。圧倒的な歌唱力。伸びやかで艶のあるいろっぽい声。一つの歌と音楽に全員の心が共振する、ひとときそれぞれの日常のくびきから逃れ、親密な場を共有し総員がつくりあげる一種異様な祝祭空間に同化する。非日常とはこのことか。

*** ***  

後輩君とは合間にメッセージをやり取り、愛しいカレの様子を報告しあった。当初、私は、夜の部に備えて力をセーブするカレの姿を危惧し、彼女は昼の部で力尽きたカレの姿を危惧していた。

が、双方それはまったくの杞憂であった。
さすがヤナちゃん、見上げたプロ根性である。昼間っからまったく先のことを考えないペース配分無視の全力投球ぶっとばし大熱唱。額に青筋立てて喉も裂けよと歌い上げる、伸びやかな歌声。その並々ならぬ歌唱力、そして、ああ、何度でもいいたいのだ、その並々ならぬいろっぽさのことを。(そして夜の部の報告を聞くと、やはりヘロヘロになりながらも歌声だけは伸びやかに、最後までぶっ飛ばし続けたそうな。そして後輩君やはり涙ぐんでしまったそうだ。「至福でした…」わかる。そして今オレが一番好きかもしれない「再生ジンタ」歌って泣かせてくれたそうだ。うういいなあ。)

*** *** 

とにかくその場にあって、私はもうおっかけの人の気持ちにすっかり同化してしまったんである。ええのう、なんかねえ、このままもう二度と娑婆に戻りたくないとかそういうの。ひっそりと闇の世界をわたらい歩き、正気に戻らぬままうっとりとそのまま消えてしまいたいとかそういうの。

ミサイル

なんかだめだめだな。

朝起き上がる前に結構真面目に世界平和について考えてみたんだが、どんなに一生懸命考えてもやっぱりわからない。

 

わしゃもう自分のこともままならないからのう。

 

ミサイル飛んできた騒ぎで専門家みたいな人が大勢いろんなことたらふくしゃべって書いて議論してってのチラチラみてて、なんかやんなっただよ。みんなすごく正義で立派で物知りで頭がいいんだけど、変なとこで肝心なとこで突然頭が悪いとこ見せるような気がする。

そして怖い人。基本的に怖い正義の人の言葉は信用できない。

 

どうしてね、世界にはこんなにびっくりするほど頭のいい人、物知りな人、立派で偉大な人がこんなに大勢いるのに、根っから悪い人ってのはそうそういないのに、こういうシンプルなことがこんなに難しくなるんでしょう。酷いことっていうのは起こってしまうんでしょう。

 

大きな酷いことと小さな酷いことは同じ構造なんだろか。このことは、考え抜かなければならないことだという気もするんだけど。それぞれの人、そして自分ができることを考えなければならないんだけど、とは思うんだけど。

 

あれこれままならなすぎて心身共に弱ってしまって動けなくなっている。顔中ぶつぶつが出てユーツだよ。とりあえず目の前の真鶴を読んでうさぎの小物用の糸でもいじって今日を逃げ続けよう。

 

新栗の季節が来たらきっとものすごい美味しいモンブランを食べてやろう。少し先の野望があれば人間とりあえず生きていける。

 

皆がそんな風にして考えればいいのにと思ったりする。 

ミサイル飛んで来たらそういうのもみんなおしまいなんかねえ。戦争おこったらねえ、何もかも人間は変わってしまう。そして暴力には屈するよねえ、大きな暴力にも小さな暴力にも。

暴力は極小と極大が一番忌まわしく性悪だ。それはものすごく見えにくくなっていて、そうして、怠惰と想像力の欠如からきているから、おそらく。

今日も心身ともに脆弱な自分はいろんな力に屈している。
まあとにかくとりあえず自分を守らねば。攻撃する以外の方法で。

みんなそうすればいいのに。
「暴力と攻撃以外の方法で。」


でもだからさ、まあなるべくやっぱりできる限り一生懸命考えるよ。なるべく悪い方へいかないように、みんな頭をそういう風な方向で使えばいいと思うんだよ。目的が同じはずならさ。

そしたら文殊の知恵はくらいでてきそうなもんだ。…だってさ、だからなんかバラバラと違う方に向かってる気がするからさ。本当は一つの方向をむいているはずのものが、あらゆるタイプのそれぞれの分野の、世界の優れた才覚が。

「この世界の片隅に」こうの史代

原作には甚くヤラれていたのだ。
うっかり油断して読み始めると痛い思いをする漫画である。
「夕凪の街 桜の国」とセットで原作への感想はここでちょっと書いた。
 
これがクラウドファンディングで映画になったという。アニメーション。なんか周囲の人々が激賞してるし世界中でやたら評判がよくて、あれよあれよという間に話題になって賞かなんかまでとってしまったらしい。
 
