酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

朝がなあ。
だめなんだ、最近。

昨夜は嵐。今年初の本格台風、記録的な大雨、そして警報が列島を駆け抜けて行った翌朝である。東京では一晩吹き荒れた。

早朝目覚めたら東のそら黎明の光。ベランダで、神々しいようにまばゆい光景に包まれた。雲間にぎらぎら輝く青と金の光のまだら。鬱金とあかがねのいろにくらく輝く雲のその濃い陰影。

嵐に浄化された新鮮に新しい世界のはじまりの朝。
ひんやりと新鮮に空気は澄み、吹き煽られむしり取られた木々と緑のほのかな芳香の中、小鳥がビチュビチュさえずっている。
すがすがと風が吹く。

寂しい。
こんなに申し分なく世界は美しいのに私の胸は冷たくがらんどうなままだ。
 
以前は朝が好きであった。
何とも言えない新しい気持ち。日々ひとの淀みはリセットされ、どこかからやってくる大きな新しい世界の朝の希望があまねく心に染み渡ると信じた。

ひとびとの、わたしのための優しい今日の日常がその新しい力で生まれ直して目を開くと。

けれどこの寂しみは。

明け方の濃密な悪夢からやってきたこの寂しみは、間違った場所からやってきた、存在を損なうもの。世界からすべての意味を奪ってゆく、エンデの「果てしない物語」でファンタージェンを蝕んだ虚無のように。
ああ、本当にあれと同じだ、この朝のがらんどう。悪いのは私だ。

無能感、無力感、虚無と絶望。この寂しさは何にでも化ける。

過去も未来もすべてを損なう蝕むがらんどうの虚無、すべてを食いつぶす魔物。

だけど、生きている。
 
しっかり生きよう。
身体が生きようとしている限り今日を楽しく生きよう。

三鷹にて、トポロジー。

トポロジーという言葉が脳内にこだますることがある。
(ロッテのチョコ菓子の研究ではない。)(もちろんトッポ・ジージョとも無関係である。)
 
もともとの数学的な意味というよりも、心理学寄りに発展した方面のとこである。
 
 *** *** ***
 
三鷹駅、南口に出た瞬間、その光景に、必ずいつも根拠のないいつか見た奥多摩駅前のイメージが擦過する。西側の小さなタリーズの建物を見ると、夏の日の昼下がり、ひとり冷やし珈琲を飲みながら読んでいた本の記憶がその風景ごと蘇る。(本の内容とその風景はセットである。代替不可能な一回性を、あらゆる読書の現場は意味するものだから。)(この意味は、例えば初めての絵本を読んだとき、たまたま出会ったその絵と文章の組み合わせが脳内で分かちがたく結びついてしまう現象で説明できる。同じ作者の同じ文章でも、異なる絵で描かれてしまった絵本として触れたとき、その印象は決定的にどこかで色づけられた読者各々の個別なものとなる。その「読書の現場」のかけがえのない一回性。繰り返し読むこととそれは対立しない。繰り返せば繰り返すだけそれは重厚に重ねられた意味を持ってくるだけだ。)
 
だが、北口は別次元にある。
駅を通り抜ける行為には結界を越えるイメージがある。
 
こちら側は吉祥寺に通じている。初めて北口の風景を認識したとき、吉祥寺中央図書館から歩いて来たからだ。そしてこっちの方が好きだ。ここは大好きな吉祥寺の街から図書館への道行きの世界に通じている、楽しく歩いたその記憶の道。(西側の多摩川沿い方面はそれに先立って歩いたことがあるが、ここはまた全く別。…真夏の昼下がり、阿佐谷や武蔵境の静かな住宅街をさまよったときの記憶のイメージである。そのころやたらと彷徨していたその中央線近辺の風景が、記憶の中で近似値を示し寄り添いあい溶け合うイメージとなっているからだ。)
 
…ことほどさように、風景、場所というのは個的なものである。場所。それは、時空、世界、と言い換えてもいい。

時間や場所とは、本来、普段わたしたちが共有していると信じている客観、抽象、絶対なものなんかではなく、極めてオリジナリティの高い主観を抜きにしては意味をなさない具体、個的、可塑性に富んだ概念なのである。
 
思い出がこびりついてしまった場所は、そのとき個的に所有された意味をもって記憶と存在自体と結びつき一体化し、それは既に見知らぬ土地、更地には戻れない。一度習得してしまった言語のように、意味を持たないただの音韻としての存在には戻れない。

抽象、客観、計測可能なものとしての時空の観念は、ただ共通概念としての理解の便宜のためだけの恣意的な約束ごと、記号に過ぎない。(シニフィエシニフィアンの関係である。)
 
その観念=記号がもつ、<個人に対する空虚>或いは抑圧、疎外について考えるとき、私はエンデの「モモ」を思い出す。灰色の時間泥棒たちが、モモの街の豊かな生きた人々の時間を奪いとっていった、その「時間」への感覚のことを。
 
時間の管理人、マイスター・ホラのところでモモが見た、本来の生きた時間とは、ひとつひとつの一瞬がすべて異なる美しさ、そのときそのとき最高に美しい一瞬の生きた命として次々に咲いては散る花として象徴されていた。時間泥棒たちは、人々の持つその時間の花を盗み取り、その美しさ、その生命を奪い、灰色の乾燥した葉巻にして貯蔵可能な、計測可能な、しかし死んだ時間にしてしまう謎の機関であった。これは、個々のひとびとのゆったりと充足した日々の生活、生きた美しい花としての時間(精神。魂)を食いつぶしながらはびこる病原体、一種、近代合理への批判としてのメタファとなっているといってよい。
 
