酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

BLからZLへ

少女漫画とBLについてはなんだかんだ言いたいことがあってちまちまメモしたりしてたんだけど。

 

…昨日か一昨日か、ツイッタ界隈で「美術館のちょい悪オヤジ」の話題が盛り上がっていた。モテたいオヤジはうんちく身に付けて美術館女子を狙え、っていうやつな。

まず噴出していたのはそのダサさと低能さ、卑しさ、無自覚の暴力的ハラスメントへの激しい非難である。それはもうウットリするほど見事に完成され、知性に溢れた美しい批判のかたちであり、感服するほど気持ちのいい激しいディスりっぷり(変な言葉だな。)であった。

で、これを完膚なきまでに叩いた後の第二ステージとして立ち上がるのが発展二次創作である。この辺の笑いへの横滑りっぷり、このトコトン笑いのめそうとする貪欲さが好きなんだなあ、ツイッタ気質。自分自身をも含め、何もかもをパロディにする、なにもかも笑いへとずらす物語化への視点を持つ。その江戸庶民的な逞しさが好きだ。ものすごく大切なことだと思う。真面目に。

で、どう発展したかっていうと、基本、二通り。

まず、無知だけど知的な雰囲気大好き女子に付け焼刃蘊蓄たれて感心されて尊敬されてモテちゃって食事に誘っちゃってっていうプランが、美術館オタク女子に激しい切り返しを受けて撃沈するっていうストーリーのバリエーション。これは、社会的に暗黙の了解として男性社会における下位レヴェルにおかれ蔑視されてきた女子からのルサンチマン系譜である。

もう一つが、BL好きクラスタから発展した、女子ではなく男子同志の美術館でのナンパ物語変奏。「ボーイミーツボーイ@ミュージアム」である。こっちの突き抜けたぶっ飛び方が実に素晴らしい。ルサンチマンなんぞない。だけど、斜め上反応的でありながら、それはあざやかに男性原理を笑いのめし、性の消費を逆転させている。

そして更に言えば、笑いながらもそれを愛おしむ、親密な秘密共有サークル内で成立するのびやかなあたたかさがある。オタク自覚者同士に特有の共犯感覚。もちろんそれは発端となった元ネタの生じた社会原理への揶揄が基盤となっている。(これは重要なポイントなんではないか。)

…具体的に、その二次創作内容なんだけど、これが結構渋くてイイんである。ちょい悪オヤジイメージから発展しただけあって、BL(ボーイズラブ)というよりはOL(オヤジラブ)、いやむしろそれらを既にはるかに越えたZL(ジジイラブ)ジャンルの形成へと進化したらしいのである。時代は既にZL。もうこのあたり花盛りで素晴らしい。最も受けているのは「ちょい悪じじいとガチ教養じじい」絡みヴァージョンである。

なんかね、笑いネタなんだけど、ここでは、笑いっていうよりイイんだな、深いんだな、じんわりあったかいんだな、純愛、友愛。ZLってのは。(「最高の人生の見つけ方」結構好きなんである自分。)

BLにもやっぱり通じるとこがあるんだけど。…ウン、やっぱりBLについてはもうちっと語ってみたいな、これは、愛(エロスにしろアガペにしろ)を当事者としてではなく物語として眺める、というレヴェルで嗜好する感性だと思うから。これは後日の課題。

西加奈子「i」

読了。
 
この人の作品初めて読んだけど、なんかだめかも。
いい作品なのかもしれないけど自分にはダメだ、響いてこない。
 
帯にある中村文則の宣伝文句どおり、この小説は「この世界に絶対に存在しなければならない。」を否定はしない、寧ろ賛同はするけれど。考えはするけれど。
 
説得力がない。
 
国際間の貧富の差、貧困、テロ、暴力、差別、自然災害、LGBT、…テーマは節操がないほどキャッチーで現代社会への問題意識が高く、それが非常に繊細な少女の感覚をもって描かれている。(この辺りの繊細で鋭敏な感覚描写はさすがにプロ作家、素晴らしいとは思う。)確かなアイデンティティを、確かな居場所を求め苦しむ彼女。そして、言ってしまえば結論はとてもこぎれいにまとめられている。自他の生命の存在への無条件の祝福。確かに。…確かにそうかもしれないけど。あざとい文体、文章構成。そして結論に導こうとする論理に飛躍と隠蔽を感ずる。論理の印象はひどく乱暴だ。
 
肝心なところでお仕着せのお涙ちょうだい感動(それは万人に対する一種のモラハラだ!疑問を圧し潰し権力機構に組する可能性が高く、作品自体の問題意識に根源的に鋭く対立する矛盾ですらある。)にそれは流れる。イージーなできすぎの愛(人類愛、友愛、家族愛、男女の愛)の既成の物語の絶対性に頼る。
 
それは果たしてそもそも何か、という成り立ちを見極めるための疑問にたどり着かない。その外側にまで、その起源のところまで、それ以上食い下がることができない。登場人物が己の中の深みにただひたすら素朴に真摯に踏みこんでいこうとする方向性のないイージーな設定だからだ。
 