映画館でも観たいかなアなどとずうっとぐずぐず思ってたのに、やっぱりなんだか行きそびれてしまった。
 
ということで、オンライン試写会、ぽんと飛びついたんである。おうちでポチ。
 
夜部屋で酔っ払い状態でさあっと観ただけだから、原作もみちみち読み込んだわけじゃないから、責任のないおぼろな記憶からの印象だけど、なんかこのまま忘れてしまうのもかなしい。一応ちょっと思いついたことひとつメモしておきたい。
 
原作と映画とのちょっとしたアプローチの違いのようなものについて。
 
…アニメーション映画が、その性質を活かして、原作とは違うバランスで物語の特質を見出させうるという、その媒体による手法について思ったのだ。
 
主人公のすずさんが絵を描くという行為の強調、そのクローズアップのことである。

絵を描く行為が、物語行為になっているというのだという製作者(原作の創造的読者)の明確な認識。その感覚を感じたのだ。
 
それは、すずさんの描いている絵が映画の画面の現実と等価な風景として描き出され重なっていくという映画的な技法、いやむしろ現実を凌駕する、現実(という物語)を作り出す、という「世界認識(創造)」の技法として見出されるもののことである。
 
この映画の中では、時折、現実がすずさんの描く鉛筆や水彩的な絵画のようにして描かれる、タッチが変化する瞬間が挟み込まれている。
 
絵となった世界。すずさんの眺める世界。
 
それは、すずさんが世界を読む方法。それは、世界をうつくしいものとして読みとろうとする、あるいは読みかえようとする方法論。そしてそれは、いわば彼女がよりよい人生を生きるためのメソッドを我々に示すものとしての表現なのではなかったか。
 
原作では取り落としがちであるこの要素を、アニメーション映画は大きなテーマとして拡大強調してみせる。
 
すずさんの描くもの、それはまた、ありえたかもしれない人生の「もしも」の世界でもあった。限りなく分岐する運命と、たった一つの現実という残酷と切なさとかけがえのなさを映画は語る。
 
一枚の絵に収められていったものは、あきらめられた夢の墓標、果てしない物語の夢のイコン。日常を支える豊かな世界の豊饒を、心の中にそれは創出する。決して一つの世界に閉ざされることのない解放をいつでも胸の奥に秘めていられるように。
 
これが非常に顕著に表れているエピソードがある。初恋の幼馴染と婚家の納屋で二人きりのひとときを夫から与えられる、非常に危うい場面である。寄り添い、お互いの過去の思いを伝えあう二人。
 
運命をただ従容として受け入れ、あきらめてきた過去に描かれたほのかな夢、一枚の夢。穏やかなあきらめとともに、与えられた運命に応じてきたすずの人生である。その中で、その場に応じた夢をせいいっぱいうつくしく描き続けようとして生きてきたけれど、やはり決して取り戻せないものへの思いはある。その切なさと、そしてしかし今選んだ道(夫への愛、周りへの愛)のかけがえのなさの、ふたつの心。己の中にうずまく激しいその両極の感情のやるせなさに耐え切れず、すずは泣くのだ。
 
すずさんの描くものは、五感と日常、そしてそのファンタジー(民俗的異界感覚)から生まれる、日常と命に直接根差した物語。それは例えば冒頭の、妹に絵物語にして語る、子供の頃に妖怪にさらわれたエピソード、未来の夫に出会うファンタジックなエピソードである。怖いのに、どこか親しみがあってあたたかい、民俗的な異界、すずさんの住む世界、描く世界。
 
或いはそれは、いわゆる現実との二重の風景をなす。
時折なめらかなアニメーション画面がすずさんの描く手描きの絵のタッチとなって切り取られる、アニメーション映画ならではのそのしかけを、我々は一枚の絵画として心の風景に収納してゆく。
 
厳しい現実の戦争は、国家間の正義の物語は、目の前のやるべきことをこなす末端の日常に影響を及ぼす限りの出来事としてしか認識されない。お砂糖の配給がなくなる、お砂糖を大切にしながら失敗するが、それもあたたかな家庭の笑い話の一コマに変換されている。それは、唯々諾々と、ただ環境を受け入れる大衆の日常。政治も権力も国家の正義もない。与えられた運命があるだけだ。
 
物語とは論理である。言葉により、絵画により、音楽によって、五感によって成り立つ無限に生成される可能性を持ったロゴス。
 
それは、大きな物語、小さな物語。個別の物語、権力や倫理の描く物語。
 
*** *** 
 
そう、このアニメーション映画の中で原作から特化して抜きだされ強調されているのは、描く絵によって現実が認識定義される、という構図、その論理だ。アニメーションならではの鮮やかに躍動する表現力がここでより生きる。強みとなる、…ということを作り手は意識しているのだろう、と冒頭で述べた。それは一体どのようなかたちでか。
 