個に属する(主観に属する)、計測不能な(一瞬は永遠を孕む。)具体としての生きた時間(=美)、そしてそれに相対するもの、共通概念(客観という約束事に属する)、量的に計れるもの(数学的な約束事に属する)、抽象としての死んだ時間(概念)。
 
場所も時間と同じだ。時空、というように、両者は結合し、初めて存在できる。本来不可分な「世界」そのものである。時間を持たぬ場所は存在せず、経つべき場のない時間は存在しない。ということで、以下、トポロジーに関してこの「意味を孕んだ場」としての考え方を「時間を孕んだ場」として扱ってみる。
 
トポロジー(位相学)心理学は、WIKI的な説明では以下のようなものである。(コピペ)
 
「クルト・レヴィンは1930年代にヴェルトハイマーら3人と一緒に研究したことや、ベルリン大学で学位をとった関係でゲシュタルト心理学者のひとりとされている。レヴィンは体験を通じて構造化される空間に興味を示し、それをやがて生活空間と呼ぶようになった。ケーラーが心理物理的な場理論を考えていたのとは対照的に、レヴィンは純粋に心理的な場理論を考えた。これはトポロギー心理学(トポロジー心理学Topologie psychology)との名称で知られるようになった。」
 
(これは《この後の部分の記述で》個人においても集団においても成り立つ構造である、とされている。ここがまた素晴らしく面白いキモのとこであると私は思う。)
 
「体験を通じて構造化される空間」。…個に取り込まれる、私的な時空の概念。
 
これは既に、外部と内部という概念を超越したところにある世界である。外部であったはずの世界、その風景は認識という行為によって個の内部に取り込まれる、或いは、「認識されなければ存在しない。」唯心論的な世界観の構造である。悟ったと認識した瞬間にそれは悟りではない、というような、「外部」の不在、真理の不在、唯物論や唯心論の議論の中にそれはある。
 
ゲシュタルト心理学にしろ、トポロジー心理学にしろ、これは世界の意味がすべて「関係性」「相対性」によって成っているという共通した概念を底に敷いている。とりもなおさずそれは、二十世紀のレヴィストロースに代表されるような仏蘭西構造主義とつながる、…ええと、なんていうんだろ、相対性理論なんだよな、ざっくり言うと。
 
でね、これ以上広げるともう風呂敷が大風呂敷になって広がっちゃって収集つかなくなるんだけど、私がナラトロジーに、物語理論にものすごく興味を覚える意味は、<テクスト=世界>を読む<主体=読者>、そして「読書の現場」の関係性が、そのままこんな風な、相対的な世界のありかたそのものにあてはめて考えられる構造をもった理論だからなんだよね。世界の在り方そのものを読み解く、なんかもう大興奮である。大興奮なのは、これが世界の豊饒と解放に、官能と至福に通じるからなんである。
 
うまく言葉にできないのがもどかしい。くやしい、でも書きたい。
…まあナンダ、その、ライフワークだな、なんだかな。
 
…で。
 
昼間には、世界は一冊の本である、という命題について考えながら中央線に乗っていた。

五感と論理をもってわたくしは世界を読む。世界はわたくしに読まれることによって存在する。
 
そしてわたくしもまた一冊の本である。内部と外部、主体と客体の、その絶え間ない反転の中に、世界と私の一体化した世界全体が現象する。

食べもの好き嫌いあれこれ

のれそれが食べたいな。

…と、鰈を食いながら思ったのだ。春にしか出回らないあのすきとおったアナゴの稚魚。

ヒラメだのカレイだのアンコウだのウナギだの、平べったくて変な顔をしてひらひら泳いでる生物を食うのが好きなんだな自分。(もちろんそれはハモやアナゴやウミヘビでもよろしい。) (注・奇妙に濃い味つけのコテコテ甘いタレなんかつけたらダメである。)(ウミガメやすっぽんってのもなんだか憧れである。)(奇妙な生態をもつ生物を体内に取り込むと非常に充実した気持ちになる。)(八百比丘尼とかの信仰の所以だと思うんだけど、貝とか、変な生態を持つ魚介類には神秘的な海の神様の魔法な薬効が潜んでいる。ネクタルとかと通じるような、なんというか、天界ではないけど、それがなまぐさい地に根差したかたちとして海への信仰に翻訳されたもの。霊薬、エリクサーなんである。)(海への信仰と空への信仰っていうのはなんかな、パターンだよな、信仰の構造の基本。アマテラスの天とスサノヲの海。荒ぶるスサノヲはひょっとして唯一神の法としてのアマテラス信仰に巧みに組み込まれた反逆の記号としてのトリックスターだったんではないかしらん、などとふと。)(賢治もね、罪を犯した空の星たちが堕ちてきて罰を受けている流刑地が海の生物界だ、みたいな童話書いてるよ。「双子の星」。空がイデアで海がミメーシスというかたちか。)(あながち海の霊薬ってのはまったく非科学的ってことでもない。実際科学的栄養学的に魚介類に特化した薬効をもつ成分ってのは発見され続けている。ポピュラーなとこではタウリンとかオルニチンとかアスタキサンチンとか。)(…イヤ結局ただひたすらうまいなアってだけなんだけど。)