意味ありげな数学モチーフも虚数の記号「i」と主人公アイの名(日本語の愛と英語の一人称Iとのダブルミーニングから名づけられたもの。養母は日本人、養父はアメリカ人)のメタファも今ひとつ隠喩としてビシッとハマってこない印象を受ける。
 
ひたすらあざといだけ。
 
仮定された、想定された存在しない便宜上の観念だとされている概念は、しかし実は「存在しない」(「この世界にiは存在しません」という高校教師の因縁-呪詛の言葉。)のではなく、それは「思い」によって、想像すること信ずること愛することの純粋な激しさ、つよさによって実在になりうる(例えば、愛。愛の実在)というテーマの理屈はなんとなくわかるんだけど、説得されるだけの論理の整合性がない。ただキイワードを繰り返してみせる、力技のエモーショナルな「雰囲気」だけだ。
 
この直観はおそらく正しいと今私は信じている。ひとつひとつ検証して論じることもできると思うんだけど、膨大な作業で本腰を入れなくてはならなくなるし、今はただでさえリソース少ないワシの脳みそ、否定のための(おもしろくないことの解説)に割く価値を見出すことはできない。仕事で依頼されたとかなら別だけど。比較対照して他の素晴らしいものを論じたてるためでも別だけど。

何しろ主人公のみならず、登場人物みなにいっこも共感できないのだ。共感できないのはその境遇や行動や出来過ぎの性格にというよりは、描かれるその人物像のティピカルさ、そのペラさからくる。強引に主人公を結論に導こうとするストーリー盤の上の駒だ。
 
…ほかにもあたってみるかなあ。この作者、あんまり期待できない気がするけど、一冊だけで決めることもできんよな。

*** *** *** 
 
追記メモ
 
我慢して前半を読みすすめていくと、後半から当初の展開は少しおもしろい。東日本大震災のときのアイの変化のくだりだ。あのあたりだけ前半のぐにぐにした伏線がどう回収されてゆくか、どう展開するのか期待して、ちょっとわくわする。
 
それはアイの中に巣くっていた「己に存するべきではない幸福、己がいるべきではない恵まれた場所にいる、誰かが己の負うべき苦しみを苦しんでいる、という罪の意識(原罪というテーマに通じる。)」が、災害という不幸に「選ばれる」ことによって免罪符を得て一種の解放を得る、という非常に興味深い論理を孕んでいるからだ。
 
この唯一興味深いと思ったテーマも、すぐに人工授精による無理やりの妊娠や流産の「外的なテーマ」に流れて立ち消えになっちゃうんだけどね。

「小さな巨人」その後

実は観つづけております。「小さな巨人」。

ここであんなにこきおろしておいて、と思われる向きもあろうかと思いますが。…いやあ、だってさ、楽しみ方がわかってきたりしましてな、キャラクターに愛着もつようになってしまったりするともうおしまいです。

でもね、でもでも、全然意見は変えてないです、ほんと。全然言ったこと撤回する気はないし今でもおんなじように思っとりますです。…だからさ、ただおもしろさの構造、そしてその持つ可能性として、こないだ比較したような「シン・ゴジラ」と同じ地平におくべきものではない、ということで。

電子レンジにオーブンの役割を求めてもダメである。

だからこれはこれで、このジャンルでは優れたエンタテイメントだと思うワケです。テレヴィ・ドラマというよりは舞台劇的なわざとらしいキャラクター、大仰な表情、せりふ回し、このこれ見よがしのわざとらしさを登場人物の丁々発止の腹の探り合い、劇中劇としての味わいで込み入った陰謀劇を楽しめるようになればめっけもの。お約束を楽しむ娯楽技芸の洗練。

あとね、これが重要なとこなんだけど、最初の「芝署編」ではウェットな人間ドラマに主眼がおかれすぎてた。これでイマイチ感が前面に出てたんだけど、これが今回「豊洲編」になって、警察内陰謀探り出し丁々発止及び謎解きゲームな部分に主眼が絞られてくると役者脚本の持ち味面目躍如、断然面白くなってきちゃったってことなのだな、つまり。「芝署編」で一通り紹介設定された登場人物像を自在にひねって善悪敵味方二転三転、視聴者を翻弄し楽しませ遊んでゆくゲーム本番到来なイメージ。

推理ドラマは閉じられた構造建築の美学。受け手は純粋に受け手となってそのストーリー構造の巧みさに乗せられていればよい。(だからさ、大体こういうドラマなんだったら、「悪役に利用翻弄される子を思う不幸なシングルマザー」だの「娘を不当に殺され誘拐テロに走る哀れな中小工場主親父」だののあまりにもイージーティピカルなおセンチ路線にハンパに頼っちゃっちゃダメなんである。いっぺんにつまんなくなってしまう。)

主人公香坂の家庭でのまぬけシーンと新人女の子役の三島が、舞台劇的とは異なった、いわゆるナチュラルな演技。これが一般的なTVドラマのうるおいというかほっと一息一服の清涼剤的な(男性原理企業ドラマ的の大仰に深刻ぶった筋立ての中での家庭、女性の柔らかな日常の微笑ましさ)味わいをさしはさんでるって匙加減もなかなか。

