酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「ぼくの死体をよろしくたのむ」川上弘美

さまざまなテイスト、さまざまな趣向を凝らした18篇からなるオムニバス。
川上弘美のこういう面が好き、これはあんまり、とか、同じ川上弘美ファンであっても、どの作品を好むか意見が別れるところかも。)(そしてこのどれもが、いつか作者の中で膨らんで生まれてくる大長編のタマゴ、その書き出しであってもいいような気がする。)

どれも川上弘美らしい、豊かな情趣、そして透き通るようにピュアでまっすぐなエロティシズムを湛えた不可思議な世界を醸し出す文体だけど、極めて技巧的、また冒険的なかたちをもった作品も見られるように思う。共通するのは、どこかがズレた奇妙なひとたちの、ズレた感覚の奇妙さをそのまま日常と地続きのものとしてまっすぐに受け入れる視線。不条理をゆがめることなく投げ出したそのままの世界、それに対する違和感をもあわせすべての.まるごとを、なんというか、ほとんど馬鹿正直な態度でそのような世界を受け入れる。

怒りや正義や、また恋愛感情にしても、激情的なるもの、激しいものはここにはない。ただ、遭遇する奇天烈な状況、ただ自然に湧いてくる己の感情をすべてそのままぼんやりと受け入れ、見つめる。変だなあ、と思いながら世界のことも自分のこともただその不思議をそのままに受け入れる。それは、現実世界で当たり前だとされていることの、その奇妙さ滑稽さをもまっすぐに映し出すことになる。それ自身の隠蔽された不条理と残酷さを。

そしてそのズレからにじみ出る、独特の諧謔

ただそのあわあわとした柔らかさを味わう。生きることをそんな風に味わう。

読後残るのは、世界の「どうしようもなさ」に対する、色調の淡い、しかしふかぶかと沁みいる致命的な感情。これはボディブローのように効いてくる、胸の芯のどこかが細かく細かく震えながらしゃくりをあげているようなこの感情。それは、おそらくただなすすべもなくさまざまを失ってゆくことの受諾とそれによる「切なさ」である。

 

 *** ***


「生まれつきの人」

「ルル秋桜」で、語り手の変わりものの女の子「ひとみ」(目をつぶった人々の写真の切り抜きを「死体写真コレクション」なるものとして宝物にしている。)と絵画教室の教師(杏子ちゃん)とのこんな会話の記述がある。

「でも、どうしてみのりはあたしに意地悪するんだろう」(みのり→ひとみの姉)
「そういう生まれつきの人なのよ」

 

杏子ちゃんはまたこんな風にゲイを説明し、ひとみはこう思う。

 

「自分と同じ性別の人しか好きになれない生まれつきの人のことをいうのよ」
あたしはさっきより、もっと感心した。生まれつきの人って、ほんとうにいい言葉だ。それならあたしは生まれつき死体の好きな人なのだ。

 

大切な死体切り抜き写真コレクションを姉に盗まれ隠され嘘をつかれ、それを姉の机から発見して責めたら、逆切れされたひとみ。マトモな母は日頃から娘のそのコレクションを気味悪く思っていたために姉の味方になり、逆に被害者のひとみを叱る。いじめる側に正義あり。完全なる理不尽である。

 

「ねえ、正義は勝つと思う?」
杏子ちゃんが聞いた。
「思わない」
「じゃあ、愛は勝つと思う?」
「思わない」
「死体、いいのがあったら、あたしも切り抜いてみるね」
杏子ちゃんのその言葉に、あたしはほんの少しだけ、なぐさめられる。でも、杏子ちゃんの切り抜いた死体が気に入るかどうかは、わからない。
「もしだめな死体だったら、断っても、いい?」
あたしは聞いた。いいよ、と杏子ちゃんは答えた。それで、あたしはもう少しだけ、なぐさめられた。

 

ただまっすぐなそのありのままの感情と思考が、どこかできちんと許され認められるものである、という感覚は、すなわち己の存在が無条件に愛され許され認められるという、存在のセイフティ・ネットとしての感覚である。古来、人類はそれを社会帰属意識や宗教によって補おうとしてきた。

…ほんとうは、そのような場所があれば人はきっと踏み外さず己や他人を害することなくなんとか生きていけるのだ。親兄弟に否定されたひとみのまっすぐな「生まれつき」、自分の存在そのものを「杏子ちゃん」という大人に認められたことに対するこの「少しだけのなぐさめ」の、ゆるく淡いけれど根源的なもののことを思う。川上弘美の真骨頂はここにある。ほんのりしたやさしさとそのひんやりとした切なさ。どこかダイバイーシティの思想の原点のようなものを思い起こさせる。…何はともあれ矯正しない、赦しと他者への尊重の感覚を、「テゲテゲの緩さ」としてどこかでもっていないと、その社会は必ず終焉を迎え破局を迎え、戦争に至ることになる、ような気がする。