 

好きなもののことを考えたので、セットとして嫌いなもののことを考えてみる。

…例えば、茄子の味噌汁。
今は好きである、というか嫌いではない。

小さい頃、自分は虚弱な上に食に問題があって、偏食の上、モノをあまり食わないコドモとして母に苦労をかけた。菓子は食ってもメシは食わんというタイプである。菓子を食わせんでも結局メシも食わんので病弱で衰弱して始末に負えない。最終手段として母の捻出した折衷案は、果物である。(三歳の頃心の臓が弱って死にかけて何も食わなくなった時も、ブドウだけは食ったという。種なしのデラウエアをつるつると飲み込ませたのだ。)

おかげで母の中には葡萄信仰が生まれたらしい。いまでも葡萄を見るごとに「あんたの命の恩人(人ではなかろう。)」と呼び、「ブドウ糖があるんだからたくさん食べなさい。(意味不明)」と強要する。

…あと、椎茸がダメであった。今では大好きである。タマネギはカレーに入っているのだけはOKであとはNGサインを出していた。が、いまではなんでもイケる。実にオトナになったもんだ。

逆に、昔は大好きだったけど今は食えん、というものもある。

母特製の、甘い甘いあま~い関東風卵焼き。南部鉄鍋でぐつぐつ煮込んだ関東風の白砂糖山盛りのこってりすき焼き。(生卵つけて食うんである。家族四人でぐつぐつを囲んでひたすら一生懸命おいしがるんである。鍋奉行争う両親とひたすら肉を食う姉と。そして大抵それは土曜の夜であったような気がする。)(明日世界がなくなるというのならもう一度チャレンジする意向はある。)(だがあの場面のあの食べ物はもう決して再現されない時空の果てにある。)

 

さて、オチはない。 

ただね、デラウエアつるつる剥きながらつるつる飲み込んでたりするとき、私の命を救ったという食べ物のことあれこれ考えるんだよね、なんとなくね。おいしいってこととただしいってことはどう結びつくんだろうとかさ、食べるってことは、世界との交感だからね。それは喜びであるのが基本なのに、社会システムの中で、ときにステイタスのシンボルというだけの意味になったり、純粋な苦行になったりする。不味い、ということの意味。それは純粋に精神的でもありうるし純粋に肉体的でもありうる。…そういやさ、愛と食べ物はよくメタファにされるよね。拒食症の解釈の時とかさ。 本来シンプルな喜びでさえあればいいことがさ、奇妙に複雑で難しいこの世の苦しみになるっていう人間の業は、どっから来るのか。難しいのはきらいだ。

デラウェアな、ひとつぶひとつぶ剥きながら食べるのまどろっこしいんで、ときどき一生懸命まとめてむいて、冷凍庫でキンとひやして、半分凍らせておやつにしたりする。暑い夏の日にいいんだよ。エメラルドグリーンきらきらしてとってもきれい。これな、ふるふるのゼリーにしてヨーグルトチーズムースなんかにあしらったら素敵なガトーができそうだな。

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BLからZLへ

少女漫画とBLについてはなんだかんだ言いたいことがあってちまちまメモしたりしてたんだけど。

 

…昨日か一昨日か、ツイッタ界隈で「美術館のちょい悪オヤジ」の話題が盛り上がっていた。モテたいオヤジはうんちく身に付けて美術館女子を狙え、っていうやつな。

まず噴出していたのはそのダサさと低能さ、卑しさ、無自覚の暴力的ハラスメントへの激しい非難である。それはもうウットリするほど見事に完成され、知性に溢れた美しい批判のかたちであり、感服するほど気持ちのいい激しいディスりっぷり(変な言葉だな。)であった。

で、これを完膚なきまでに叩いた後の第二ステージとして立ち上がるのが発展二次創作である。この辺の笑いへの横滑りっぷり、このトコトン笑いのめそうとする貪欲さが好きなんだなあ、ツイッタ気質。自分自身をも含め、何もかもをパロディにする、なにもかも笑いへとずらす物語化への視点を持つ。その江戸庶民的な逞しさが好きだ。ものすごく大切なことだと思う。真面目に。

で、どう発展したかっていうと、基本、二通り。

まず、無知だけど知的な雰囲気大好き女子に付け焼刃蘊蓄たれて感心されて尊敬されてモテちゃって食事に誘っちゃってっていうプランが、美術館オタク女子に激しい切り返しを受けて撃沈するっていうストーリーのバリエーション。これは、社会的に暗黙の了解として男性社会における下位レヴェルにおかれ蔑視されてきた女子からのルサンチマン系譜である。

もう一つが、BL好きクラスタから発展した、女子ではなく男子同志の美術館でのナンパ物語変奏。「ボーイミーツボーイ@ミュージアム」である。こっちの突き抜けたぶっ飛び方が実に素晴らしい。ルサンチマンなんぞない。だけど、斜め上反応的でありながら、それはあざやかに男性原理を笑いのめし、性の消費を逆転させている。

