酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

酒と言葉

私にとってそれは、街の雑踏の無名性の中に解き放たれたとき、その圧倒的な幸福感の中に生まれるものだ。

出口を求めて魂から噴出して渦巻き泡立つ純粋な喜び、快楽、言葉の奔流。

 

そして私がそのわずかな一片を細々と紡ぎ出すことができるのは、アルコホルによってここから解放されるほんのひとときだけ、かもしれない。

 

見知らぬ懐かしい街の中を歩きながらずっと銀河鉄道の夜のことを考えていた。

桜の季節 安房直子「うぐいす」

毎朝、悪夢から絶望と共に目覚めるタイプである。
のっそりと日々を漕ぎ出す。浮上できればめっけもの。

 *** ***

だけど、今年もまたマンション中庭のソメイヨシノが開花した。
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少し嬉しくなる。世の中きちんと春がやってくるのだ。


で、隣町の図書館前の桜並木も気になったので、久しぶりに隣町図書館まで様子を見に行った。(秒読み状態だな。)

図書館の子供コーナーの新刊と特集をチェックする。
桜、春、花。

うむ。

大好きな安房直子さんの作品も数冊ピックアップされていた。

「うぐいす」
南塚直子さんのイラストとのコラボレーションでのこの絵本は珠玉である。

どんな話だっけ。と、ちょっと手に取ってみる。
「野ばらがにおう春の月夜でした。森の中の小さな病院に…」

 

最初の一文でもうやられる。私は救われてしまうことになる。

やっぱり安房直子さんは儂のバイブルだ。
(♪君は僕のホスピタル、僕のドラッグ、心を覚ましてくれる♪)(ムーンライダーズ「涙はかなしさだけでできてるんじゃない」)


なんなんだこの言葉の力は。

 *** ***

森の中の小さな病院。
年老いたお医者さんと奥さんの看護婦さん、そろそろくたびれすぎて、二人ではやっていけない、奥さんも病気になってしまった。
で、見習い看護婦を募集したら、やってきたのが小柄な娘さん。自分は以前、怪我をして飛び込んできたとき助けてもらったうぐいすだという。お礼にお手伝いにやってきたのだという。(シュークリームの箱に寝かせてもらったのでバニラエッセンスの香りがしたとかいうこういうとこがなんだかいいんだな。)

ここからの描写がいい。

あんまり小柄なので合う白衣がない。娘の薬草のスープで元気になった奥さんは、屋根裏のミシンをカタカタ動かしてぴったりの白衣を拵える。娘はよろこんでくるりとまわる。暗い病院の廊下にふわりと白い花が咲いたように明るくなる風景描写。楽し気にまめやかにはたらき、美しい歌を歌う。患者さんも元気になる。年老いた夫婦に可愛い愛娘ができたような幸福な日々。

(毎頁を彩る南塚直子さんの挿絵が本当に柔らかく優しく美しいのだ。)

展開は、娘の恋だ。恋の季節、雄のうぐいすが娘を呼ぶように歌うようになる。
恋の病。娘は弱ってしまい、ある日ついに出て行ってしまう。

祝福するが、ぽっかりと胸に寂しいがらんどうをかかえた医師夫妻。

…そしてね、ラストがいい。
次の年の春。娘にそっくりの娘たちが五人、またやってくる。卵が五つ、孵ったんだね。ひな鳥たち。

毎年うぐいすの看護婦さんがやってくる森の病院なのだ。

 *** ***

毎年、桜が咲くというだけでこんなにも人々が騒ぐ国のことが私は好きだ。
桜菓子が出回るのも嬉しい。桜餅とかうぐいす餅とか桜餅ロールとか桜ムースとか。

できたらまた実家の隣町の柳瀬川沿いの桜並木や国立の大学通りの桜を見に行こう。井の頭公園の桜、善福寺川の桜。(いつかどこかで見た、夢のような桜のトンネルどこだったかなあ。もう一度あれをくぐってみたい。確か誰かにドライブで連れて行ってもらったのだ。)はらはらと桜吹雪浴びて木の下に埋まっている死体について少し考えたりしてみよう。