それは、例えば小学生の時の写生大会のあと、初恋の少年とともに見た海の風景、その白波にあそぶ海うさぎ。すずが描くことによって海にうさぎが飛びはねる世界の躍動が真実となる。その論理構造ががうつくしいアニメーション映像によって表現されている。
 
世界が、物語がそこに生まれるのだ。原作においてこれは言語と絵画によって表現されるものであり、動きとは読者の頭の中で行われる作業であった。アニメーションは読者の(少年の)脳内の風景を外的な視覚として直接画面に映し出す。少年は、その絵を見て嫌うべきだった海が好きになってしまうのだ。
 
海は美しいものとして読みかえられる…現実は芸術を模倣する。
 
すずさんの日々は、いつもそうやって描き続けられてきた。
 
だが、戦争の残虐さは、ついにその限度を超える。爆撃で姪っ子と右手(絵を描く手、物語を、夢を紡ぐ力)を失うことによって、救いを失い、いままでただただすべての理不尽をしなやかに受け入れてきたすずの心に、周囲の残酷な状況がナマなかたちで襲いかかり、裏の心、不条理への疑問が芽生えてくる。「どうしてよかったなんていうんだろう。」もう世界の醜さを読みかえる力がない。

そう、戦争は何もかも叩き潰す暴力、徹底的な絶望だ。そして、だが、この物語には救済が仕掛けられている。
 
戦争は終わるのだ。
 
過去に失われたものが未来からやってくる。「もしも姪っ子と左手を繋いでいたら」、の、その「もしも」がやってくる。爆撃の際、左手を繋いでいた母子の人生とのクロスオーヴァというかたちで。
 
母は片手と命を失い、子供だけが助かるという別ヴァージョンの物語をもった母子から、それはすずのところにやってきた。失われた姪っ子の代わりの戦災孤児となってすずにしがみついてきた子供。
 
お互いを求めあう、支え合う。そんなかたちの救済。失われたものが、「もしも」の物語の世界が、未来の現実となって別の命の形で補われ再生してゆく。
 
このラストは、失われるべきではなかったものの、その悲劇を、かけがえのなさを激しく怒り悼むとともに、決して未来をあきらめない、永遠に「普通」の日常の、日々の幸福と慈しみあいを続けてゆこうとするひとびとの、再生と救済の物語となっているのだろう。
 
そのしたたかさ、ひたむきさ、純粋さは、あるいは吉本隆明が戦後「大衆の原像」と呼んだひとびとの姿と重なるものなのかもしれない。
 
…と、なんだかね、そんな風なことを思ったんだよ。
 
蝉が鳴いて、西瓜を食べて、お盆が来て、そうやって、今年も8月は過ぎて行く。

「福岡伸一、西田哲学を読む~生命をめぐる思索の旅」

*プロローグの立ち位置   
 
本書を理解するにあたって、冒頭に置かれたプロローグ、及び第一章導入部の在り方は非常に重要な助けになる。
 
本編は全編を通して、専門の哲学者の池田氏と哲学に関しては門外漢としての生物学者福岡氏の対談になっているのだが、何しろ難解である。このプロローグ及び第一章の導入部分は、それを理解するための福岡氏の生物学を通した生命観、その思想のスタイル、そしてそれらと西田哲学との共通性がわかりやすくおおまかな概略として述べられているのだ。
 
本編では、福岡氏が、読者と同じ立場、哲学門外漢としての立場から、哲学専門である池田氏の西田理解について質問する、というスタイルをとっている。池田氏の語る難解な西田独特の述語に関しては理解できるまでそれを徹底的に質問攻めにし、読者に寄り添いながら西田哲学を読み解いてゆく。彼のこの態度が、やはりこれ自体も難解である本書を読みぬくための案内の役割を果たしている。
 
乱暴な言い方をすれば、このプロローグは殆ど総論である。対談はそれを実証してゆくための各論である。すなわち、プロローグ=結論である、という言い方もできるだろう。
 
池田氏との対談は、そこに行き着くために、生物学的な図解的説明を哲学一般、そして西田哲学の難解な独自の専門用語と比較しあてはめ解釈してゆく道行きとして読み取ることができる。
 
生物学的なアプローチとはいっても、それは、福岡氏の打ち出している独自の生命論によっている。すなわち、生命の定義を、外的にその属性を規定することによってではなく、生命の内側から考えた本質としての「動的平衡」であるとして規定するその生命論の在り方である。本書はこれと西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」という存在の論理の在り方を、全く同じ構造として読み取ろうとする。
 
これは非常にスリリングな西田理解のアプローチであると思う。難解な概念、難解な独自の言語が、生物学的生命論の在り方のアナロジーからスッと理解できる、その解釈の道筋の可能性を得る。
 
前提とされるわかりやすい二項対立の提示がまた理解の助けとなるものだ。
ピュシス(自然、あるがままの矛盾をはらんだままの全体性、混沌の世界)、とロゴス(人間の認知能力に合わせそこから抽出された合理的世界)。
 