 

異界やSF的な状況設定ではなくても、登場人物たちはその異質さでもって既にこの現実世界からはズレている。あてはまらない「法」に則って生きている。まっすぐなのだ。

 

…ひとつひとつの作品に、語りたい思いはあるが今の私には力が足りない。
(どうも村上春樹の「女のいない男たち」のモチーフと重なるところが大きいように思うのだ。この「生まれつき」のテーマと、春樹のいう「病気」。女性の裏切りをそのひととなりとは関係のない独立器官としてその存在を認める「独立器官」。女性の「やつめうなぎ的思考」。(この作品に関してはここでの投稿で言及しています。「シェヘラザード」)彼はそれを技巧や演技でカヴァーしようとする人々の悲劇をも描く。)(もうひとつは、「喪失」への思いのこと。)

とりあえずひとつだけメモ。
今の私にとって一番胸にぐっときたのは、最後の「廊下」である、ように思っている。人生における最大の愛と失恋の大きなドラマ、ゆっくりと一生をかけその喪失を証明し、(喪失というか、それはある意味不思議な成就でもあるんだけど)(もう一人の「自分」という謎の設定)感覚。そしてさらに、その失われた「己の全人生を通して最愛だったはずもの」が、その観念的な純粋さのことが、実は今の日々、年月と日常の中で既に思い出せなくなっている己自身を「発見」し、それを泣く。

川上弘美らしさはここである。泣きながらただ今の夫との日常現実に戻ってゆく、その記述の〆がたまらない。(「土曜日は映画を見に」「儀式」なんかも、なんというか凄まじいものがあると思うんだけど、それはもう、もちろん。)

スプーンと貞操

愛用のスプーンがある。

特に高級品でも思い入れのある品というわけでもない。
確か、マレーシア航空に乗ったときに出来心でお土産にしてしまった機内食用のステンレスの大量生産スプーンである。このスプーンを借りて、機内に持ち込んだおやつを食べたりしててなんだか気に入ってしまったのだ。

(茹で栗なんか持ち込んでむにむにと食べながら奇妙にこの世離れした光に輝く美しい雲を見ていた。甘栗ではなく茹で栗の場合スプーンが必要なんである。)(ちなみに甘栗の場合はたとえ「くりわり君」を使用しても指先が黒くなるのは避けられない。)(オレは昔から栗が非常に好きであった。ケーキのチョイスはモンブラン。)(万年筆の選択はその限りではない。)(父は愛用していたが。)(ゾーリンゲンのペーパーナイフとか登山ナイフとか大事にしてた。なんかオレのパパってひょっとして昭和のミーハーブランドボーイだったんかしらん。)

そいで、なんとなく毎日使ってたら使い心地がよくて馴染んでしまった。マレーシアスプーン。形と大きさの相性がよかったのだろう。ほかのスプーンを使うとどうも居心地が悪い。食べ物の味が変わってしまう。うちにいるような気がしない。枕が変わると眠れないとかそういう感じで、落ち着かない。

持論として、箸だのスプーンだの茶わんだのは、基本的に専用であるべきだ。他人のものを使いたくないし、自分のものを他人に使われたくない。(ここで私が賢治の「永訣の朝」において記述された一節、賢治と妹がそれぞれ愛用した茶わんの藍の模様の描写を想起したのは偶然ではない。日本ではその人が着るもの使うものには古来魂が付着することになっているのだ。)


…と言ったら、「心が狭いなあ。」と言われた。

そういう問題じゃないだろう。
衛生上、という気もせんでもないがそういうことでもない。

何だろう。

思うに、愛である。
大体だな、己の愛する妻を他人と共有できるか?他人が妻を我が物顔に使役したり犯したりすることを許せるか?

ということを考えたりしてて思ったんだけど。
自分、スプーンは嫌だけど恋人ならまだ人と共有できる、というようなことを。というか独占したいけどそれが無理というならば許容できる。全員仲良くそういう関係であることを承知の上で納得しそれぞれを尊重できるならそれでいい。その人との時間を大切にすることになんの変わりはない。そりゃとりあえず全然嬉しくないけど、それはただ不安だからということに過ぎない。

だけどスプーンを使われるのはイヤなのだ。

モノを愛することは自分に所属するものを愛することで自分の領域をまもり愛する、自分の延長、自分の世界と時間を愛することである。もしかして、人を独占し所有し隷属させ己の延長として愛したいという欲望の代替であるかもしれない。支配するという方向性、己だけを愛する者という保証を得たい、それによって安心したいという子供っぽい己のアイデンティティとテリトリイ、安全領域のまもりかた。