村上春樹「騎士団長殺し」

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…先週だったかな。深夜、泥酔状態で(いつもだ。)「騎士団長殺し」読み終えた。
で、その夜、寝ながらあれこれ考えていた。

さくっと言ってしまうとあんまりおもしろくなかった。
が、いざこう言ってしまうとやっぱりおもしろくないわけではなかった、とも言わなくてはならない気がする。

要するに消化不良なんだが、ねじまき鳥とか1Q84みたいな力技の激烈な物語の面白さ、精密に構築されたテクスト構造の洗練。そういう要素に欠けている。ひたすら理屈っぽい。ひとつひとつは興味深い要素のモチーフのさまざまをてんでんに投げ出している印象。

もともとこういう傾向を持っている作家であり、そこが絶妙のテクストの揺らぎと深みとダイナミクスをつくりだす技でもあるんだけど、ちょっとこれはバランスが悪いのではないか。

う~ん。というか、激越な思いの熱さ、感情や問題意識を冷静な論理や理屈や淡々とした気取りでカヴァーしている感じが透けて見えるのが魅力なんだけどな、この人。そのキモである「熱さ」「痛み」が今ひとつ重みを以て伝わってこない。心が共振しない。それぞれの最初は雑多なように見えていた数々のモチーフが、その熱さのエネルギーによって物語の流れの中で収斂していく、というあの魅惑、あの感動、あの物語のエキサイティングな面白さがない。理屈で盛りすぎの印象を与えてしまう。


…ということで、(というか単に気力能力の低下のせいかもしれないけど)感想を書く気にもなれなかったんだけど、一応せっかく読んだんだしね、備忘録の意味をこめてメモ的に書いておこうかと。

 

とりあえず、前提メモ。作品中の「女性」モチーフについて。
(メモなので飛ばし読みしてください。)

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(人生の、心身共に分かち合う唯一のパートナー「妻」、喪失、失われたものを示す「妹」(コミチ)、そして、性的パートナーとしてというよりは、その具体を超えた、より霊的な意味を色濃く持つ、第三の女性、「少女」(秋川まりえ)。(1Q84のふかえり、ねじまき鳥の笠原メイ等に共通する少女巫女的なイメージを持つ(一般社会に適合していない身勝手なアドレッセンス)。)

(共通するのは、美しい愛しい大切な異性のイメージ、よきもの大切なもの永遠に不可知な神秘なものとしての女性一般の象徴としてののモチーフ。)(この三人がさまざまのペルソナをまとった三位一体となって、すべての女性というイデアを示しだしている。)

 

(これは「騎士団長」としてあらわれた、集合的無意識界に通ずる権力に結び付いたイメージを持つ「イデア」とはまったく異なる。寧ろその対極をなすものとしての、極めて個的に守られたところにある常に純粋で透明なイデアである。)

ちょっと泉鏡花「由縁の女」の女性たちの構図を思い出した。主人公由縁の女たち。そのすべてがそれぞれの魅力と美しさをもち主人公を愛するが、道行きのなか彼女らとの関わりをめぐりながら主人公が行きつくのは、彼にとっての女性のイデア、永遠の女神、ファムファタルとしてのお楊さんであった。

春樹作品も、女性遍歴に関して言えば、このような構造を持っているのかもしれない。過剰な性描写のこだわりは、他者との肉体と精神の接点のありかたをあえて露骨な比喩表現で示していると考えることもできるからだ。様々な女性との関わりを経て、妻、永遠に追い求め続ける究極の他者としてのパートナーへ行きつこうとする物語のひとつの流れ。

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さてさて。

この作品、参考に、ちらっとAmazonでの書評を覗いたら、辛口の評価の中に、さもありなんというのも多かったですな。

う~ん。そうだよなあ無理ないよなあそう思うの、って思ったり。

 