だからさ、娯楽に何を求めるなんだな。
(基本的にやっぱり好きなジャンルではないのでまあ惰性ではあるんだけど、次はこれどうなるんでしょうわくわく、の罠にはまった。)

 *** *** ***

何をもって人は、自分は、今これを面白がっているのか。自分のどの部分がどのような箇所をおもしろいと感じているのか。心は何を喜んでいるのか。悲しんでいるのか。それは己の精神のどのような構造に基づいているのか。

芸術であろうと科学であろうと文学であろうと人間関係であろうと。対象がなんにせよ、これを見極めるのって結構重要なことなんじゃないかな、と思っている。自分とは何か世界とは何か、というテーマとそれは同義だから。

「ホテルカクタス」江國香織

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「僕の小鳥ちゃん」、「ホテルカクタス」。 

江國さん久しぶりに読み返す。 

この人の作品は、やっぱりこういう童話風というか、いわゆる大人の絵本という感じの作風のが好きだな。 

 
意味があるようで、ないようで。
 
…ちょっと気取ってるかな。
若い女性向けのお洒落さ、春樹的な気取り。
これをそういう情緒や雰囲気を楽しむだけのもの、としてとらえることだってできるけど。 
 
だけどやっぱりきちんとひねりが効いてて、きちんと深みがある。 
 
とりあえずこのひとは類まれなる詩的感性の持ち主で、あざといほど巧みでありながらポエジイにあふれた、そんな文体を操ることのできる人なのだ、と思う。濃やかな細やかな感情のひだの震えを的確に感じ取り、それを掬い出し救い出す。言葉と言葉の間にそっとひそませるようにして。 
 
びいんと響いてくる感情。やるせなさや、切なさや。
 
そしてけれど、それを淡いさりげない日常としてとらえ「流してゆく」のがこの作品だ。
 
そして、その、流してゆく、許し合ってゆくという物語、それ自体に、淡々と流れる淡い日常そのものの価値がかけがえのないものとして読みかえるための力がある、のではないかと思うのだ。哀しみと無常を日常に包み込むこの感覚。それは治癒しない。傷を傷のままにそっとくるみ込むだけの「癒し」としての救済である。
 
その「なんてことなさ」自体のもつ深み。世界があるがままであるというその状態を、物語としてとらえること。そのほのかな切なさと慎ましい幸福を創造する力。
 
そうして、ナンセンスな味わいの中のほのかな諧謔
人生、こんなもんだ。深くも淡くも。
  
…ぱたんと本を閉じて、ただほうとしばし優しい気持ちになる。
その優しさは、廃墟の無常の寂しさに少し似ている。 
 
さまざまの世界の多様な価値観、他者という理解できない感性、理不尽、己のしょうもなさ。 
 
けれど、ただそれをそれとしてともに感じ抱きしめている人がいる。お互いにその「理解できなさ」を認め合うことが、存在を、尊厳を認め合う「友情」として成り立っているということ、その感覚を得るだけで、自他を共にゆるやかに「許してゆく」優しい気持ちになれる。
 
 
作者は女性的な細やかな感覚で恋愛を主体とした作風をもっているとされているが、ときに不思議にファンタスティックな童話風のものを書く。(私はこれが好きだ。)「ホテルカクタス」のテーマはまさに「異種間の友情」なのだ。 
 
これは一種いわゆるダイバーシティの基礎でもある。
 
まあ端的に言えば、「ま、それもあり、これもあり、だもんね。あのひとは、ああいうひと、このひとは、こういうひと。」
 
多様であるそれぞれのが、そのままそれとして認められ、救われている、許されている。異なる感性を持つ、価値観を持つ生物である誰かに受け入れられている。絶対ではなく、それぞれのゆるみをもって、或いは小さなうしろめたさを探られることなく許し合うテゲテゲさをもって。誰もそれを裁くことはない。
 
また、例えばそれは日曜夜のサザエさんにも似ているのかもしれない。それぞれの人々が様々なデイごとの中で仲良く調和しながら暮らす街の日常。永遠のイデア、永遠に続くその平凡な日常の幸福という非凡のこと。一冊の本の中に閉じ込められたその永遠。
 
 *** *** 
 
ホテル・カクタスは街はずれの小さな古いアパートだ。そこに住んでいる帽子ときゅうりと数字の2の奇妙な友情の日々の物語。
 
…何の説明もなく「帽子ときゅうりと数字の2」である。なんだこれは。
 
人物のキャラクターから名づけられたものであるあだ名的な呼び名かな、という想定の下に読み進めてみると、そうでもない。(くたびれたハードボイルド美学おじさん風の帽子は酒飲みで読書家、遊び人の風来坊だし、きゅうりはガソリンスタンド勤めの肉体派健康オタク、おおらかでこだわらない(深く物事を考えない)まっすぐな太陽の似合う性質、数字の2は役所勤めで融通の利かない几帳面な性格だ。)やはり帽子はかぶるための帽子であり、キュウリは緑色のぱりっとみずみずしいあの野菜のキュウリ、数字の2は概念が擬人化したかのような数字の2、そのアラビア数字の2のかたちをとったもののようだ。
 