ピタゴラス以降の西欧哲学や科学が「無」或いは「無意味」であるとして切り落としてきたその「全体性」としてのピュシス、ロゴスのマトリックスとしてのピュシス、そこに目を向けるところから西田哲学は始まるのだ。
 
福岡氏の主張「動的平衡」としての生命とは、蛋白質を含むとかDNAを含有するとかいう、「外部」から属性を規定される定義としての生命観ではなく、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という性質をもつものだ。つまり、中身としての物質的な実質は流れ変わってゆくものであっても、同じ形を、働きを保つ、その絶えず入れ替わり動きながら保たれる性質そのもの、を指すダイナミックな生命観である。細胞はすべて入れ替わってゆくが、記憶も人体もその性質は保たれる。動的でありながら、平衡が保たれる。ホメオスタシス
 
この不思議さを、世界の在り方そのものにあてはめたのが西田哲学である、と、乱暴に言ってしまえばそういうことかもしれない。
 
矛盾をはらみ、故に相克と反転を繰り返しながら「存在という現象」をつづけるひとつの全体、その「自己同一性」。常に細胞が自己破壊と新たな製造を続けながらエントロピー増大と縮小の両方向に向けて活動することによってのみ「平衡」を保つ、すなわり「動的平衡」性を本質とするものとしての生命。
 
これは、哲学、生物学に限らず、多様な分野からのアプローチによって普遍性を獲得する論理を指し示すものであり、世界全体が、おおいなる生命として見えてくるような、そんな手がかりをくれる本かもしれない。
 
*本編、対談~「逆限定」(第三章)
 
で、本編の対談である。
 
まず注意すべきは、質問される立場にある池田氏は、言葉の認識が西田哲学に既にアプリオリに同化している状態になってしまっている「専門家」である、という点である。故に、彼の説明の言葉は素人にはいささかわかりにくいのだ。論理がなくなったところに飛躍がある。重大な西田哲学の述語である「限定、逆限定。」を、「包み、包まれること」と説明し、ホラそうでしょう、と何の説得力もない例示でもって繰りかえす。仕方がないと言えば仕方がないのだ。これは確かにロゴスからピュシスへの感覚の移行というレヴェルの問題、主体が拠って立つ世界観の問題だから、どこかで論理はロゴスからピュシスへとジャンプしなくてはならないのだ。
 
対して、福岡氏は読者に寄り添い、徹底してわかりにくいところを質問してくれる立場をとる。そうして議論は深まってゆくものとなるのだが、まあこの過程がおもしろいと言えばおもしろいともいえるだろう。徹底した科学者の立場、ロゴスの言葉で問い詰めることによって、どこまで「不可知」を標榜するピュシスの輪郭に迫れるか。
 
…が、結局。
やはりそう易々と理解に至る、というワケにはいかないものなのだ。あちこちに障壁がある。
 
例えば、西田の「逆限定」という概念を説明する池田氏の「年輪の喩え」のところ。
今まで順調に読み進めていたのに、ここで躓いた。そしてそれはまずは福岡氏も同様であった。
 
で、しかし福岡氏。ここでかなり執拗にひっかかって食い下がって質問してくれていたのに、池田氏の、ほとんど堂々巡りのような説明の中で、突然ジャンプして解決理解してしまう。池田氏と同じ「向こう側」の言葉を語り始める。説明の喩えの中のなにかが腑に落ちてしまったのだ。が、読者としてはここで置いてけぼりになったような印象を受けた。
 
「逆限定」を説明するための、「環境が年輪を包み、年輪が環境を包む」、という喩えに関する論理は、やはり論理としては跳躍している、この唐突の感は拭えない、この肝心なところが自分には今どうしてもわからない。もどかしいくらいわからない。福岡氏が換言して説明してくれる生命の喩えは気持ちよくわかるのだが…。
 
つながりのイメージはおぼろげに見えるような、いやしかしまた見えなくなるようような、で、どうもぴしゃっとこない。やっぱりここがハードルなんだろな。ここは幾度も読み返し周辺知識を広げこなしてゆかなくては、というのがとりあえず自己課題である。
 
時間と空間の本質を、生命とエントロピーダイナミクスに根差したものとして、もっときちんとイメージできなければこの喩えの意味を解釈、理解できないんだろうと思う。
 
あと、おそらく周辺知識をしっかりもってないと難しい。池田氏は微妙に否定したけど、量子論的な思考との繋がりもあるような気がする。「世界(=この場合、生命の世界)は、雑多な細胞の集合体であるものが、全体として一つの有機体として機能するという、相反する状態が重なり合った世界であるといえる。(p180)」の、この福岡氏の記述の「重なり合った」可能性の世界構造みたいなイメージが。この辺りはただのカンなので、知識を広げてみないとなんともいえないけど。
 