…で、でもさ。ふと心づいたんである。これは、この巨匠が今更この不器量さを感じさせるこの作品は、もしや。

いびつで中途半端で作品としての開発途上性を確信犯的に(意図的に)提示しているのではないか。

画家である主人公が、未完成であることを、今は描き上げてはならない絵のことに固執している、このモチーフは作品自体の「今途上にあることの正しさ」に重なっているようにも思えるのだ。そう考えるとこれはちょっとおもしろいかもしれない。(単品としては評価できないものだとしても、春樹文学研究の一環として、この先の彼の作品傾向を想定するという仮定の上で。)

作品のあらゆる場所で示されているサインがある。
「時間を味方につける」
「今完成させてはいけない(できるという確信はあっても)」
「言葉や概念ではなく、フォルムとしてのそのものを取り出す」

そして、結局は、概念としてのイデア界、非日常的な幻想や芸術家や免色などの特殊な生活をする人々の世界ではなく、意味を保留した非常に庶民的な(人生をかけた仕事としての、芸術を追う絵画を保留し、生活のための肖像画をテクニックとして量産し続ける生活という)現実界の日常に回帰することにこだわってゆく。

究極の女性としてすべての「女性というイデア」の要素を秘めた妻を取り戻すことの意味が逆説的にここに帰着してゆく、その決意のようなものが作品の取りあえずの結末である。

(けれど、最後の最後に、未来と可能性を秘めた不可思議の結果(夢の中での性交による妊娠)の娘にイデア(騎士団長)の存在を「本当にいたんだよ」と教え込んでゆく。これもまた決意である。あの非日常の日々を決して否定しない。抱え込んだまま、敢えて保留しているのだ、という意思表示である。)(これは、日常というものの非日常性、すなわち日常から逸脱した冒険から回帰して、その過程を経て初めて得られる、読み直され、止揚された形での新しい日常を意味している。)

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モチーフの面から言えば、イデアとメタファーの奇妙なキャラクターとしての擬人化。(騎士団長と顔なが)これも試み、冒険だ。

また、今まで、謎めかしておくことで神秘のヴェールをかぶせていた「ムコウガワの闇」に、何らかの形を与えてみる試みのひとつとして、あえて陳腐さをまとわせるというテクニックを試している。

この試みは随所に見受けられる。

非難の対象とされてきたタカビーな気取りにあえて俗っぽさを添加するような。例えば、完璧な免色がゴミ捨てをする姿の発想、免色の贅を尽くした住まいや一流のフランス料理と主人公がスーパーマーケットで選ぶ食品、クラッカーにケチャップをつけて飢えをしのぐシーン(今までの春樹作品ではありえなかった)、銀色のジャガーと白いスバル、中古のトヨタカローラワゴン、巫女的な少女の持つショップの景品のプラスティックのペンギンの携帯ストラップ。そして、主人公が妻を取り戻し子を持つ、というラストの設定。

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まあね、とりあえずとにかく今までの村上作品に現れてきたモチーフ、節操がないほどに総出演てんこ盛りだ。

理由もなく妻に捨てられる主人公、井戸の底に閉じ込められる恐怖、身体の組成を支配する水(ねじまき鳥)、害をなすものとしての旅先の謎の男女(「女のいない男たち」の「木野」を思いおこさせる。)、妻の病としての浮気、面食い欲望(「女のいない男たち」「独立機関」の「ヤツメウナギ的思考」のなかにいる女性の論理を超えた病としての欲望)己の内部に潜む闇、現世で力をふるう宗教団体。戦争の傷跡、その暴力の残虐な描写。それによって「損なわれたもの」が残されたものの闇と傷あととなって、物語を動かしてゆく。異界にある大いなる謎の力、謎の存在、そこからしみだして形象化してくるようなリトルピープル(「1Q84」)的存在。時空の論理を超えた異界、その夢の中の性交によって現実に妊娠する女性。

 

だが、繰り返す。

ここでは、今までのそれら「春樹モチーフ」を非常に不器用な、乱暴なやり方でごたまぜに扱っているような印象を受けるのだ。今までの作品よりもすべての結びつきが論理ではなく直観(異界的なるもの)に支配される割合が異様に高い。いわゆるシンクロニシティの重なり。