モノを愛するように己だけの救済の対象を求める。それは決して己を脅かす他の何かによって穢されてはならない。

何だろうな、こういうの。


 *** *** ***

 

そのために独占し支配する、エゴイスティックに対象の女性を愛するというテーマでは、例えば太宰の「人間失格」のエピソードのひとつのことを思い出す。

(実はちゃんと読んでいないんだが、TVの討論番組見て、あらすじだけ知っていて非常に気にかかったエピソードがあったのだ。ちゃんと読まねばならんのだが。)(そういえば自分、小学生の頃は、読みたくない課題図書はろくに読まずに当たり障りのない優等生な読書感想文を書くという犯罪的テクニックに長けていた。)(読みたくないときは仕方ないのだ小学生。)

ちゃんとテクストを読めば、ここでの主人公の感情、思考スタイルやテーマは全く違うところにあるんだけど、まあ一般的なシチュエーションとしての、「例えば」ね。

穢れた己を救ってくれる無邪気さと明るさ、清らかさを持った娘との、ひとときの幸せな結婚生活を得た主人公。
それを壊したのは、その妻を襲い強姦した暴漢、そして主人公がその現場を目撃してしまった事件による。

二匹の獣のようである、と主人公は罪もない被害者の妻を救うこともなくその現場をただ卑しいものとして傍観する。
「穢された妻」という感覚。

そして「穢された」というありもしない己の罪の意識に傷つき主人公にとっての聖性を失う妻。
何の罪もなく、暴力の被害者は社会的にセカンドレイプされるものとなる。

これ、スプーンで考えるとどうかなあということなんである。

スプーンに罪はない。
だが生理的嫌悪感を催すほどに大嫌いな人間が勝手に使ってしまったその現場を目撃したとする。

イヤである。

もう使いたくない。ガシガシ洗って消毒してもなんかイヤである。目撃してしまった風景はその存在にこびりついて、スプーンを使おうとするたびにいちいちよみがえってくる。思い出したくもない光景が。(あるいは薬液ではなく長い間日光消毒して、呪術的な意味を添加した禊というプロセスを経たら大丈夫かもしれない。「読み換え」「浄化」である。)


だがスプーンは泣く。彼女に罪はない。暴力的にただ穢されてしまったのだ。可哀想なスプーン。

だがイヤである。

…この辺だなあ。

 

癇癪を起こしてポイと捨ててしまうかもしれない。

二人して嘆き、スプーンが他人に穢されないようしっかりと注意し守るべきだった己がつい目を離してしまった落ち度を悔い謝り、二度とないことを誓う。キミに罪はない、穢れなどない。一層大切にする。
と、愛は深まる。こともあるかもしれない。

…が、いくらそうやって理性が教えても、以前と同じように愛することはできないかもしれない。
(できるかもしれない。)

この辺だなあ。

ウン。きっと。世間でのこういう事件にまつわるさまざまってさ。


 *** *** ***

 

で。

 

…人にはそれぞれの逆鱗というものがあるものだ。
ということで、私の場合、怒りに目がくらみ全身の血液が沸騰し闇夜に理性がぶっ飛び脳天ぶち抜け世界を滅ぼしたくなる瞬間というのは、

1.中近東のISとか、ムラ社会とかで、女性がものすごい理不尽な拷問を受けて人間扱いされず汚辱と苦悶の果てに殺されてる現実を認めねばならないとき。

2.自分のスプーンが勝手に触られたとき。


ではないかと思う。ウン。

和スイーツ

最近私の頭は甘いもののことばかり考えている。


各種クリームコテコテのパフェ(プリン入りなどであるとより一層望ましい。)(以前依怙地になって「パッフェ」と表記する店があって何となくよろしいこだわりであると思っていた。)やケーキ、さくさくナポレオンパイ(クラシックに苺とカスタードがよかろう)、とろりとチョコレートのかかったクリームエクレア、ふわっとさくっとしゅっと溶けるような卵色、しあわせのスフレパンケーキ、ぽってりやわらかい豆大福(つぶあん)、苺やチョコレートやチーズや栗やなんかのものすごくおいしそうないやものすごくおいしい夢のようなお菓子たち。

頭がいっぱいでほかのことを考える隙間がない。
どうかしている。

心身がどこかしら変調をきたしているのかもしれない。

 

…まあもともとパン屋や菓子屋は好きなんである。
店の前を通りがかるとその幸せの香り、その美麗なる飾り窓の前を無関心に素通りすることなど私にはできない。

で、いつものようにうっとりと(横目で)眺めて歩きすぎてから、ふと思った。
なんだこの「和スイーツ」って用語は。

和菓子と言えばよいではないか。

が、昨今の百花繚乱菓子業界、あらゆるタイプの創作菓子の咲き乱れるこの業界においては、和と洋を折衷した和素材洋菓子、洋素材和菓子が脚光を浴び、著しく発達した。そのため和と洋の境界線が曖昧となり、和素材を使用した洋菓子、和のイメージを持つ菓子をすべて和スイーツという一語で便利にくくる必要性が生まれた、といえばまあそういうことか、と頷ける。