そして更に言えば、笑いながらもそれを愛おしむ、親密な秘密共有サークル内で成立するのびやかなあたたかさがある。オタク自覚者同士に特有の共犯感覚。もちろんそれは発端となった元ネタの生じた社会原理への揶揄が基盤となっている。(これは重要なポイントなんではないか。)

…具体的に、その二次創作内容なんだけど、これが結構渋くてイイんである。ちょい悪オヤジイメージから発展しただけあって、BL(ボーイズラブ)というよりはOL(オヤジラブ)、いやむしろそれらを既にはるかに越えたZL(ジジイラブ)ジャンルの形成へと進化したらしいのである。時代は既にZL。もうこのあたり花盛りで素晴らしい。最も受けているのは「ちょい悪じじいとガチ教養じじい」絡みヴァージョンである。

なんかね、笑いネタなんだけど、ここでは、笑いっていうよりイイんだな、深いんだな、じんわりあったかいんだな、純愛、友愛。ZLってのは。(「最高の人生の見つけ方」結構好きなんである自分。)

BLにもやっぱり通じるとこがあるんだけど。…ウン、やっぱりBLについてはもうちっと語ってみたいな、これは、愛(エロスにしろアガペにしろ)を当事者としてではなく物語として眺める、というレヴェルで嗜好する感性だと思うから。これは後日の課題。

西加奈子「i」

読了。
 
この人の作品初めて読んだけど、なんかだめかも。
いい作品なのかもしれないけど自分にはダメだ、響いてこない。
 
帯にある中村文則の宣伝文句どおり、この小説は「この世界に絶対に存在しなければならない。」を否定はしない、寧ろ賛同はするけれど。考えはするけれど。
 
説得力がない。
 
国際間の貧富の差、貧困、テロ、暴力、差別、自然災害、LGBT、…テーマは節操がないほどキャッチーで現代社会への問題意識が高く、それが非常に繊細な少女の感覚をもって描かれている。(この辺りの繊細で鋭敏な感覚描写はさすがにプロ作家、素晴らしいとは思う。)確かなアイデンティティを、確かな居場所を求め苦しむ彼女。そして、言ってしまえば結論はとてもこぎれいにまとめられている。自他の生命の存在への無条件の祝福。確かに。…確かにそうかもしれないけど。あざとい文体、文章構成。そして結論に導こうとする論理に飛躍と隠蔽を感ずる。論理の印象はひどく乱暴だ。
 
肝心なところでお仕着せのお涙ちょうだい感動(それは万人に対する一種のモラハラだ!疑問を圧し潰し権力機構に組する可能性が高く、作品自体の問題意識に根源的に鋭く対立する矛盾ですらある。)にそれは流れる。イージーなできすぎの愛(人類愛、友愛、家族愛、男女の愛)の既成の物語の絶対性に頼る。
 
それは果たしてそもそも何か、という成り立ちを見極めるための疑問にたどり着かない。その外側にまで、その起源のところまで、それ以上食い下がることができない。登場人物が己の中の深みにただひたすら素朴に真摯に踏みこんでいこうとする方向性のないイージーな設定だからだ。
 
意味ありげな数学モチーフも虚数の記号「i」と主人公アイの名(日本語の愛と英語の一人称Iとのダブルミーニングから名づけられたもの。養母は日本人、養父はアメリカ人)のメタファも今ひとつ隠喩としてビシッとハマってこない印象を受ける。
 
ひたすらあざといだけ。
 
仮定された、想定された存在しない便宜上の観念だとされている概念は、しかし実は「存在しない」(「この世界にiは存在しません」という高校教師の因縁-呪詛の言葉。)のではなく、それは「思い」によって、想像すること信ずること愛することの純粋な激しさ、つよさによって実在になりうる(例えば、愛。愛の実在)というテーマの理屈はなんとなくわかるんだけど、説得されるだけの論理の整合性がない。ただキイワードを繰り返してみせる、力技のエモーショナルな「雰囲気」だけだ。
 
この直観はおそらく正しいと今私は信じている。ひとつひとつ検証して論じることもできると思うんだけど、膨大な作業で本腰を入れなくてはならなくなるし、今はただでさえリソース少ないワシの脳みそ、否定のための(おもしろくないことの解説)に割く価値を見出すことはできない。仕事で依頼されたとかなら別だけど。比較対照して他の素晴らしいものを論じたてるためでも別だけど。

何しろ主人公のみならず、登場人物みなにいっこも共感できないのだ。共感できないのはその境遇や行動や出来過ぎの性格にというよりは、描かれるその人物像のティピカルさ、そのペラさからくる。強引に主人公を結論に導こうとするストーリー盤の上の駒だ。
 
…ほかにもあたってみるかなあ。この作者、あんまり期待できない気がするけど、一冊だけで決めることもできんよな。

*** *** *** 
 
追記メモ
 
我慢して前半を読みすすめていくと、後半から当初の展開は少しおもしろい。東日本大震災のときのアイの変化のくだりだ。あのあたりだけ前半のぐにぐにした伏線がどう回収されてゆくか、どう展開するのか期待して、ちょっとわくわする。
 
それはアイの中に巣くっていた「己に存するべきではない幸福、己がいるべきではない恵まれた場所にいる、誰かが己の負うべき苦しみを苦しんでいる、という罪の意識(原罪というテーマに通じる。)」が、災害という不幸に「選ばれる」ことによって免罪符を得て一種の解放を得る、という非常に興味深い論理を孕んでいるからだ。
 