言ってしまえば展開がイージーである。よくわからないけど都合よくメッセージがあって、異界での冒険と試練があって、そこで主人公の心は内面を見つめ未来を思い、そこを乗り越えて帰還すると現実界での問題は既に解決し、生まれ変わった新しい世界となっている。まるで銀河鉄道の夜のジョバンニだ。

それ自体善でも悪でもないイデア。(この意味は非常につかみにくい。が、一貫して春樹作品に見え隠れするモチーフだ。)(羊をめぐる冒険やねじまき鳥、1Q84では戦争を生み出す権力やそれと結びついた新興宗教的なるもの「悪」の顔をしたもの)(要するに現世のイデオロギー的なるものに繋がる。)

これの形象化した存在(騎士団長)を殺害することによって、メタファ(顔なが)が現れ、メタファの発生する源泉、隠蔽された無意識界、意識・観念以前の有と無の狭間の観念世界に入る手立てを得る。(失われた少女を再び見出すため。)ここで主人公は、いわば、意識をもって意識を超えようとする。その矛盾を超えようとする。(無意識界に接しているために必然的に意識崩壊の危機を孕みながらの冒険になっている。)

絵画を描くときの、概念的な意味を超えて本質を、そのものを掴み描き出そうとする主人公の葛藤をこの冒険はなぞっているようにも思える。概念化してしまうイデアを超え、その先の本質へ。

(これは、以前のここでの記事「散文と詩歌」でエンデ「果てしない物語」で述べた知と芸術と個に関する記述をもまたなぞっているものである。「全知の声の存在ウユララに行きつくための三つの関門、その最後の門を通る条件が「何も望まない」「知ることをも望まない」ことであり、ファンタージェンを救うための知を得ようとするアトレーユがそれを望まないために記憶を失った状態になる、個を放棄することによってそれが成就する、というエピソードはこの意味で非常に示唆的である。」)

 

そして、総括としてこれはそれらすべての問いと答えへの絶えざる欲動を絵画と音楽の中に封じ込め、また個と時代を超えてそれを見出しつづけようとする、その可能性を示し出す主張である、と。

 

これは、限られた論理としての構築物ではなく、投げ出されたかたちでの異界とのメディア、野生の思考を呼び出す記号としての芸術論の試みなのかもしれない。

 *** ***

…ファーストインプレッション、こういう感じかなあ。春樹の作品史において、何かの転回点であることは間違いないような気がする。

とりあえず相変わらず激しい春樹節な文体であることは、確かです。単品としては、特に入門としては、絶対にお勧めできない、ということだけは言っておこう。

阿佐ヶ谷住宅

おうちの中より外のがあったかい。春ぼらけな青空の日曜日。

どうして春の空はぼんやりくすんでるんだろう。(花粉やなんとかガスでないといいんだけど。)などとぼんやり懐かしい街の風景の中をゆく。キセルを聴きながら歩く。

杉並高校から吹奏楽部が練習している音が聞こえる。いろんな楽器たちを音楽室のあちこちでてんでんに練習する、あの懐かしい無秩序な音たちが。(嘗てあの空間の中に私はいた。)


…そして、視界にこの美麗な高級住宅街の風景が入ってきた瞬間、私は正直かなりショックを受けたんである。

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夢を見ているのではないかと思った。目が覚めたら高校の教室で居眠りから覚めた午後の授業なのではないかと。

阿佐ヶ谷住宅がさあ、すんごい立派になっちゃった夢見てたよ。」と笑って話す。

 

オレの愛した阿佐ヶ谷住宅よ、おまえはこんな風な陰りのない瀟洒な高級マンション群にされてはいけなかったのだ。おまえは何を売ってこんな風な隙のない整形美女に変形されてしまったのか。

計算されデザインされきっちりと管理された植え込み、文句のつけようのない住み心地、夜はしっかりと門を閉ざされるセキュリティ。

すきま風も雨漏りも鼠もゴキブリもない空調ばっちり快適な住まい。

 