またこれは古臭く地味で堅苦しいイメージの伝統和菓子に軽やかで華やかな流行やお洒落さ、モードを取り入れるための経済的戦略のための語でもある。

…市民権を得て久しい言葉である。スイーツ。
で、これは果たして日本語の「甘味」とどう重なりどう異なる言葉なのか。

語義通り受け取れば双方甘いもの、甘い菓子ということできちんと重なるはずの語である。


が、文化的背景から考えると微妙に違う気がする。

大福や団子(甘い小豆餡)は甘味と呼ばない、ということはないが、大体が茶屋で扱うべき和菓子であり、煎餅や甘辛団子等と共に「お茶請け」に分類される。菓子ではあるが普通一般に甘味とは呼ばれない。甘味処と呼ばれる専門店が扱うのは主としてあんみつ、みつまめ、ぜんざい、汁粉等の汁ものである。

そしてぜんざいやあんみつの事を普通あまり和菓子やお茶請けとは呼ばない、やはり甘味である。

これらすべてを和スイーツは一括する。白玉小豆抹茶ミルククリームあんみつも抹茶小豆ロールも栗羊羹も栗饅頭も(オレは栗が好きである。)卵と味醂、蜂蜜の滋味馥郁たる福砂屋のかすていら(父の好物である。)も等しく和スイーツなのだ。そしてそこで初めて華やかな一流パティシエの創作洋菓子と同じフィールドに立つ資格を得る。和菓子職人がパティシエに変貌する瞬間である。

またここで流行や創作、新しさや個性を競うフィールドにある単なる「和スイーツ」と「伝統和スイーツ」という峻別が生まれる。

和菓子職人かアートなパティエシエか。マイスターかアーティストか。或いはその双方の真髄とは果たしてなんなのか。伝統芸能における一見個性を圧殺したところからにじみ輝き出る個性と伝統の関係、創作という要素。アートという言葉はそこにどう関連してくるのか。

 

…とかなんとかいう問題意識はさておいて。

 

乙女の牙城とされ、スイーツ(笑)とその気取ったブランド虚栄を孕んだ商業主義に踊らされる愚かで浅薄な少女趣味を揶揄され蔑視され、スイーツ男子なるつまらない言葉が派生し、…求道としてのスイーツは商業主義に穢され貶められた。コンビニスイーツは高級菓子を模倣しその権威を借り、職人たちは大企業の資本に魂を売る。

しかしその結果としての大衆に手の届く甘い夢が実現し、街には麗しいスイーツが咲き乱れているのだ。甘いファンタジー。(昨今流通しているファンタジーというこの語にも個人的には忸怩たる思いがある。これはまた後日。)

 

…だからさ、何が言いたいんだ自分。(わからなくなった。)

ええと、そうだ、つまり言いたかったことはだな、死ぬ前に一度、こないだKITTEで行列してた千疋屋の限定苺のスペシャル苺パフェと資生堂パーラー無花果パフェと吉祥寺アテスウェイモンブランとHERBSの苺とチョコレートのケーキ(苺のチーズケーキでもいい)をだな…。

とかそういうことを思っていられれば、とりあえず今日を生きていける、ような気がするんである、ってことなんだよ、ウン。

酒と言葉

私にとってそれは、街の雑踏の無名性の中に解き放たれたとき、その圧倒的な幸福感の中に生まれるものだ。

出口を求めて魂から噴出して渦巻き泡立つ純粋な喜び、快楽、言葉の奔流。

 

そして私がそのわずかな一片を細々と紡ぎ出すことができるのは、アルコホルによってここから解放されるほんのひとときだけ、かもしれない。

 

見知らぬ懐かしい街の中を歩きながらずっと銀河鉄道の夜のことを考えていた。

桜の季節 安房直子「うぐいす」

毎朝、悪夢から絶望と共に目覚めるタイプである。
のっそりと日々を漕ぎ出す。浮上できればめっけもの。

 *** ***

だけど、今年もまたマンション中庭のソメイヨシノが開花した。
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少し嬉しくなる。世の中きちんと春がやってくるのだ。


で、隣町の図書館前の桜並木も気になったので、久しぶりに隣町図書館まで様子を見に行った。(秒読み状態だな。)