この唯一興味深いと思ったテーマも、すぐに人工授精による無理やりの妊娠や流産の「外的なテーマ」に流れて立ち消えになっちゃうんだけどね。

「小さな巨人」その後

実は観つづけております。「小さな巨人」。

ここであんなにこきおろしておいて、と思われる向きもあろうかと思いますが。…いやあ、だってさ、楽しみ方がわかってきたりしましてな、キャラクターに愛着もつようになってしまったりするともうおしまいです。

でもね、でもでも、全然意見は変えてないです、ほんと。全然言ったこと撤回する気はないし今でもおんなじように思っとりますです。…だからさ、ただおもしろさの構造、そしてその持つ可能性として、こないだ比較したような「シン・ゴジラ」と同じ地平におくべきものではない、ということで。

電子レンジにオーブンの役割を求めてもダメである。

だからこれはこれで、このジャンルでは優れたエンタテイメントだと思うワケです。テレヴィ・ドラマというよりは舞台劇的なわざとらしいキャラクター、大仰な表情、せりふ回し、このこれ見よがしのわざとらしさを登場人物の丁々発止の腹の探り合い、劇中劇としての味わいで込み入った陰謀劇を楽しめるようになればめっけもの。お約束を楽しむ娯楽技芸の洗練。

あとね、これが重要なとこなんだけど、最初の「芝署編」ではウェットな人間ドラマに主眼がおかれすぎてた。これでイマイチ感が前面に出てたんだけど、これが今回「豊洲編」になって、警察内陰謀探り出し丁々発止及び謎解きゲームな部分に主眼が絞られてくると役者脚本の持ち味面目躍如、断然面白くなってきちゃったってことなのだな、つまり。「芝署編」で一通り紹介設定された登場人物像を自在にひねって善悪敵味方二転三転、視聴者を翻弄し楽しませ遊んでゆくゲーム本番到来なイメージ。

推理ドラマは閉じられた構造建築の美学。受け手は純粋に受け手となってそのストーリー構造の巧みさに乗せられていればよい。(だからさ、大体こういうドラマなんだったら、「悪役に利用翻弄される子を思う不幸なシングルマザー」だの「娘を不当に殺され誘拐テロに走る哀れな中小工場主親父」だののあまりにもイージーティピカルなおセンチ路線にハンパに頼っちゃっちゃダメなんである。いっぺんにつまんなくなってしまう。)

主人公香坂の家庭でのまぬけシーンと新人女の子役の三島が、舞台劇的とは異なった、いわゆるナチュラルな演技。これが一般的なTVドラマのうるおいというかほっと一息一服の清涼剤的な(男性原理企業ドラマ的の大仰に深刻ぶった筋立ての中での家庭、女性の柔らかな日常の微笑ましさ)味わいをさしはさんでるって匙加減もなかなか。

だからさ、娯楽に何を求めるなんだな。
(基本的にやっぱり好きなジャンルではないのでまあ惰性ではあるんだけど、次はこれどうなるんでしょうわくわく、の罠にはまった。)

 *** *** ***

何をもって人は、自分は、今これを面白がっているのか。自分のどの部分がどのような箇所をおもしろいと感じているのか。心は何を喜んでいるのか。悲しんでいるのか。それは己の精神のどのような構造に基づいているのか。

芸術であろうと科学であろうと文学であろうと人間関係であろうと。対象がなんにせよ、これを見極めるのって結構重要なことなんじゃないかな、と思っている。自分とは何か世界とは何か、というテーマとそれは同義だから。

「ホテルカクタス」江國香織

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「僕の小鳥ちゃん」、「ホテルカクタス」。 

江國さん久しぶりに読み返す。 

この人の作品は、やっぱりこういう童話風というか、いわゆる大人の絵本という感じの作風のが好きだな。 

 
意味があるようで、ないようで。
 
…ちょっと気取ってるかな。
若い女性向けのお洒落さ、春樹的な気取り。
これをそういう情緒や雰囲気を楽しむだけのもの、としてとらえることだってできるけど。 
 
だけどやっぱりきちんとひねりが効いてて、きちんと深みがある。 
 
とりあえずこのひとは類まれなる詩的感性の持ち主で、あざといほど巧みでありながらポエジイにあふれた、そんな文体を操ることのできる人なのだ、と思う。濃やかな細やかな感情のひだの震えを的確に感じ取り、それを掬い出し救い出す。言葉と言葉の間にそっとひそませるようにして。 
 
びいんと響いてくる感情。やるせなさや、切なさや。
 
そしてけれど、それを淡いさりげない日常としてとらえ「流してゆく」のがこの作品だ。
 
そして、その、流してゆく、許し合ってゆくという物語、それ自体に、淡々と流れる淡い日常そのものの価値がかけがえのないものとして読みかえるための力がある、のではないかと思うのだ。哀しみと無常を日常に包み込むこの感覚。それは治癒しない。傷を傷のままにそっとくるみ込むだけの「癒し」としての救済である。
 