ブルドーザーでつぶされたのは昔の夢。

大好きだった、あの風景。憧れだった。うっそうと茂った植物とほどよく共生する小さなおうちたちの群れ。昭和に見られた夢。

高校をさぼって友人と待ち合わせ、キンモクセイの木の下でお弁当、夜中にぶらんこ漕ぎながら語り合った高校の日々。あんな隙間はもうここには存在しえないのだ。

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(これは2004年の阿佐ヶ谷住宅。)

 

仕方がないのだ。わかっている。
でも、だめなのだ。永遠に愛してる、あのときのままのあの風景を。あのユルさのあった時代を。

仕方がないのだ。わかっている。時の流れはただ淡々としてときに残酷で。

次々と新しい命が生まれ育ち動いてゆく。

古びたものはトコロテンのように新しいものに押し出されて否応なくこの世の外側に排除されてゆく。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」諸行無常

 

でも、だめなのだ。一旦愛したものは一旦愛したという事実は永遠なのだ。

 

だから人は写真を撮りたがる。うつろいやすい心にそのよすがを残すために。

カメラのない時代には、物語をつくり詩にうたい音楽を拵え絵画として描きとった。その気持ちを。(愛だな、愛。)

 

どんなかたちでも、己が、己が愛したものが存在したという証明を欲しがる、残したがる。


いつでもそれが確かにあったのだということを証明するために、イマココに「現在」するものとしてよみがえらせるための、そのような「神話の時空」を創出するためのよすがを残したがる。

新しいものはいつでもその時代に合致してその時代の生活の必要に応じて生まれ、否応なく古いものを駆逐する。今必要な、今を生き輝くものが古びたものを押し流して行くのは必然で、そして正しい。年寄りは若者に取って代わられてゆくべきだ。

だが本当はどちらが正しい、というわけではない。その時の正しさは相対的なものであり、移り変わる儚いものだ。だが一旦存在した以上、そのすべての存在は存在として否定されるべきものではない。一度生まれたひとりの人間の人生が歴史の中で丸ごと否定されるべきでないように。

時空の新旧が無意味になる神話的時空はアボリジニたちのいうドリーム・タイムとして秩序ある世界を成り立たせるマトリックスを形成している。

よりよく進化発展して知性がより高いものとして深まってゆくのではなく、ただそれは変化しているに過ぎない。昔の人より今の人の方が賢い、なんてことは全然ない。愚人も賢人もいつも同じレヴェルで愚かしくまた賢く存在している。(だけどそれでも人類の知は文明は進化発展しているのだ、ということもまた否定はできないのだ。始まりから終わりへ、それは必然の流れだ、というただそれだけのことだ。)(創世から終末まで、すべては既に決まっている、とバイブルやコーランは語っている。)

温故知新とはよく言った。残された証明の中には、そのカルチャーの具現したものの端々には、その時代のその時空のまるごとが、そのエートスが知の形として残されている。そのときはそれを否定することでしか進化発展できなかったとしても。

或いは、それは、(漱石が文学論で主張したF+f(フォーカス、概念とそこに付随するフィーリング、感情)の構造を踏襲していうならば)愛を付着させた知の形。それは、いうなれば、生命(意味あるもの)としての世界そのもの。

文化遺産などという日常の実生活においてなんの経済的な益もない「スタイル」が、個人の、地域の、国家の、民族のアイデンティティ、魂の容れ物として大切に保護されることの意味はこれと同じ構造をもっている。それが極度に洗練された芸術としての芸能や磨き抜かれた職人技や天才による美的芸術としての権威を帯びたものではなくても。

 

 ***

 

善福寺川沿いの風景はあの頃と同じだったよ。


あの頃重ねた思いをたっぷりしみこませたまま、今年もまた桜の季節はやってくる。鮮やかなピンクの桜が、既にほろほろと咲き始めていた。サトザクラ「陽光」という名札。この木が満開になるとものすごい華やかさなのだ。

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ソメイヨシノはまだもうちょっと先だな。このひこばえが可愛いんだよね。