にしても、この三人(人?)は社会的に人間として存在しているのだ。他の動物、例えば猫はちゃんと口をきけない動物としてのペットの猫だし、他の登場人物は人間である。三人が恋するのも白いワンピースの似合う女の人だ。
 
童話的構図の中での、キャラクターの性格付け。その奇妙なリアリティ。
 
メタファ。これを、そのままその言葉の意味のブレを利用して擬人化風にし、めくるめくナンセンスワールドに持ち込んでいる、といってもいい。これは、おもちゃや動物が擬人化される類のよくある童話的構図のようではあるが、この作品においてそれはもっともっと奇妙だ。筋トレが趣味のきゅうり(手足はどんな風についてるんだ?)、ウイスキーをたしなみ古いレコードを聴く帽子(どこに目鼻がついてるんだ?)、グレープフルーツジュースを飲む役所勤めの数字の2(いったいどこに口が…)。これは、絵本や漫画によくあるような、アンパンマン的にイラスト化されうるモノの擬人化とは異なる。安定した視覚的要素に帰着していかない、直接概念と意味のフィールドに切り込んでくる「コトバの力」にだけよっているというところにその特化した意味があるのだ。
 
これは寧ろ、キャラクター、人格の「記号化」、といった方がいいかもしれない。これは決して絵本にならない。(実はこれは美しい挿絵がふんだんに配された「絵本」になっているのだが、そのすべては何とも味わいのある陰影をもった寂しげな無人の風景、夢の中のような、がらんとした廃墟を思わせるアパートの内部の風景なのだ。それは実は一層本作の人物像の映像化の不可能性、固定された映像的要素になりえない記号としての三人、見える世界と見えない意味世界の間を揺れ動く二重の風景としてのキャラクター、という特徴を深めたものとなっている。)(この絵素晴らしい。画家は佐々木敦子さん。)
 
(この二重化された風景というテーマは、結構根深い。賢治の「春と修羅」「すべて二重の風景を…」主体の見ている意味世界、心象風景が現実世界を二重のものとする。…また、例えばそれは、昭和少女漫画の名作として名高い「綿の国星」などでは、仔猫が自分が人間の女の子であると信じているために、少女として描かれるという手法として現出している。主人公のチビ猫は、その自己認識によって、少女に耳と尻尾がついたイラスト⦅猫であることを示す「記号」》で描かれる。が、ごく自然に周りからは仔猫として見えており、そう取り扱われているという不思議な世界を描き出している。読者はそれを時に「仔猫」としての映像と読み重ねなければならない。猫の主観が、その真実を目に見える世界にダブらせて「翻訳」しているのだ。)
 
ほんの少し、ズレている。現実が、ほんの少し歪む。読み換えられている。…この奇妙な設定がこのひっかかり、この違和感、この味わいを出すテクニックとなっている。現実の風景を、少しだけずらして、そこにうまれる違和感を利用し相対化する視点を得る。
 
殆んどシュルレアレスティックといってもよい、人間としてあり人間としてない、三人。

視界が絶えず二重にぶれていくような、視覚的に成り立たないこの奇妙な風景を想像する脳内作業の感覚を読者は味わうことになる。
 
…そう、これは、ブレヒトのいう「異化作用」と同じ原理である。

この「違和感」ズレによって浮かび上がってくるもの。自明のものとして不可視となっていた日常現実という物語の客観、相対化。…違和を誇示する手法を述べた「異化作用」の効用、演劇によるその戦略と同じ手法、同じ効果なのだ。ときにそれはカリカチュアとしての効果も生む。
 
 *** *** 
 
三人の日常、その何気ない日々をスケッチのようにエッセイのように描いてゆく柔らかで軽やかな風景。そのエピソードはそれぞれ可笑しくも哀しく、そして愛おしく、味わい深いテーマを潜ませているが、就中「ある日曜日の発見」「音楽」は印象深い。
 
「ある日曜日の発見」
 
これは、毎夜のようにきゅうりの部屋に集まって友情を育んでいた三人が、偶然外で出会ったときのエピソードである。
 
場面は新緑の季節、すばらしく晴れた或る日曜の朝。雑貨屋に牛乳を買いに来たきゅうりと新聞を買いに来た数字の2がばったり出会う。やあ、おはよう、と、二人はそのまま公園に散歩に出かける。そこでの会話である。サングラスを頭にのっけたランニング姿のきゅうりは言う。
 
「きみは、おもてで見ると別人のようだね。(中略)まるでどっかの嫌味な役所づとめ野郎みたいに見えたから、あやうくきみだとわからないところだったよ。」
 
2は言う。
 
「きみだって別人のように見えたよ。いかにも筋肉自慢って感じで。(中略)どっかの、しゃれのめした不良かと思っちゃったよ。」
 
…文字通り、彼等は嫌味な役所勤めとチンピラ筋肉自慢なのだ。

だが、友達同士となった彼等にとって、そのペルソナは最早人物の本質とはかけ離れた要素となっている。一度友達になってしまうと、その人物の内面を知ってしまうと。…すなわち、社会の構成要素ではなく直接その為人に接触して関わりをもってしまうと、もうその外側からの他者の視点には戻れない。一度習得してしまった語学(コトバ)のように。
 