(でもね、よく読んでると、池田氏の言葉は微妙にズレていったりして、言ってることが違ってきてるとこがあるんだよね、これで翻弄されてわかりにくくなってくる。)(てゆうか自信ありげに言ってるけど、福岡氏の発言について、その言いたいことを忖度して考えながらずらしながら言葉を返していってるんだよな。議論は双方にとって深化している。)
 
とにかくやっぱり西田哲学、難解だ。
 
それにしても「年輪」、引っかかるなあ。ということで、ひとつおぼろげにイメージしてみた。…この生物イメージモデルの理解で方向性正しいだろか。…樹木の側が細胞であり多の側であり環境の側が細胞の総体、全体性としての個体であり一の側である、と。そうしたら少しわかる。関係性。で、だとしたらやっぱ喩えとするには不親切すぎるよ、説明が。池田センセイ。
 
でまあ、それはそれとして。
 
とにかくここで、福岡氏の説明する「細胞膜」の本質と西田の言う「場所」という、AとノンAの「あいだ」の思考のアナロジーが述べられている。これを組み合わせてゆくと見えてくるもの。…ここが非常にスリリングに面白い。世界がぱあっと開けてくるような新しい風景が見えてくるような気持ちになる。
 
存在と無の間、内と外が反転する「場所」、矛盾の吹きあがる「場所」。これは、いわばアルケーの場なのだ。なにもかもが始まる、存在の吹きあがる、そのはじまりの場所。
 
それは、差異と関係性の生ずる場所なのだ。
 
*西田の生命論理(第四章)とそれ以降
 
…というようなことを考えたところで、ドンピシャの章が次に来た。福岡氏面目躍如、西田の世界論理(時空の本質定義)を生命として読みかえる思考の作業である。
 
「相反することが同時に起こっている動的平衡の状態」=「矛盾的自己同一」
細胞同士の、破壊と合成、多としての細胞とそれらの総体、一としての全体の個体。それらは、お互いに作られたものから作るものへ、という反動、反転、食い合い、否定しあう関係の流れの中に成り立つ動的な生命観であり、これがすなわち西田の観る世界である、という解釈がここに非常にわかりやすく説明される。「逆限定」という関係性のイメージの躍動感もいきいきと浮かび上がってくるのだ。
 
否定しあい、既定し合う矛盾というダイナミクスとして「存在」という「コト」「現象」が成り立つ。物質「モノ」としてではない、生命の内側から見る本質がそこに見出される。
                                                            …で、ここから先は、難解なことは難解で、消化できてないって言えばそうなんだけど、何度も読み返さなくてはならないとこではあるんだけど、概ね結構抵抗なく納得しつつおもしろがりつつすいすいと(とは言えないが)いける。本来一つである現象をさまざまに分析していこうとするとき難解さがうまれるのだ。どのようにそれを表現するか、によってさまざまに応用の効く理論が立ち現れ、矛盾と躍動と調和を繰り返す世界の豊饒が開かれてゆく。
 
あとひとつ、特筆しておきたいこと。
 
福岡氏が西田の「ロゴスとは世界の自己表現の内容に他ならない」という記述に関して疑問を述べたときの、池田氏との対話の中でピュシス対ロゴス、の対立の構図がピュシスのロゴス的解釈、という論理を取り出してある種の止揚をみるところ。ここは非常にうつくしい。
 
*時空論~宮沢賢治との共通性
 
第四章の続き、時間論を語る箇所である。
 
生命と時間の関係に切り込んでゆく箇所で、「時間(時刻)」がこの矛盾的自己同一の現象である、っていう、流れゆく時間とその断面の一瞬としての時刻を矛盾のダイナミクスをもってトータルにとらえる時間論(空間論)(=時空論)、この生命論的な考え方はなんというか、感動的ですらあった。(p172)
 
過去と未来、現在の関係性、そのあり方を生命の内側から捉えて行く。
 
切り取った時間の断面としての一瞬の現在、その時刻としての空間性、そして流れゆく連続としての時間。この二つの時間の性質の矛盾を統合した「永遠の現在」としての「絶対現在」という西田の時空論の、その感覚。
 
「『絶対現在』は、西田においては『永遠の今』などともいわれますが、一般的な立場では、時間の流れのまま、過去・未来を『現在』の中に見ることなどできるはずがありませんね。西田は、時間というものを瞬間としてとらえるでしょう?要するに、『非連続の連続』なんです。」(p211池田氏の説明)
 
なんかね、読んだ後、とりあえずすべての現象はこの構造でとらえられるような気がしている。
 
そして、どうしても思い出すのだ。

我田引水な例ではあるけれど、宮澤賢治が「春と修羅」で行った心象スケッチという実験の描き出した時空モデル、その思想を。確固たる物質、モノとして捕らえないコトとしての存在、「わたくしというげんしゃう」意識を。
 