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追記・三好達治

これの続きである。

もちろんこの風景に意味を付加していってもよい。風景は、或いはイコンは、ただそのものであると同時にさまざまの意味の表徴であってもよいからだ。

ほのぼのと茜さす、百の梅の蕾。
そのたおやかな美しさ。

立ち昇る幻か、その記憶の風景と現実の春とは混じりあいその区別を無意味なものとする。

嘗て現実にあった出来事が、現実としては二度と還らないものとなり、…そのリアリティは失われ、忘れられ、永遠にそこに手は届かない。

けれど、それは悼まれ愛おしまれ崇敬されることによって抽象のフィールドに投げ上げられるのだ。それは、外側からは閉ざされながら、こんなにも無限に広がる内部に開かれる。深く広く可能性を持った尊い風景となる。失われることによって得られる、ロマンティック・イロニイ。テクストとなったときそれは個人の具体の風景を超越したものとして「開かれる」。

百の蕾、百の記憶、百の思い出。その豊かさは、己自身であり、その人生の価値そのものである。一つ一つの小さな蕾は、一つ一つの記憶の風景である、と考えてもよいかもしれない。一つ一つ花開いたとき、その風景は再び生き直される、可能性。

…そんな、蕾である。いつでも永遠にこれから花開く初々しい季節の、その蕾。

失われたとき始まる、永遠の、はじまりの季節。

C・S・ルイス「ナルニア国物語」を思い出す。
創造主アスランが世界のはじまりの歌を歌う、創世期のシーンだ。(ルイスはゴリゴリのキリスト教徒である。)その歌が響いている間、すべては種となり、生まれ、成長する柔らかな生命力となる力を持つ。

永遠の、はじまりの季節。永遠の、可能性の季節。

そして、その世界、ナルニアは、この世を捨てたとき得られる異世界として設定されている。


ナルニア国物語のラストは、永遠の生命、輝かしいイデアに移行する主人公たちの至福のはじまり、そしてこの世側での死なのである。(「約束の地」だな。)なんなんだこの童話は。

 

 *** *** *** 


…達治のこの詩は、そんな意味構造の可能性も持っているのかもしれない。

だがもちろん、それは一つの付加的な意味づけに過ぎない。描かれる風景はただまずはなんの意味も持たない梅の蕾だ。その無意味、虚無、空虚、真理。

そう、真理。

真理という空白のまわりに、真善美のすべてがある。


テクストの示しだす風景は、それが既に失われたものであるという虚無を示すものであり、決して取り戻せないものであることを意味する。しかしそれは同時に、嘗て存在したのだという事実の永遠の存在を心の中に生きさせる、表徴することができるよすがでもあるのだ。

情感と切なさは、そのようなその相反した磁場の結節点に顕れるイメージがこれほどに「うつくしい」風景であるということへの感動から生まれてくる。

 

うつくしさ、美の意味とはそのようなものなのかもしれない。


それ自体意味は持たず、あらゆる時空のあらゆる場面において、そこに適合した論理を構築する力。詩とは、そのような「野生の思考」を生み出す記号である。

三好達治

ドアを開けたら息がとまるかと思った。ごうごうと風が吹く春の朝。

寂しさとは死に至る病だな、と呟きつつ膨らんだ桜の蕾を見上げて歩く風の中、三月のはじまり。

風がやんで、時空のエアポケットに入る一瞬がある。不意に陽射しが温かく感じられてぽかりとひとときの春の中にいる。驚くような心持ちになる。爛漫の春がまたやって来るのだということをそのようにして思う。

馥郁と梅が香る。

…大学に入ったころ、近代詩にかぶれた。四季派周辺とか。特に三好達治の詩が非常に好きであった。

やっぱり「測量船」がいい。教科書で有名な太郎次郎の雪国のよりも、「乳母車」とか「甃のうへ」「少年」。

どれも過去を振り返るような心象風景、若さというものの持つ憂いと郷愁に満ちた美しいものだが、中でも私は「乳母車」のテクスト構造は圧巻だと思っている。現在の時間、詩を綴る作者と作中の作者が赤子であったころ、その「私」のまなざしが重なり、捻じれた時空の軸をつくりだす構造。この主体の視点の重層化とブレが、現在の時空のありかたを人生のはじまりの地点から照射する。そして、倍音を響かせるようにして…人生のはじまりに今の虚無とかなしみを逆照射、そのままその深い昏く淡い柔らかな闇をかぶせてしまう。人生を総括するようにして主体は、視点は分裂してタイムワープ、テクストはそのダブった風景を浮かび上がらせる。