その「なんてことなさ」自体のもつ深み。世界があるがままであるというその状態を、物語としてとらえること。そのほのかな切なさと慎ましい幸福を創造する力。
 
そうして、ナンセンスな味わいの中のほのかな諧謔
人生、こんなもんだ。深くも淡くも。
  
…ぱたんと本を閉じて、ただほうとしばし優しい気持ちになる。
その優しさは、廃墟の無常の寂しさに少し似ている。 
 
さまざまの世界の多様な価値観、他者という理解できない感性、理不尽、己のしょうもなさ。 
 
けれど、ただそれをそれとしてともに感じ抱きしめている人がいる。お互いにその「理解できなさ」を認め合うことが、存在を、尊厳を認め合う「友情」として成り立っているということ、その感覚を得るだけで、自他を共にゆるやかに「許してゆく」優しい気持ちになれる。
 
 
作者は女性的な細やかな感覚で恋愛を主体とした作風をもっているとされているが、ときに不思議にファンタスティックな童話風のものを書く。(私はこれが好きだ。)「ホテルカクタス」のテーマはまさに「異種間の友情」なのだ。 
 
これは一種いわゆるダイバーシティの基礎でもある。
 
まあ端的に言えば、「ま、それもあり、これもあり、だもんね。あのひとは、ああいうひと、このひとは、こういうひと。」
 
多様であるそれぞれのが、そのままそれとして認められ、救われている、許されている。異なる感性を持つ、価値観を持つ生物である誰かに受け入れられている。絶対ではなく、それぞれのゆるみをもって、或いは小さなうしろめたさを探られることなく許し合うテゲテゲさをもって。誰もそれを裁くことはない。
 
また、例えばそれは日曜夜のサザエさんにも似ているのかもしれない。それぞれの人々が様々なデイごとの中で仲良く調和しながら暮らす街の日常。永遠のイデア、永遠に続くその平凡な日常の幸福という非凡のこと。一冊の本の中に閉じ込められたその永遠。
 
 *** *** 
 
ホテル・カクタスは街はずれの小さな古いアパートだ。そこに住んでいる帽子ときゅうりと数字の2の奇妙な友情の日々の物語。
 
…何の説明もなく「帽子ときゅうりと数字の2」である。なんだこれは。
 
人物のキャラクターから名づけられたものであるあだ名的な呼び名かな、という想定の下に読み進めてみると、そうでもない。(くたびれたハードボイルド美学おじさん風の帽子は酒飲みで読書家、遊び人の風来坊だし、きゅうりはガソリンスタンド勤めの肉体派健康オタク、おおらかでこだわらない(深く物事を考えない)まっすぐな太陽の似合う性質、数字の2は役所勤めで融通の利かない几帳面な性格だ。)やはり帽子はかぶるための帽子であり、キュウリは緑色のぱりっとみずみずしいあの野菜のキュウリ、数字の2は概念が擬人化したかのような数字の2、そのアラビア数字の2のかたちをとったもののようだ。
 
にしても、この三人(人?)は社会的に人間として存在しているのだ。他の動物、例えば猫はちゃんと口をきけない動物としてのペットの猫だし、他の登場人物は人間である。三人が恋するのも白いワンピースの似合う女の人だ。
 
童話的構図の中での、キャラクターの性格付け。その奇妙なリアリティ。
 
メタファ。これを、そのままその言葉の意味のブレを利用して擬人化風にし、めくるめくナンセンスワールドに持ち込んでいる、といってもいい。これは、おもちゃや動物が擬人化される類のよくある童話的構図のようではあるが、この作品においてそれはもっともっと奇妙だ。筋トレが趣味のきゅうり(手足はどんな風についてるんだ?)、ウイスキーをたしなみ古いレコードを聴く帽子(どこに目鼻がついてるんだ?)、グレープフルーツジュースを飲む役所勤めの数字の2(いったいどこに口が…)。これは、絵本や漫画によくあるような、アンパンマン的にイラスト化されうるモノの擬人化とは異なる。安定した視覚的要素に帰着していかない、直接概念と意味のフィールドに切り込んでくる「コトバの力」にだけよっているというところにその特化した意味があるのだ。
 
これは寧ろ、キャラクター、人格の「記号化」、といった方がいいかもしれない。これは決して絵本にならない。(実はこれは美しい挿絵がふんだんに配された「絵本」になっているのだが、そのすべては何とも味わいのある陰影をもった寂しげな無人の風景、夢の中のような、がらんとした廃墟を思わせるアパートの内部の風景なのだ。それは実は一層本作の人物像の映像化の不可能性、固定された映像的要素になりえない記号としての三人、見える世界と見えない意味世界の間を揺れ動く二重の風景としてのキャラクター、という特徴を深めたものとなっている。)(この絵素晴らしい。画家は佐々木敦子さん。)
 
(この二重化された風景というテーマは、結構根深い。賢治の「春と修羅」「すべて二重の風景を…」主体の見ている意味世界、心象風景が現実世界を二重のものとする。…また、例えばそれは、昭和少女漫画の名作として名高い「綿の国星」などでは、仔猫が自分が人間の女の子であると信じているために、少女として描かれるという手法として現出している。主人公のチビ猫は、その自己認識によって、少女に耳と尻尾がついたイラスト⦅猫であることを示す「記号」》で描かれる。が、ごく自然に周りからは仔猫として見えており、そう取り扱われているという不思議な世界を描き出している。読者はそれを時に「仔猫」としての映像と読み重ねなければならない。猫の主観が、その真実を目に見える世界にダブらせて「翻訳」しているのだ。)
 