春と修羅」の「序」を見てみるといい。
まさにこの「動的平衡」という現象としての生命観とぴしゃりと一致している。
 
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」
 
絶えざる破壊と合成が行われる細胞、そのうつろう物質の流れ(仮定された有機交流電燈)の中に「照明」としてせわしくせわしく明滅しながら(有と無の同時存在という矛盾の中にあり続けながら)ともりつづける(存在する)生命ー世界観である。
 
「けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません」
 
過去と未来が矛盾的に同一となったところにある「絶対現在」、そして「非連続の連続」という言葉から思い浮かぶのは、この箇所なのだ。
 
我々が共通に知覚しているという「因果の時空的制約」という人間中心ロゴス世界を観念論として「かんじているのに過ぎません」と喝破し、その外側の無限の豊饒としての「ピュシス」を直観する実存的思考である。
 
賢治のこの世界観は、法華経の教えに拠るところが多いという。
日本仏教思想と近代西洋哲学の融合を目指し、禅宗への造詣も深かったという西田哲学と同じ志向をもった賢治の世界観が共通したものであるのは、蓋し当然なことであるのかもしれない。
 
 *** ***
 
とりあえず結論としていうとバカみたいかもしれないけど、なんかね、結局ね、今現在、かけがえのないこの時の美しさを、世界と生命のおもしろさ、その存在の奇跡と大いなる不可知の存在を論理によって導き出し感ずるということ、その素晴らしさを謳ってるんだよね、西田も対談してる異分野のこのお二方も。
 
「西田哲学は『統合の学』としてとらえることができる。」p271(池田氏
 
そう、科学も哲学も芸術(文学)もさ、さまざまのアプローチで。
 
あるいは、そうやってとらえようとする、それがわたしたち人間という生命の「ありかた」なんだっていうことを。              

木曜日。ツイート記録Modified(ピンクの象が踊る夜 。)

昨夜観た「この世界の片隅に」印象残ってるうちに少しでも感想残しておきたいんだが、うまく言葉にならない、言いたい、言いたいのだが書く気力足りないもどかしい。

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やっぱり原作も読み返さなくちゃとか思ったりしはじめるとさらに動きがとれなくなる。

原作には甚くヤラれたのだ。アニメーションはアニメーションなりに悪くなかった。いや、原作と異なるアニメーションならではの解釈を施したオリジナリティをもったすぐれた作品であり、(異なるかたちに展開するとき、その作品は、原作の物語に忠実であるよりはその媒体としての特質を活かした、アレンジメントとしての二次創作でなくてはならないと私は思っている。つまり「別物でなくてはならない」のだ。原作の劣等なコピーではなく、それ自身がすぐれた別個のオリジナリティを持つ作品であるためには。)(ルパンだってナウシカだって「秋の日のヴィヲロンの」…の翻訳だってある意味そうやん。)寧ろ素晴らしかったと言ってよい。だが私はやはり原作の方にヤラれたのだ。

ここでもその激しい動揺については言及している。)

基本的にやはり動画より文字及び静止画派であるようだ自分。

そして能年玲奈さんが少し苦手なようだ。
すごくセンスのいい才能のある人なんだと思う。んだが。

んだがナンなんだよ自分。

…う~ん。こぎれいなあざとさのようなものを感じてしまうのかもしれないな。


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わたくしは今冷たいよもぎ茶をわたくしのかわいい寝巻きにぶちまけたのであるが、そのことについては誰とも語り合いたくはない。

 

そしてフラフラに酔って洗面所の鏡を磨きつつ万象同帰とイデアという言葉の甘やかな解放感と、そして全ての宗教の正しさと全ての言説の理とそのかなしみについて考えている。

9%アルコホル一気飲み、アカン。

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オマージュ或いはプレテクスト

最近、弾き語りする女の子の歌がとても気になっている。
 
世代の違う、別の風景に育った若い人たちとは世界が感覚が違うから基本的に心が共鳴しないのだ、と思い込んでいたから、自分にとってこの発見はなかなか革命的なんである。
 
優劣ではない。感性の繊細さや、いい悪い、深い深くないとかでもなくて、ただ吸収してきた世界が違う、感覚がちがう。

時代を共有しているかしていないか、というのは致命的に大きな問題なのだ。
あとやっぱり年を取ってからでないと絶対に持てない感性というのはある。
 
アドレッセンスだけの特権というのはもうもちろん前提としてある。その繊細さと絶望を孕んだ純粋さ、その鋭さ、濃い闇と透き通るようなつよくまばゆい光、両極への激しいエネルギー。失うことなどないと思っていた、かけがえのない、素晴らしい人生のそのひととき。世界の見えかた。大人は馬鹿だ、30過ぎたやつは信じるな。
 