図書館の子供コーナーの新刊と特集をチェックする。
桜、春、花。

うむ。

大好きな安房直子さんの作品も数冊ピックアップされていた。

「うぐいす」
南塚直子さんのイラストとのコラボレーションでのこの絵本は珠玉である。

どんな話だっけ。と、ちょっと手に取ってみる。
「野ばらがにおう春の月夜でした。森の中の小さな病院に…」

 

最初の一文でもうやられる。私は救われてしまうことになる。

やっぱり安房直子さんは儂のバイブルだ。
(♪君は僕のホスピタル、僕のドラッグ、心を覚ましてくれる♪)(ムーンライダーズ「涙はかなしさだけでできてるんじゃない」)


なんなんだこの言葉の力は。

 *** ***

森の中の小さな病院。
年老いたお医者さんと奥さんの看護婦さん、そろそろくたびれすぎて、二人ではやっていけない、奥さんも病気になってしまった。
で、見習い看護婦を募集したら、やってきたのが小柄な娘さん。自分は以前、怪我をして飛び込んできたとき助けてもらったうぐいすだという。お礼にお手伝いにやってきたのだという。(シュークリームの箱に寝かせてもらったのでバニラエッセンスの香りがしたとかいうこういうとこがなんだかいいんだな。)

ここからの描写がいい。

あんまり小柄なので合う白衣がない。娘の薬草のスープで元気になった奥さんは、屋根裏のミシンをカタカタ動かしてぴったりの白衣を拵える。娘はよろこんでくるりとまわる。暗い病院の廊下にふわりと白い花が咲いたように明るくなる風景描写。楽し気にまめやかにはたらき、美しい歌を歌う。患者さんも元気になる。年老いた夫婦に可愛い愛娘ができたような幸福な日々。

(毎頁を彩る南塚直子さんの挿絵が本当に柔らかく優しく美しいのだ。)

展開は、娘の恋だ。恋の季節、雄のうぐいすが娘を呼ぶように歌うようになる。
恋の病。娘は弱ってしまい、ある日ついに出て行ってしまう。

祝福するが、ぽっかりと胸に寂しいがらんどうをかかえた医師夫妻。

…そしてね、ラストがいい。
次の年の春。娘にそっくりの娘たちが五人、またやってくる。卵が五つ、孵ったんだね。ひな鳥たち。

毎年うぐいすの看護婦さんがやってくる森の病院なのだ。

 *** ***

毎年、桜が咲くというだけでこんなにも人々が騒ぐ国のことが私は好きだ。
桜菓子が出回るのも嬉しい。桜餅とかうぐいす餅とか桜餅ロールとか桜ムースとか。

できたらまた実家の隣町の柳瀬川沿いの桜並木や国立の大学通りの桜を見に行こう。井の頭公園の桜、善福寺川の桜。(いつかどこかで見た、夢のような桜のトンネルどこだったかなあ。もう一度あれをくぐってみたい。確か誰かにドライブで連れて行ってもらったのだ。)はらはらと桜吹雪浴びて木の下に埋まっている死体について少し考えたりしてみよう。

村上春樹「騎士団長殺し」

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…先週だったかな。深夜、泥酔状態で(いつもだ。)「騎士団長殺し」読み終えた。
で、その夜、寝ながらあれこれ考えていた。

さくっと言ってしまうとあんまりおもしろくなかった。
が、いざこう言ってしまうとやっぱりおもしろくないわけではなかった、とも言わなくてはならない気がする。

要するに消化不良なんだが、ねじまき鳥とか1Q84みたいな力技の激烈な物語の面白さ、精密に構築されたテクスト構造の洗練。そういう要素に欠けている。ひたすら理屈っぽい。ひとつひとつは興味深い要素のモチーフのさまざまをてんでんに投げ出している印象。

もともとこういう傾向を持っている作家であり、そこが絶妙のテクストの揺らぎと深みとダイナミクスをつくりだす技でもあるんだけど、ちょっとこれはバランスが悪いのではないか。

う~ん。というか、激越な思いの熱さ、感情や問題意識を冷静な論理や理屈や淡々とした気取りでカヴァーしている感じが透けて見えるのが魅力なんだけどな、この人。そのキモである「熱さ」「痛み」が今ひとつ重みを以て伝わってこない。心が共振しない。それぞれの最初は雑多なように見えていた数々のモチーフが、その熱さのエネルギーによって物語の流れの中で収斂していく、というあの魅惑、あの感動、あの物語のエキサイティングな面白さがない。理屈で盛りすぎの印象を与えてしまう。


…ということで、(というか単に気力能力の低下のせいかもしれないけど)感想を書く気にもなれなかったんだけど、一応せっかく読んだんだしね、備忘録の意味をこめてメモ的に書いておこうかと。

 

とりあえず、前提メモ。作品中の「女性」モチーフについて。
(メモなので飛ばし読みしてください。)