憂愁と陰影に満ちた風景は、しかし、それでも、…存在への意志に満ち、美しいのだ。現在は過去に、過去は現在の二重写しの存在となる。始まりに終わりの物語を重ねてみせるときうまれる、そのふかぶかとした情趣。

あわくかなしい、あじさいいろのものの降る風景の中、深紅の天鵞絨を赤子の額にそっと被らせる母。この新海誠のアニメーションのような、それ自体として情趣に満ちた色彩感豊かなヴィジュアル。

次々と畳みかけてゆくような美しい韻律と表現が、豊かな色彩をもつ風景、情景を描き出す。以下のような律動を持つ一節が繰り返しながら、風景と思惟が深まってゆく構造を持つ美文である。


時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかって
轔々と私の乳母車を押せ…



…今の季節、美しい紅梅を見ると思い出す大好きな詩がある。ぽうと頭の中が痺れて懐かしく切ないような甘いような、じいんとした心持ちと共に。

 

「山果集」より「一枝の梅」。

短いので全文引用する。

 ***  ***  ***

 嘗て思つただらうか つひに これほどに忘れ果てると

また思つただらうか それらの日日を これほどに懐かしむと

いまその前に 私はここに踟蹰する 一つの幻

ああ 百の蕾 ほのぼのと茜さす 一枝の梅

 ***  ***  ***

季節や風景に結び付けられたテクストは、物語は、財産だ。特に若い日に焼き付けられたその風景は。

それは、誰にも何にも侵されない穢されることのない時空間を形成してくれる。永遠に失われることなく心の中に生き続ける、幾度でも思い出され生き直される時空間。

それは、人生を意味あるものとし、それを支える力である。

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子供みたいに愛しても

なぜ子供っていうのは同じ言葉を幾度も幾度も繰り返すのだろう。絵本なんかでも一度好きになると同じものを数えきれない回数読む。どういう脳の構造なのか。それは、その度新鮮さを味わう力を持っているという能力の論理から来るのか。

イヤだからさ、子供の脳内に描かれている世界の地図、物語の組み込みの構造が、大人のそれとはかなりちがう風景としての色彩を帯びているのではないかとかそういうことを思ったのです。

「忘れている」ということと「置いといて」ってしてる微妙な思考の焦点の合わせ方の脳の意識野と無意識野の感覚とか。この多層に流れる意識の在り方は、仏教の十界互具という、焦点の揺れ動く共時多層意識構造のモデルに重なる。賢治関係では必須なんでちらちらかじってみた法華経だけど、やっぱりものすごく面白いよな、仏教。(手塚治虫の「ブッダ」でも面白がるヤツですが自分。)(そういや小学生の頃、手塚治虫全集もってる友人とこに通って読み呆けたなあ。あの放課後の時間は至福であった。ブラックジャックと三つ目が通るにどっぷり。)

そして、アイデンティティの枠、その外枠のところがかなりまだ曖昧で弱いものなんじゃないかと。自分の意識と世界が境界がまだ固まっていない。記憶が外側に収納されている、ような「感覚」ってあるんじゃないかなあ。意識の焦点をずらすと、そこは自分の外側にある、というような、「…(とりあえず)おいといて~。」って感覚。

で、大人になっちゃって己の内部に封印してしまうやり方が、「知ってるつもり」。インデックスつけて引き出しにしまってしまう。

これは、とりあえず感受と思考を意識のそのへんのオープンな場所に投げ出す形での「おいといて~」、という感覚は違う。寧ろ既知の、既成の物語に当てはめてクローズドな場所に「片付けてしまっている」感覚である。