二人はベンチに腰掛けて、周りのひとたちに自分たちがどう見えているかについて考える。
 
「『嫌味な役所務め野郎としゃれのめした不良』の二人連れに見えるわけです。実際は違う、と知っているのが自分たちだけだと思うと、2ときゅうりは愉快な気持ちになって、くすくす笑わずにはいられませんでした。」
 
人が人を見た目、第一印象で判断する、社会的にカテゴライズすること、その一般化され仮面をかぶったペルソナと対象の人物の本質との乖離、その違和感のことをこの話は語る。社会化されたアイデンティティ。あるいは社会化によって成り立っているアイデンティティ。…それは例えば「DQNねーちゃん風」「真面目が取り柄の営業マン風」「いばりくさった加齢臭昭和オヤジ風」「スタバでタブレットを操るノマド気取りのエグゼクティヴ風」「セレブブランド好きOL風」「ざまあすPTA主婦風」etc、etc…ステレオタイプにとりあえず分類する一種の社会的共通認識のことである。そして誰もが多かれ少なかれ気にするところ、「果たして自分という人間はどう見えているのか、どこにカテゴライズされるものであるのか…?」
 
で、ここでの卓越は、ふたりがその乖離について「愉快でたまらない」気持ちになった、という展開である。
 
社会的ペルソナでのみ認識されるのではない自分自身、その概念からはみ出るもの。
それを本質といってもいいし、アイデンティティ、己自身の全体性を保証するものといってもよい。…とにかくそれは孤独な形では非常に危うい存在なのだ。たやすく他者の視線に取り込まれてしまう。他者の評価を絶えず気にするだけの存在となり、自分とは何か、とわからなくなる。
 
人間は「社会性のみで」存在するものにあらず。文学のテーマの真髄がここに隠れている。そしてここでは、それを誰かと分かち合っている、共有されている、という認識があってこそ、その、社会的ペルソナからはみ出た本質そのものが保証されるのではないか、という命題がある。純粋な友情、という優しい、あたたかな形で。
 
これは、友情、という要素は、例えば共同幻想論的なアプローチをするならば、「対幻想」的なカテゴリに属する。「共同幻想」が社会性であり、「自己幻想」が芸術性や個的なものを指すとするならば、両者をつなぎ共に保証するものとしての「対幻想」というカテゴリのメディア的な役割、そのバランサーとしての重要性がここに浮かび上がっている、というわけだ。三位一体としての「個」と「社会」、そしてそれを繋ぐ「メディア」、という世界モデル。(「対幻想」とは基本的に恋人や家族をその対象とするのだが。)
 
自己幻想だけでも、共同幻想だけでも、ひとは歪む。バランスを失えば、その乖離と軋轢に苦しむものとなる。自己幻想が暴走すれば他者を攻撃、支配するエゴイスティックな独裁者になるだろうし、共同幻想に食われてしまえば個としての己を見失い、システムの犠牲となる美学に食われたパーツとなる(人間は部品)。レーゾンデートルはシステムへの寄与。機能するものとしての己である。そして彼がその拠り所のシステム(国家や宗教的なるものとして考えられる。)を失ったとき、或いは心が弱ってしまった瞬間に、己の存在意義は失われ、その自己否定から、モラルハラスメントの被害者、ウツや自殺に追い込まれる側の人間になるだろう。どちらにしろ、それは徹頭徹尾、孤独を意味する。そこに個と世界を肯定的に有機的に結びつけることを可能とする愛情を基盤とした社会性、そのあたたかなもの、「対幻想」的なるメディアが存在しないのならば。
 
…さて、で、この話の結末である。
じゃあ帽子はどう見えるのだろう、と二人は帽子を呼び出し、やってくる彼を見た途端笑いだしてしまう。

2の目には帽子が「逃亡中の犯罪者」、きゅうりの目には「くたびれた、ただのおじさん」に見えたからである。
 
「でも二人とも、それが帽子と『別人』であることを知っていましたから、帽子には何も言いませんでした。(中略)『僕たちがみんな、知り合いでよかった。いまきゅうりくんと、そう話していたところなんですよ』それから三人は連れだって、すばらしくよく晴れた日曜日の公園を、カフェをめざしてぶらぶらと歩いていきました。」
 
 *** *** 

さて、もうひとつ。「音楽」。
 
これも、「ある日曜日の発見」に共通するテーマをもつ。
三人がそれぞれいつもひとりで聴いている大切な音楽を皆で共有しようとしたときの違和の発見である。
 
己の個としてのの内面を晒すことによって、他者の視線を自らの内側に取りこんでそこに内包されたものとしてしまう。社会化されたものではないところにある本質としてのアイデンティティが損なわれる、という現象。己が個として存在するための大切な部分、それをここでは一人で聴く音楽に仮託して表現してみせている。
 