けれどそれは失われるものなのだ。
 
大人になってゆくのに従ってすり減らされ失われるそのエネルギーとピュアネス。
だが、歳を経て哀しく汚れ古びてしまったそれは心の奥底に痕跡として、いや、より深い陰影をはらんだうつくしいかたちをした違う「何か」となって、そのひとの魂の中に大切にしまいこまれている。その哀愁を深みと陰影とやさしさを、若い人は若いというだけでもつことがかなわない。若さが若さであるというだけで素晴らしいことであるのと同じように。
 
新品とアンティークの違いみたいなもんだな、これは。
或いは新酒と古酒、ボージョレ・ヌーヴォーとヴィンテージ・ワイン。
 
それを、深みと透き通るような輝きをあわせもった、かけがえのない芳醇な宝とするか、ただの飲み頃を過ぎた腐臭を放つ廃棄処分品とするかは、本人が自分を、自分を構成しているその過去を、今現在の自分においてどう扱っているか、大切にしているのか、生かしているのか、その発酵技術の手腕次第だ。
 
世界へのピュアな眼差しも、恋も、さまざまな怒りも悲しみも歓びも欲望も、そのすべてが直接的で荒く激しかった。あまりにも五感を越えいっぱいにあふれ出していて、もうそれを自分で眺めることができないほどの、だた一方的に放出するエネルギーだった。
 
ピカピカに無垢で純粋なその若い日の感情は、一旦心の奥深くしまい込まれ、歴史を経て古び色あせながら、その後の人生すべて映しこみながら熟成する。…そして醸成されるのは、その失われたものだけがもつ切なさと悲しみに彩られた優しい色彩、喜びなのかかなしみなのか判別がつかない感情、魂が震えるような、深く芳醇なかなしみ。
 
それは、例えば自分の存在と不可分になってしまった世代の空気、思い出と絡み合ってしまった音楽。
 
高校の頃、鋭いアドレッセンスを打ち込んだムーンライダーズの「スカンピン」を聴いていた。
 
俺達 いつまでも、星宵拾うルンペン
夜霧の片隅に、今日も吹き溜る
俺達いつまでも悲しみ集めるルンペン
破れた恋や夢を今日も売り歩く
サァ、煙草に火を点けて
何処へ、何処へゆこう

そして白髪のおじいさんになった鈴木慶一が美しいメロディにのせて「スカンピン・アゲイン」を歌うのを聴く。
 
スカンピンだ
拾う星屑あるのならばまだいい
吹き溜まる場所あるのならばまだいい
集める悲しみあるならばまだいい
スカンピンだ
煙草一箱ほどの一生だったかな
 
…若い日のうらぶれた哀愁、けれど未来ヘのベクトルをどこかに孕んだ伸びやかなロマンチシズム。そして32年後、それすら失われたところにある、やるせなさ、未来のなさ、希望のなさ、否定と過去に向かう別種の…いやでもやっぱりこれは甘やかなロマンチシズムなのだ。これは時間の重みを聴くのだ。若き日の哀愁を重ね響き合い、より一層深くなったそのトータルな意味を。
 
かけがえのない時間を共有してしまったことを痛いように感じる。
 
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で、冒頭の女の子の話ね。

好きなのは、柴田聡子、加藤千晶、カネコアヤノ、きのこ帝国やなんか。
 
もともと結構女性シンガーソングライター、ちょっとアクの強い、男性向けのいわゆる可愛らしいアイドルではない、消費される媚びた性的魅力で勝負しない、独特の詩や音の世界をもつ、いわゆるアーティストな感じのひとたちは好きであった。
 
上の世代では大貫妙子矢野顕子戸川純(純ちゃんには高校時代かなりハマった)(夜ゴンゴンかけて二階の姉から苦情を受けた。)(姉は当時ミーハーな洋楽ばっか聴いていた。夜中に部屋抜け出してディスコに通う不良であった。)(よく脱出を手助けしてやったものだ。)、も少し下ってさねよしいさ子遊佐未森なんかも結構聴いていた。
 
でもね、どうしてもどうしてかムーンライダーズ友部正人、たまみたいな、詩的でありながら論理的、強烈な個性とそれゆえの深い文学性を感じさせるような女性シンガーっていないような気がして非常に遺憾に思っていたのだ。
 
が、きのこ帝国、柴田聡子。歌詞に思う。(もちろんそれはメロディと重なり一体となっているからこそ心に響くのだが。)
 
すごい、と思う。
 
或いはそれは金子みすゞ宮澤賢治の感性を思い起こさせる。

例えば、カネコアヤノの「さかな」。
人間とは違う魚の立場から魚の生態を、生命観をそのまま淡々と歌う。つまり、ただ命であることを歌う。すべてを奪われ食べられることを歌う。食われるときのうただ。すべての愛するものに、さよなら、と。それは悲嘆ではなく本当に、ただほのかな生命への哀惜を、寂しみ。淡々と歌うのだ。かわいらしい明るさを持ったメロディで、淡々と歌うのだ。リフレインは、
 