しまい込むと、再びその知を感じ直す、血肉とする、生きたままにしておく現場作業を端折ってしまったままその考えを一つの概念として扱うことができるようになる。それは、インデックスを貼り付けてため込んだそれらひとつひとつを材料ブロックにして、さらなる複雑な構造をもつ高度な知の形を構築することを可能とする。高度に洗練された複雑な構造を持つ美しい建築物。(ナマのままの思考は感官を巻き込んだ思考感情能力すべてをフルに震撼させて感動させてしまうものなので主体全体がそのダイナミクスの中に埋没してしまい、客観としてその外側に出ることができない。)

それは、批評性を得るプロセスである、と言い換えてもよい。

…が、このときひとつひとつのパーツの命は「かっこに入れられて」いる。材料、或いは、勝ち得たもの、所有された財産。

大人が片付けて獲得したつもりになってしまうものは「そのものの感動」のところだが、子供が置いとくのはただそのもののまるごと、「全体性」だ。ここで既知であるという事実の形骸は何の意味も持たない。

そのものを、幾度でも繰り返し味わう。しゃぶりつくす。そのうちにその身体的な感覚的な知の感覚は、数多くの事例を得てより抽象的、論理的なレヴェルに昇華された、彼の思考システムの中に組み込まれた血肉となる。大人になった時それは彼自身を構成する、彼そのものを構築する思考パターン、彼というシステムそのものとして機能するのだ。

 *** ***

完成したらシステムは終わりだ。それはそのままでは退廃と腐敗を待つばかりの死骸だ。
言い換えよう、完成したと思って閉じた瞬間、その知はそのものとしては死ぬ。生命を失った機械(ハコ)となる。

大人の中にあるものは、スキル、その精密に構築されたシステムのハコの群れ。
…だが。そこにひとたび魂をそそぎこみスイッチを入れれば、目覚めた思考は、知は、世界全体を躍動させ、そこに生ける都市を構築しきらめかせ、意味あるものとしての崇高な生命と美しさを与えるものとなる。…失われるのは、そのシステムを目覚めさせ、生きたものとし、魂を与え、血肉を通わすパワーなのだ。

ハコの群れは死骸の山であり、宝の山である。

対して、子供の知は成長する生命力にあふれているが、それは限りなくカオスに近い。そして惜しいかなそれを注ぎ込みかたちにするべき器とスキルが足りない。大人になってそのエネルギーを器とスキルに変換し得たとき、既に注ぎ込む内実、生命の躍動部分の多くは失われている。形骸化した知は、対象や時代に対応する柔軟さ、新たなシステムへと発展する能力を失い、寧ろ生命を抑圧する有害さを示す狷介な権威ともなる。


「子供みたいに愛しても大人みたいに許したい♪」(ムーンライダーズ9月の海はクラゲの海」)
…神様って、イジワルだよな、って、なんかよく思うんだよね。

 *** ***

ニュートンは己の発明、発見について「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。」という言葉を残したという。

先人たちの知の総体がおおいなる巨人としてあり、イマココにある人間たちは、その肩の上でさらなる高みを見る可能性を得ている。この構図は、己のなすべきものを構築し力尽きていった多くの先人たちの、その築き上げた知のシステムがそのまま遺産として、新しい命への次々引きつがれてゆくという時間的な構図でもある。

バトンリレーのように次世代へ、次世代へ。…果てなく未来へと深く高く、はろばろとした世界の豊饒へをもとめて歩みながら伸びゆき、広がり、発展してゆく、人類の知のDNA、歴史のかたちとしての荒々しく美しい生命体、そんな巨人像を想像させる。

ひとりの人間は矮人。できることは少ない、ちいさい。
だけど、巨人の肩によじのぼることができる。遥か高みを見晴るかし陶酔し、さらなる高みを夢見て己の人生の所業をその夢に投げ渡してゆく、そうして永遠にそこに生きている。

そんな感覚を、学問をする人々は、そんな幸福な夢のかたちを希望としてもっている、かもしれないなあ、なんてねい。