日曜日のエピソードとは異なり、ここで焦点化されているのは自己幻想と対幻想の関係性、対幻想の及ばないところにある個の領域の神聖さである。そして、侵すべからざる領域をもつ、ということをそれぞれテゲテゲに許し合う、認めあうものとしての友情、対幻想のありかた。
 
自己幻想、対幻想、共同幻想、どのカテゴリもそれぞれがそれぞれの要素に不可侵、不可知の領域を持ちながら、その3なるものとしての一体性、全体性を保つバランス感覚を必要とした世界認識モデルを構成する。
 
 *** *** 
 
さて、「大人の絵本」、「大人の童話」。
この矛盾を孕んだイメージを持つ言葉は一体何なのか。
 
大人。あまりにも重たくしがらんで主体をそのシステムの内側に組み込んでしまう基本構造をもっているのが、社会生活や恋愛をメインに扱ういわゆるその大人社会を舞台とした小説である。とするならば、その物語システム内部に捕らわれて流されてゆかない「外側の目線」、相対化する目線を潜在的保有しているが、童話や演劇、ナンセンスや異界ものというジャンルだと考えられる。
 
(文学というものが、世界と自分との関係、或いは自分とは何か、という疑問を、さまざまな物語の形として示しだそうとするものであるとすれば、主体が己自体のアイデンティティを成り立たせているシステム、社会性という物語の内側にいるか外側にいるか、これは結構重大な要素である。
 
優れた文学があるとすれば、それはシステムの内側からのアプローチであっても、その内部から世界の在り方、その認識自体によって生じている軋轢を描くことによって、その外側を示唆する、その世界の枠組みそのものを問い直そうとする視点を色濃くもっている。必ず。)
 
「オトナの事情」「暗黙の了解」という、システム存続のための論理の隠蔽はここではなされない。
 
ホテルカクタス、この作品の中で、それは論理の隠蔽ではなく認め合いとして許されるものとして描かれている。正統化されるものはない、正義はない。ただすべてはそれぞれが相克しあうことなくその矛盾を折り合わせて成り立っている。…そうしてそのようなところに周りの視線によって内包されるものとなった己の心の中の他者の倫理によって己を否定し損なうものであるモラル・ハラスメントはない。
 
何だろう。ほっとするんだ。
こういう世界の在り方、街の在り方。
 
心が枯渇したとき、時折思い出さなければならない風景。
 
 *** *** 
 
ここから蛇足オマケ。
 
因みに、主体に内包された他者の視線、倫理、という構造については賢治の「オホーツク挽歌」の次の一節がとてもよく表しているのではないかと私は思っている。
 
海がこんなに青いのに
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
 (Casual observer ! Superficial traveler !)
 
他者の視線が己の一部として刷り込まれ、己自身を否定し苦しめる倫理となる構造である。
 
では、そのどこまでを己、主体としているのか?

それを見極めようとするとき、主体が主体自身を解体することが必要となる。透明な自我。超越した自我。それを得るために必要なのは、アイデンティティを破壊したところから始める、「わたくしというげんしゃう」意識であろう。
 
…とまあ話が賢治に行くとつい風呂敷が広がりすぎてしまうので、これはまたいつかぼちぼちね。

地元デート

ちょっと久しぶりの友人としっとりおデート。

わざわざ横浜の方から来てくれるっていうから地元のいいとこ見せなくちゃ、とひそかに張り切る。

この季節、西国分寺駅周辺で見られるとこといえば、まあにしこくんの脚線美と新緑麗しい武蔵国分寺公園くらいである。そして、書物好きの友人なのだ、これはもう是非都立多摩図書館に連れて行ってあげたい。

ということで、あいにくの荒れ模様、不穏なお天気だったけど、メーデーデート。

図書館は思ってた以上に喜んでくれて嬉しかった。「宝の山やあ~っ!」とあちこちにひっかかってなかなか書棚から離れず。ちいとくたびれて膝痛くなってきた自分、いささか心は痛んだがそこはかとなく幾度かせかして書棚からひきはがし、近くの珈琲屋に連れ出す。

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居心地のいいカフェは地元の誇り。

クルミドコーヒーはどこもかしこも胡桃でいっぱい。温もりが嬉しい、実にいわゆる隠れ場な雰囲気のカフェである。そして「おひとつどうぞ」とテーブルに置かれた信州山胡桃。殻割りながら味わって食べる国産胡桃はこっくり味が濃くてやっぱりおいしい。(胡桃をつまみながらの珈琲ってなんだかちょっとオトナな気がする。深夜書斎でひとりウヰスキーなめながら胡桃を割るお父さんを覗き見て大人の一人の時間の深み、ひとときの永遠、その夜の時間の豊かさや秘密に匂いを感じ取る子供っていう物語のワンシーンを思い出す。あれは誰のどんな作品だったかなあ…。)

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友人注文のてんこ盛りサンド。来た瞬間「ワー可愛い!」と叫んでしまう可愛さであった。イヤこの写真では伝わらないようなインパクトの可愛さでしたな。