 *** ***

(人生の、心身共に分かち合う唯一のパートナー「妻」、喪失、失われたものを示す「妹」(コミチ)、そして、性的パートナーとしてというよりは、その具体を超えた、より霊的な意味を色濃く持つ、第三の女性、「少女」(秋川まりえ)。(1Q84のふかえり、ねじまき鳥の笠原メイ等に共通する少女巫女的なイメージを持つ(一般社会に適合していない身勝手なアドレッセンス)。)

(共通するのは、美しい愛しい大切な異性のイメージ、よきもの大切なもの永遠に不可知な神秘なものとしての女性一般の象徴としてののモチーフ。)(この三人がさまざまのペルソナをまとった三位一体となって、すべての女性というイデアを示しだしている。)

 

(これは「騎士団長」としてあらわれた、集合的無意識界に通ずる権力に結び付いたイメージを持つ「イデア」とはまったく異なる。寧ろその対極をなすものとしての、極めて個的に守られたところにある常に純粋で透明なイデアである。)

ちょっと泉鏡花「由縁の女」の女性たちの構図を思い出した。主人公由縁の女たち。そのすべてがそれぞれの魅力と美しさをもち主人公を愛するが、道行きのなか彼女らとの関わりをめぐりながら主人公が行きつくのは、彼にとっての女性のイデア、永遠の女神、ファムファタルとしてのお楊さんであった。

春樹作品も、女性遍歴に関して言えば、このような構造を持っているのかもしれない。過剰な性描写のこだわりは、他者との肉体と精神の接点のありかたをあえて露骨な比喩表現で示していると考えることもできるからだ。様々な女性との関わりを経て、妻、永遠に追い求め続ける究極の他者としてのパートナーへ行きつこうとする物語のひとつの流れ。

 *** ***

さてさて。

この作品、参考に、ちらっとAmazonでの書評を覗いたら、辛口の評価の中に、さもありなんというのも多かったですな。

う~ん。そうだよなあ無理ないよなあそう思うの、って思ったり。

 

…で、でもさ。ふと心づいたんである。これは、この巨匠が今更この不器量さを感じさせるこの作品は、もしや。

いびつで中途半端で作品としての開発途上性を確信犯的に(意図的に)提示しているのではないか。

画家である主人公が、未完成であることを、今は描き上げてはならない絵のことに固執している、このモチーフは作品自体の「今途上にあることの正しさ」に重なっているようにも思えるのだ。そう考えるとこれはちょっとおもしろいかもしれない。(単品としては評価できないものだとしても、春樹文学研究の一環として、この先の彼の作品傾向を想定するという仮定の上で。)

作品のあらゆる場所で示されているサインがある。
「時間を味方につける」
「今完成させてはいけない(できるという確信はあっても)」
「言葉や概念ではなく、フォルムとしてのそのものを取り出す」

そして、結局は、概念としてのイデア界、非日常的な幻想や芸術家や免色などの特殊な生活をする人々の世界ではなく、意味を保留した非常に庶民的な(人生をかけた仕事としての、芸術を追う絵画を保留し、生活のための肖像画をテクニックとして量産し続ける生活という)現実界の日常に回帰することにこだわってゆく。

究極の女性としてすべての「女性というイデア」の要素を秘めた妻を取り戻すことの意味が逆説的にここに帰着してゆく、その決意のようなものが作品の取りあえずの結末である。

(けれど、最後の最後に、未来と可能性を秘めた不可思議の結果(夢の中での性交による妊娠)の娘にイデア(騎士団長)の存在を「本当にいたんだよ」と教え込んでゆく。これもまた決意である。あの非日常の日々を決して否定しない。抱え込んだまま、敢えて保留しているのだ、という意思表示である。)(これは、日常というものの非日常性、すなわち日常から逸脱した冒険から回帰して、その過程を経て初めて得られる、読み直され、止揚された形での新しい日常を意味している。)

 *** ***

モチーフの面から言えば、イデアとメタファーの奇妙なキャラクターとしての擬人化。(騎士団長と顔なが)これも試み、冒険だ。

また、今まで、謎めかしておくことで神秘のヴェールをかぶせていた「ムコウガワの闇」に、何らかの形を与えてみる試みのひとつとして、あえて陳腐さをまとわせるというテクニックを試している。

この試みは随所に見受けられる。

非難の対象とされてきたタカビーな気取りにあえて俗っぽさを添加するような。例えば、完璧な免色がゴミ捨てをする姿の発想、免色の贅を尽くした住まいや一流のフランス料理と主人公がスーパーマーケットで選ぶ食品、クラッカーにケチャップをつけて飢えをしのぐシーン(今までの春樹作品ではありえなかった)、銀色のジャガーと白いスバル、中古のトヨタカローラワゴン、巫女的な少女の持つショップの景品のプラスティックのペンギンの携帯ストラップ。そして、主人公が妻を取り戻し子を持つ、というラストの設定。