ほんの少し、ズレている。現実が、ほんの少し歪む。読み換えられている。…この奇妙な設定がこのひっかかり、この違和感、この味わいを出すテクニックとなっている。現実の風景を、少しだけずらして、そこにうまれる違和感を利用し相対化する視点を得る。
 
殆んどシュルレアレスティックといってもよい、人間としてあり人間としてない、三人。

視界が絶えず二重にぶれていくような、視覚的に成り立たないこの奇妙な風景を想像する脳内作業の感覚を読者は味わうことになる。
 
…そう、これは、ブレヒトのいう「異化作用」と同じ原理である。

この「違和感」ズレによって浮かび上がってくるもの。自明のものとして不可視となっていた日常現実という物語の客観、相対化。…違和を誇示する手法を述べた「異化作用」の効用、演劇によるその戦略と同じ手法、同じ効果なのだ。ときにそれはカリカチュアとしての効果も生む。
 
 *** *** 
 
三人の日常、その何気ない日々をスケッチのようにエッセイのように描いてゆく柔らかで軽やかな風景。そのエピソードはそれぞれ可笑しくも哀しく、そして愛おしく、味わい深いテーマを潜ませているが、就中「ある日曜日の発見」「音楽」は印象深い。
 
「ある日曜日の発見」
 
これは、毎夜のようにきゅうりの部屋に集まって友情を育んでいた三人が、偶然外で出会ったときのエピソードである。
 
場面は新緑の季節、すばらしく晴れた或る日曜の朝。雑貨屋に牛乳を買いに来たきゅうりと新聞を買いに来た数字の2がばったり出会う。やあ、おはよう、と、二人はそのまま公園に散歩に出かける。そこでの会話である。サングラスを頭にのっけたランニング姿のきゅうりは言う。
 
「きみは、おもてで見ると別人のようだね。(中略)まるでどっかの嫌味な役所づとめ野郎みたいに見えたから、あやうくきみだとわからないところだったよ。」
 
2は言う。
 
「きみだって別人のように見えたよ。いかにも筋肉自慢って感じで。(中略)どっかの、しゃれのめした不良かと思っちゃったよ。」
 
…文字通り、彼等は嫌味な役所勤めとチンピラ筋肉自慢なのだ。

だが、友達同士となった彼等にとって、そのペルソナは最早人物の本質とはかけ離れた要素となっている。一度友達になってしまうと、その人物の内面を知ってしまうと。…すなわち、社会の構成要素ではなく直接その為人に接触して関わりをもってしまうと、もうその外側からの他者の視点には戻れない。一度習得してしまった語学(コトバ)のように。
 
二人はベンチに腰掛けて、周りのひとたちに自分たちがどう見えているかについて考える。
 
「『嫌味な役所務め野郎としゃれのめした不良』の二人連れに見えるわけです。実際は違う、と知っているのが自分たちだけだと思うと、2ときゅうりは愉快な気持ちになって、くすくす笑わずにはいられませんでした。」
 
人が人を見た目、第一印象で判断する、社会的にカテゴライズすること、その一般化され仮面をかぶったペルソナと対象の人物の本質との乖離、その違和感のことをこの話は語る。社会化されたアイデンティティ。あるいは社会化によって成り立っているアイデンティティ。…それは例えば「DQNねーちゃん風」「真面目が取り柄の営業マン風」「いばりくさった加齢臭昭和オヤジ風」「スタバでタブレットを操るノマド気取りのエグゼクティヴ風」「セレブブランド好きOL風」「ざまあすPTA主婦風」etc、etc…ステレオタイプにとりあえず分類する一種の社会的共通認識のことである。そして誰もが多かれ少なかれ気にするところ、「果たして自分という人間はどう見えているのか、どこにカテゴライズされるものであるのか…?」
 
で、ここでの卓越は、ふたりがその乖離について「愉快でたまらない」気持ちになった、という展開である。
 
社会的ペルソナでのみ認識されるのではない自分自身、その概念からはみ出るもの。
それを本質といってもいいし、アイデンティティ、己自身の全体性を保証するものといってもよい。…とにかくそれは孤独な形では非常に危うい存在なのだ。たやすく他者の視線に取り込まれてしまう。他者の評価を絶えず気にするだけの存在となり、自分とは何か、とわからなくなる。
 
人間は「社会性のみで」存在するものにあらず。文学のテーマの真髄がここに隠れている。そしてここでは、それを誰かと分かち合っている、共有されている、という認識があってこそ、その、社会的ペルソナからはみ出た本質そのものが保証されるのではないか、という命題がある。純粋な友情、という優しい、あたたかな形で。
 
これは、友情、という要素は、例えば共同幻想論的なアプローチをするならば、「対幻想」的なカテゴリに属する。「共同幻想」が社会性であり、「自己幻想」が芸術性や個的なものを指すとするならば、両者をつなぎ共に保証するものとしての「対幻想」というカテゴリのメディア的な役割、そのバランサーとしての重要性がここに浮かび上がっている、というわけだ。三位一体としての「個」と「社会」、そしてそれを繋ぐ「メディア」、という世界モデル。(「対幻想」とは基本的に恋人や家族をその対象とするのだが。)
 