(ちっちゃい。でも可愛い。可愛い。でもちょっとちっちゃい。…そんな忸怩たる思いを抱かせる一品。)

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ふわふわチーズムースはちょっとクレメダンジュ風。胡桃のカケラと蜂蜜檸檬をかけていただくスタイル。

 

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外は嵐、中は暖かなシェルター安全地帯。

ふにゃふにゃでもそもその私には、読書家で創作家で物知りな彼女はつい甘えてしまううんと頼もしい友人なんである。

人のことばかりで自分のことは自分の中に圧し潰して、人にぶちまけられない長女気質のひとである。とても敏くて賢いひとなので、奥歯にもののはさまったようなものいいをするワシの気持ちのひそやかな部分を一生懸命汲み取って励ましてくれようとする。

そういうのって、ときにえらく沁みてしまうもんなんである。

 

だから、彼女の抱えてる重たさを垣間見たときは、少しでもそれを軽くしてあげられるようなことが私にもできればいいんだけど、って思うんだな。それはかなりな衝動として。いやほんとのところ。

人間、優しくされると優しくなれるもんだと思うんだな、実際。
優しさとは一体何ぞという問題はさておいて。

 

ガラス窓に吹きすさぶ嵐の新緑はちいと暴力的なエネルギーに満ちた季節の風景。「なんかおもての嵐、わくわくするね。」と言ってみたら激しく同意された。

シェルターな時間はいいもんだ。

「シン・ゴジラ」と「小さな巨人」

普段、映画もドラマも熱心に観る方ではない。TVもほとんど観ない。
活字派である。隠遁している。
 
ということで、去年これは絶対と誘われて、久しぶりに劇場で観た映画であったせいか、単に傑作だったせいか、すっかり衝撃を受けて知恵熱的にシン・ゴジラにイカれたクチである。
 
ということで、新しく始まった日曜夜のドラマ「小さな巨人」。
シン・ゴジラの主役矢口蘭堂役の長谷川博己と人気だった「尾頭さん」市川実日子だっていうから、と、うかうかのせられて。
 
…というかまあ父が観るというのでついでに。
実家のリビングでぶつぶつ言いながら一緒に鑑賞した。第一回。
 
はあ、なるほど。
 
…というのが感想である。

イヤ実によくできていると思ったのです。ほんとに。
それなのに、おもしろくない。

いやおもしろいって言えばおもしろいし大層評判もいいようで楽しめる人は楽しめるものなんであろうと思うんだけど。
 
…という感じのエンタテイメント。

そうか、ドラマっていうのはこういうものなんだよな。人間ドラマ。社会ドラマ。善良なる人々が善良に楽しむエンタテイメント。
 
正直言って、オレあんまり。
 
ハアよく出来とりますなあ、ほんに才能のある器用有能な人々がケチのつけようのないきれいに出来上がった豪華で優等生な作品拵えとるんですなあ、っていう遠いまともな世の中を寂しく傍観するカタワものな気持ち。
 
あきらかにシン・ゴジラを意識した雰囲気作り。

だけど、あの映画のときの大興奮はまったくない。
独断と偏見かもしれないし、連続ドラマと映画を比べるのは畑違いっていうことももちろんあるし、そもそも狙いが違うとかいうのももちろんあるんだろうけど。
 
同じように現実をカリカチュアライズしたファンタジックな虚構エンタテイメントだとしても、いやそれだからこそ、奇妙に似ているからこそ、後世に残る作品と消費される時代一過性の作品との違いを目の当たりにしたような気がして、まあそういう意味で興味深い。
 
ネットでの評判みてみたら、とにかく好評で、よく知らんのだが大ヒットドラマ半沢直樹シンゴジラ足して二で割ったようなものらしい。
 
とりあえず、警視庁の中のエリートと現場たたき上げの二項対立で、巨悪を正義が倒す、っていうようなものらしい。

白い巨塔とか巨悪に立ち向かう正義の士。舞台は警察だけど、企業ドラマみたいなもんである。
 
企業ドラマに興味がない。で、謎解き犯罪ドラマにも興味がない。
だからあんまり、なんだよな。当たり前か。
 
だけどさ、企業ドラマっていうのは人間ドラマなんだよな。義理人情と企業利益からまって、利己的な金と名誉とるか社会正義や人情で義を通し弱い者の味方になる道をとるか、って二者択一的な。意匠は変われど、基本、それは任侠ものとまったく同じ精神レヴェルのためのエンタテイメントである。定義された物語ができあがっててその組み合わせのダイナミクスで物語ができあがる。その外側には出ない。だからふかぶかと精神内部に切り込んでゆくような何か現実側に切り込んでくるような知的な面白さっていうか文学性は出てこない。全部どっかで見たような設定とキャラクター。このお約束が楽しいっていうのはあるけど。役者の味で。ドラマ通の人だったら先見え見えだったり謎あてっこな知的ゲーム風な感じを楽しむんだろうな、推理小説みたいに。
 