 *** ***

まあね、とりあえずとにかく今までの村上作品に現れてきたモチーフ、節操がないほどに総出演てんこ盛りだ。

理由もなく妻に捨てられる主人公、井戸の底に閉じ込められる恐怖、身体の組成を支配する水(ねじまき鳥)、害をなすものとしての旅先の謎の男女(「女のいない男たち」の「木野」を思いおこさせる。)、妻の病としての浮気、面食い欲望(「女のいない男たち」「独立機関」の「ヤツメウナギ的思考」のなかにいる女性の論理を超えた病としての欲望)己の内部に潜む闇、現世で力をふるう宗教団体。戦争の傷跡、その暴力の残虐な描写。それによって「損なわれたもの」が残されたものの闇と傷あととなって、物語を動かしてゆく。異界にある大いなる謎の力、謎の存在、そこからしみだして形象化してくるようなリトルピープル(「1Q84」)的存在。時空の論理を超えた異界、その夢の中の性交によって現実に妊娠する女性。

 

だが、繰り返す。

ここでは、今までのそれら「春樹モチーフ」を非常に不器用な、乱暴なやり方でごたまぜに扱っているような印象を受けるのだ。今までの作品よりもすべての結びつきが論理ではなく直観(異界的なるもの)に支配される割合が異様に高い。いわゆるシンクロニシティの重なり。

言ってしまえば展開がイージーである。よくわからないけど都合よくメッセージがあって、異界での冒険と試練があって、そこで主人公の心は内面を見つめ未来を思い、そこを乗り越えて帰還すると現実界での問題は既に解決し、生まれ変わった新しい世界となっている。まるで銀河鉄道の夜のジョバンニだ。

それ自体善でも悪でもないイデア。(この意味は非常につかみにくい。が、一貫して春樹作品に見え隠れするモチーフだ。)(羊をめぐる冒険やねじまき鳥、1Q84では戦争を生み出す権力やそれと結びついた新興宗教的なるもの「悪」の顔をしたもの)(要するに現世のイデオロギー的なるものに繋がる。)

これの形象化した存在(騎士団長)を殺害することによって、メタファ(顔なが)が現れ、メタファの発生する源泉、隠蔽された無意識界、意識・観念以前の有と無の狭間の観念世界に入る手立てを得る。(失われた少女を再び見出すため。)ここで主人公は、いわば、意識をもって意識を超えようとする。その矛盾を超えようとする。(無意識界に接しているために必然的に意識崩壊の危機を孕みながらの冒険になっている。)

絵画を描くときの、概念的な意味を超えて本質を、そのものを掴み描き出そうとする主人公の葛藤をこの冒険はなぞっているようにも思える。概念化してしまうイデアを超え、その先の本質へ。

(これは、以前のここでの記事「散文と詩歌」でエンデ「果てしない物語」で述べた知と芸術と個に関する記述をもまたなぞっているものである。「全知の声の存在ウユララに行きつくための三つの関門、その最後の門を通る条件が「何も望まない」「知ることをも望まない」ことであり、ファンタージェンを救うための知を得ようとするアトレーユがそれを望まないために記憶を失った状態になる、個を放棄することによってそれが成就する、というエピソードはこの意味で非常に示唆的である。」)

 

そして、総括としてこれはそれらすべての問いと答えへの絶えざる欲動を絵画と音楽の中に封じ込め、また個と時代を超えてそれを見出しつづけようとする、その可能性を示し出す主張である、と。

 

これは、限られた論理としての構築物ではなく、投げ出されたかたちでの異界とのメディア、野生の思考を呼び出す記号としての芸術論の試みなのかもしれない。

 *** ***

…ファーストインプレッション、こういう感じかなあ。春樹の作品史において、何かの転回点であることは間違いないような気がする。

とりあえず相変わらず激しい春樹節な文体であることは、確かです。単品としては、特に入門としては、絶対にお勧めできない、ということだけは言っておこう。

阿佐ヶ谷住宅

おうちの中より外のがあったかい。春ぼらけな青空の日曜日。

どうして春の空はぼんやりくすんでるんだろう。(花粉やなんとかガスでないといいんだけど。)などとぼんやり懐かしい街の風景の中をゆく。キセルを聴きながら歩く。

杉並高校から吹奏楽部が練習している音が聞こえる。いろんな楽器たちを音楽室のあちこちでてんでんに練習する、あの懐かしい無秩序な音たちが。(嘗てあの空間の中に私はいた。)


…そして、視界にこの美麗な高級住宅街の風景が入ってきた瞬間、私は正直かなりショックを受けたんである。

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夢を見ているのではないかと思った。目が覚めたら高校の教室で居眠りから覚めた午後の授業なのではないかと。