自己幻想だけでも、共同幻想だけでも、ひとは歪む。バランスを失えば、その乖離と軋轢に苦しむものとなる。自己幻想が暴走すれば他者を攻撃、支配するエゴイスティックな独裁者になるだろうし、共同幻想に食われてしまえば個としての己を見失い、システムの犠牲となる美学に食われたパーツとなる(人間は部品)。レーゾンデートルはシステムへの寄与。機能するものとしての己である。そして彼がその拠り所のシステム(国家や宗教的なるものとして考えられる。)を失ったとき、或いは心が弱ってしまった瞬間に、己の存在意義は失われ、その自己否定から、モラルハラスメントの被害者、ウツや自殺に追い込まれる側の人間になるだろう。どちらにしろ、それは徹頭徹尾、孤独を意味する。そこに個と世界を肯定的に有機的に結びつけることを可能とする愛情を基盤とした社会性、そのあたたかなもの、「対幻想」的なるメディアが存在しないのならば。
 
…さて、で、この話の結末である。
じゃあ帽子はどう見えるのだろう、と二人は帽子を呼び出し、やってくる彼を見た途端笑いだしてしまう。

2の目には帽子が「逃亡中の犯罪者」、きゅうりの目には「くたびれた、ただのおじさん」に見えたからである。
 
「でも二人とも、それが帽子と『別人』であることを知っていましたから、帽子には何も言いませんでした。(中略)『僕たちがみんな、知り合いでよかった。いまきゅうりくんと、そう話していたところなんですよ』それから三人は連れだって、すばらしくよく晴れた日曜日の公園を、カフェをめざしてぶらぶらと歩いていきました。」
 
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さて、もうひとつ。「音楽」。
 
これも、「ある日曜日の発見」に共通するテーマをもつ。
三人がそれぞれいつもひとりで聴いている大切な音楽を皆で共有しようとしたときの違和の発見である。
 
己の個としてのの内面を晒すことによって、他者の視線を自らの内側に取りこんでそこに内包されたものとしてしまう。社会化されたものではないところにある本質としてのアイデンティティが損なわれる、という現象。己が個として存在するための大切な部分、それをここでは一人で聴く音楽に仮託して表現してみせている。
 
日曜日のエピソードとは異なり、ここで焦点化されているのは自己幻想と対幻想の関係性、対幻想の及ばないところにある個の領域の神聖さである。そして、侵すべからざる領域をもつ、ということをそれぞれテゲテゲに許し合う、認めあうものとしての友情、対幻想のありかた。
 
自己幻想、対幻想、共同幻想、どのカテゴリもそれぞれがそれぞれの要素に不可侵、不可知の領域を持ちながら、その3なるものとしての一体性、全体性を保つバランス感覚を必要とした世界認識モデルを構成する。
 
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さて、「大人の絵本」、「大人の童話」。
この矛盾を孕んだイメージを持つ言葉は一体何なのか。
 
大人。あまりにも重たくしがらんで主体をそのシステムの内側に組み込んでしまう基本構造をもっているのが、社会生活や恋愛をメインに扱ういわゆるその大人社会を舞台とした小説である。とするならば、その物語システム内部に捕らわれて流されてゆかない「外側の目線」、相対化する目線を潜在的保有しているが、童話や演劇、ナンセンスや異界ものというジャンルだと考えられる。
 
(文学というものが、世界と自分との関係、或いは自分とは何か、という疑問を、さまざまな物語の形として示しだそうとするものであるとすれば、主体が己自体のアイデンティティを成り立たせているシステム、社会性という物語の内側にいるか外側にいるか、これは結構重大な要素である。
 
優れた文学があるとすれば、それはシステムの内側からのアプローチであっても、その内部から世界の在り方、その認識自体によって生じている軋轢を描くことによって、その外側を示唆する、その世界の枠組みそのものを問い直そうとする視点を色濃くもっている。必ず。)
 
「オトナの事情」「暗黙の了解」という、システム存続のための論理の隠蔽はここではなされない。
 
ホテルカクタス、この作品の中で、それは論理の隠蔽ではなく認め合いとして許されるものとして描かれている。正統化されるものはない、正義はない。ただすべてはそれぞれが相克しあうことなくその矛盾を折り合わせて成り立っている。…そうしてそのようなところに周りの視線によって内包されるものとなった己の心の中の他者の倫理によって己を否定し損なうものであるモラル・ハラスメントはない。
 
何だろう。ほっとするんだ。
こういう世界の在り方、街の在り方。
 
心が枯渇したとき、時折思い出さなければならない風景。
 
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ここから蛇足オマケ。
 
因みに、主体に内包された他者の視線、倫理、という構造については賢治の「オホーツク挽歌」の次の一節がとてもよく表しているのではないかと私は思っている。
 
海がこんなに青いのに
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
 (Casual observer ! Superficial traveler !)
 
他者の視線が己の一部として刷り込まれ、己自身を否定し苦しめる倫理となる構造である。
 
では、そのどこまでを己、主体としているのか?

それを見極めようとするとき、主体が主体自身を解体することが必要となる。透明な自我。超越した自我。それを得るために必要なのは、アイデンティティを破壊したところから始める、「わたくしというげんしゃう」意識であろう。
 
…とまあ話が賢治に行くとつい風呂敷が広がりすぎてしまうので、これはまたいつかぼちぼちね。