 
で、ゴジラの方は規定の物語の枠をぶち壊すような文学性があるのかっていうと、あるんだな、これが。

深刻ぶった社会の歪みを拡大強調して正義の怒りを鼓舞するようなエセ現実ファンタジーではなく、逆に荒唐無稽にファンタジックな設定をしゃあしゃあと打ち出した虚構怪獣映画であるからこそ、カリカチュアとしての可笑しみとぶっとびの卓越が可能になっている。
 
そうだ、「小さな巨人」は実はカリカチュアなんかではなく、現実の劇画化であり、それは寧ろシステムを美化するタイプの物語である。カッコイイのだ。怪物役としてのティピカルな悪役ですら一種ピカレスク浪漫すら思いおこさせる「オトナ社会の酸いも甘いもかみ分けた現実のキビしさを踏まえた苦み」とかなんとかな美学をもっている。さまざまの物語の組み合わせ、感情の葛藤と犯罪ドラマの謎解きのからまった複合物語を楽しむためのドラマ。
 
ゴジラの方は、そういう「人間ドラマ」なんかじゃない。ここに悪役や愛や悲しみ悩み苦しみ憎しみ、どろどろな人情ドラマは存在しない。ただ単に突然降りかかってくる理不尽な巨大な災厄にあらゆる手を尽くして立ち向かう「力」の発動、そのシンプルで小気味よい対決がある。ダイナミクス。ケがれた日常の破壊、ハレとしての破壊的祝祭、終末思想、日常の破壊なカタストロフへの陶酔、そしてそこからのひたすら前向きな再生への意志。すべての宗教が唄うその死と再生のための破壊的非日常祝祭空間がシンゴジラのアクションシーンだ。(しかしゴジラ背中のビームのシーン、あのうっとりするような圧倒的な巨きさの哀しみ、あのひたすらの哀しみはなんなんだろう。)
 
前半の政府の中の非効率的で理不尽なシステムへの皮肉は明らかだが、ここでそれは怒りを呼び起こすよりも笑いを呼び起こす要素となっている。滑稽なのだ。憎めない。憎むべき人間がひとりも出てこない。ここには圧倒的な世界の理不尽というすべての小さな社会的理不尽を圧し潰す自然のアタリマエがあるだけだ。
 
それは、ウエットであるかドライであるか、という違いかもしれない。
一方は、淡々と流れてもいい日常生活や社会生活における人生を劇的で深刻な文字通りドラマティックな味付けをしようとするウエッティなドラマ。他方は、ひたすら降りかかる災難にわたわたと対応する人間たち、その個々の人生のたくさんのドラマを圧殺したところにある活劇アクション、その乾いたカリカチュアの味わいをもつ叙事詩的な映画。

小さな巨人の人間ドラマ、犯罪ドラマの伏線と謎には答えがあり、閉じられている。が、シンゴジラのそれに答えはない。投げかけられた思わせぶりな伏線、暗示はすべてが空白という真理であり、その続きが読者に開かれ投げ渡されてしまった「思考」のための空白という爆弾である。…それは「記号」、野生の思考を促すテクストなのだ。
 
ということで、ゴジラは読み込むべきテクストとしてあり、巨人はテクストとしてはとらえられないブツである。

ゴジラは常に解釈され続ける開かれたブリコラージュであり、巨人は閉じられ完成された物語構造を持つ堅牢な建築物であるからだ。(ブリコラージュ、野生の思考に関してはこちらの記事参照。
 
開かれたテクストのその記号は、読者に解釈を促し続ける。人はこのように、本来無意味な世界に意味を見出し続けることで生きているんじゃないかな、と思うんだな。

…なあんてしのごのいって、来週一応録画予約したワレである。
ころりとこりゃ面白いやとか言い出すかも。まだ第一回しかみてないもんね、小さな巨人

桜の樹の下には

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桜の季節に思い出すことって言ったら、やっぱり桜の木の下の屍体のこと。で、これに関して、学生時代ゼミの飲み会でみんなで議論したこと。
 
イメージとして、どんな屍体が埋まっているか?
 
っていうテーマ。
シンプルに考えれば、どっちかっていうとおどろおどろしい怪奇物語風のイメージを思うし、その場のメンバー大体が「その物語の中の犠牲者としての乙女、若い美女。」と、桜の美しさの代償としての乙女の痛ましさと怨恨の美学のイメージをさまざまに語った。
 
が、そこで我らが先生はここぞとばかりのドヤ顔を見せ、「屍体老婆説」をぶち上げたんである。
 
曰く、老いさらばえ生を終えたひとりの老婆の人生まるごとが、その一生を凝らせた本質が、恐ろしいほど美しい桜の花のその爛漫の美しさとして昇華した、っていうような。爛漫の桜の妖艶な霊気漂う美しさを、その純粋なイデアの形で。
 
物語性というよりは純粋に豊かな絵画的イメージを呼び起こすその美しいクオリアを孕んだ御説は世界の見え方が変わるような革命的感動ですらあった。
 
その場の全員が一瞬にして「屍体老婆説派」に転向したのは言うまでもない。