阿佐ヶ谷住宅がさあ、すんごい立派になっちゃった夢見てたよ。」と笑って話す。

 

オレの愛した阿佐ヶ谷住宅よ、おまえはこんな風な陰りのない瀟洒な高級マンション群にされてはいけなかったのだ。おまえは何を売ってこんな風な隙のない整形美女に変形されてしまったのか。

計算されデザインされきっちりと管理された植え込み、文句のつけようのない住み心地、夜はしっかりと門を閉ざされるセキュリティ。

すきま風も雨漏りも鼠もゴキブリもない空調ばっちり快適な住まい。

 

ブルドーザーでつぶされたのは昔の夢。

大好きだった、あの風景。憧れだった。うっそうと茂った植物とほどよく共生する小さなおうちたちの群れ。昭和に見られた夢。

高校をさぼって友人と待ち合わせ、キンモクセイの木の下でお弁当、夜中にぶらんこ漕ぎながら語り合った高校の日々。あんな隙間はもうここには存在しえないのだ。

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(これは2004年の阿佐ヶ谷住宅。)

 

仕方がないのだ。わかっている。
でも、だめなのだ。永遠に愛してる、あのときのままのあの風景を。あのユルさのあった時代を。

仕方がないのだ。わかっている。時の流れはただ淡々としてときに残酷で。

次々と新しい命が生まれ育ち動いてゆく。

古びたものはトコロテンのように新しいものに押し出されて否応なくこの世の外側に排除されてゆく。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」諸行無常

 

でも、だめなのだ。一旦愛したものは一旦愛したという事実は永遠なのだ。

 

だから人は写真を撮りたがる。うつろいやすい心にそのよすがを残すために。

カメラのない時代には、物語をつくり詩にうたい音楽を拵え絵画として描きとった。その気持ちを。(愛だな、愛。)

 

どんなかたちでも、己が、己が愛したものが存在したという証明を欲しがる、残したがる。


いつでもそれが確かにあったのだということを証明するために、イマココに「現在」するものとしてよみがえらせるための、そのような「神話の時空」を創出するためのよすがを残したがる。

新しいものはいつでもその時代に合致してその時代の生活の必要に応じて生まれ、否応なく古いものを駆逐する。今必要な、今を生き輝くものが古びたものを押し流して行くのは必然で、そして正しい。年寄りは若者に取って代わられてゆくべきだ。

だが本当はどちらが正しい、というわけではない。その時の正しさは相対的なものであり、移り変わる儚いものだ。だが一旦存在した以上、そのすべての存在は存在として否定されるべきものではない。一度生まれたひとりの人間の人生が歴史の中で丸ごと否定されるべきでないように。

時空の新旧が無意味になる神話的時空はアボリジニたちのいうドリーム・タイムとして秩序ある世界を成り立たせるマトリックスを形成している。

よりよく進化発展して知性がより高いものとして深まってゆくのではなく、ただそれは変化しているに過ぎない。昔の人より今の人の方が賢い、なんてことは全然ない。愚人も賢人もいつも同じレヴェルで愚かしくまた賢く存在している。(だけどそれでも人類の知は文明は進化発展しているのだ、ということもまた否定はできないのだ。始まりから終わりへ、それは必然の流れだ、というただそれだけのことだ。)(創世から終末まで、すべては既に決まっている、とバイブルやコーランは語っている。)

温故知新とはよく言った。残された証明の中には、そのカルチャーの具現したものの端々には、その時代のその時空のまるごとが、そのエートスが知の形として残されている。そのときはそれを否定することでしか進化発展できなかったとしても。

或いは、それは、(漱石が文学論で主張したF+f(フォーカス、概念とそこに付随するフィーリング、感情)の構造を踏襲していうならば)愛を付着させた知の形。それは、いうなれば、生命(意味あるもの)としての世界そのもの。

文化遺産などという日常の実生活においてなんの経済的な益もない「スタイル」が、個人の、地域の、国家の、民族のアイデンティティ、魂の容れ物として大切に保護されることの意味はこれと同じ構造をもっている。それが極度に洗練された芸術としての芸能や磨き抜かれた職人技や天才による美的芸術としての権威を帯びたものではなくても。

 

 ***

 

善福寺川沿いの風景はあの頃と同じだったよ。


あの頃重ねた思いをたっぷりしみこませたまま、今年もまた桜の季節はやってくる。鮮やかなピンクの桜が、既にほろほろと咲き始めていた。サトザクラ「陽光」という名札。この木が満開になるとものすごい華やかさなのだ。

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ソメイヨシノはまだもうちょっと先だな。このひこばえが可愛いんだよね。

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