食べられる気持ちなんてあなたたちにはわからない。
食べられる気持ちなんてあなたたちにはわからない。
 
このほのかな恨み節は、次の鮮やかな反転によって、我々食う側の「己の命への責任」への意識を鋭く問うものとなっている。
 
だけど僕たちは一生死にたい気持ちはわからない。
 
宮澤賢治的な「食うー食われる」への倫理観と原罪の意識、そして、…いや、しかしこれはそれよりもずっと金子みすゞの「お魚」に近い。残虐な命の連鎖と原罪の宿命、それへの諦念を色濃く漂わせる哀愁。これは、女性作家に特徴的に見られる、ある種の受諾としたたかさの感性なのではないだろうか、と私は思うのだ。
 
    海の魚はかわいそう。
    お米は人につくられる、
    牛は牧場で飼われてる、
    鯉もお池で麩(ふ)を貰(もら)う。
    けれども海のお魚は
    なんにも世話にならないし
    いたずら一つしないのに
    こうして私に食べられる。
    ほんとに魚はかわいそう。

ポイントは、かわいそう、と歌いながらしゃあしゃあとお魚を食べているところなのだ。同じ現実を直視していながら、賢治はそこで、己が無辜でありたいと願うある種の傲慢さによる原罪の拒否、そこからベジタリアンとしてひきつったようにヒステリックな自己犠牲へと暴走した。この一種男性特有のおこちゃまな正義感と、これは対極のところにある。
 
淡い哀しみとあきらめ、穏やかにすべてを受け入れる感覚。それは、己が罪を引き受けた命であり、それは己の小さな命が、大きな命の一部として巨きな生命連鎖の支え合いの構造をなしているのだ、という感覚、自我の枠を超えた世界に対する親密な肌感覚ともいえるものなのではないだろうか。
 
この感覚。果てしなく残酷で、果てしなく優しい。(よくこの感覚は、みすずの不幸な人生に由来するものだと解釈される。そうかもしれない。事実かもしれない。が、そこにこだわらなくてもいい。)
 
…もうひとつ、きのこ帝国。
 
自分賢治ファンであるということで、ミーハーな思い入れからくるものかもしれないが、アルバム「eureka」(アルキメデスが浮力の原理を発見したとき風呂から飛び出して叫んだ言葉だと言われている。「見つけたぞ!」っていう意味らしい。)(いや「我発見せり!」かもしれないけど。)の中の「夜鷹」「春と修羅」が好きである。もちろん賢治の「よだかの星」「春と修羅」を下敷きに、オマージュ或いはプレテクストとしてつくられた歌だ。
 
「夜鷹」(youtubeにあります。これ。)
 
殺すことでしか生きられないぼくらは
生きていることを苦しんでいるが、しかし
生きる喜びという
不確かだがあたたかいものに
惑わされつづけ、今も生きてる
 
濁ったサウンド、不穏で陰鬱に流れるメロディをバックに、語るように演じるようにして次第に感情を昂らせながら歌われるこの歌。この世の不条理を嘆き太陽を目指し星になったよだかのあの苦しみと意志、かなしみとうつくしさ、その宇宙でのかがやきかた。その魂が歌い手の感情に受胎し生まれ出た、歌い手の、いわばもうひとつの原罪に相対する決意である。
 
春と修羅」(同じくyoutubeここ。)
 
あいつをどうやって殺してやろうか
2009年春、どしゃぶりの夜に
そんなことばかり考えてた
 
いきなり叫ぶようにして歌い出されるこの歌に心が共鳴する、叫びは胸の奥の銀河宇宙に交響する。
 
時折私は夜中にひたすらこれを聴く。
 
プレテクストを明らかにしているということは、作品が何かへのオマージュだと称することは、ズルい。それだけで歌は、言葉は、その名作の深みをどこかにとりこんでしまう。それがきちんと読み込まれたうえで消化され解釈され、オリジナルなものとして生まれ変わった新しい音楽となる、そのような形での二次創作はまごうことなくオリジナルな創作である。(逆に言うとオリジナリティをもたない、読み込まれていない字面だけのなぞりとかで内容がこなされていないと感じるとき、ファンとしては逆に作品への冒涜として嫌悪と怒りの対象となってしまうのだが。)(絶対にそれはモトとは別物でなくてはならないのだ。)
 
プレテクストを知るとき、それがその歌の中にどのようにして消化されてるか、その読者ー表現者となった歌い手のオリジナリティの軌跡を私たちは感じ取ることができる。それを一緒に辿ることができる。こうなると一粒で二度おいしいグリコのキャラメルである。
 
ああ、なんかぜんぶめんどくせえ、なんか全部めんどくせえ…
 
原作とは似ても似つかぬ風景と内容が歌われているのに、「春と修羅」のあの怒りと悲しみの、そのイメージは倍音として響くようにしてダブってくる。テクストは共鳴し、豊かさを増す。
 
ズルい。