つまんなそうな顔した親父が一人で切り盛りしてる、いかがわしい場末の居酒屋のカウンター。
一日の終わりに、こういうとこで麦酒をすすりながらおでんなんかつつくのはいいもんだ。ぼんやりと酒を飲みながら店の奥のTVをながめる爺さんや少しくたびれたサラリーマンのひとときの安らぎの、あたたかく、けれどどこか不思議な距離感のある親密な共有感覚につつまれてる。
畢竟人生の核心とはこういうところにあるんじゃないか、ということを思う。
…で、古い友人とおでんの柔らかく煮えたでっかい大根だのこんにゃくだの分け合いながら、お互いの辛子のつけ方のセンスにいちゃもんつけあったりしながら、最近読んだ漫画だの映画だのTVだのについてぐだぐだと語り合った。
「で、こないだ貸したあの漫画、どうよ。おもしろかったろ?」
昭和SFのあの時代の独特の雰囲気がオレは好きなんだが、そして子供の頃は70年代少女漫画にどっぷりハマった人間なんで、萩尾望都と大島弓子はバイブルに近い。こないだ「ノラガミ」全巻貸してくれたこのZ君へのお返しに、とりあえず間違いなく万人に面白いのではと思われた「スターレッド」を貸したんである。
「…。」
ところが、彼は一瞬、返答に窮した様子を見せた。
「オレさ。」
そしてたっぷりと逡巡を見せた後、思い切った様子でこう言ったんである。
「お脳が弱いんだよ。」
危うくせっかくのうまいおでんを吹くとこであった。
いや、理解したんだが。
ものすごく、その気持ちが分かったような気がしたんだ。
己のお脳が弱いのカミングアウトの際のそのタメ、その気持ち。
絶妙だなあ。
…お脳が弱いのってオレのまわりのトレンドなのかしらん。
このブログ内を検索するとわかると思うが、自分、「お脳が弱い。」自覚がある。
己のお脳の弱さを日々ひしひしと感じ、幾度もそう述懐している。記事のタイトルにした日もあるくらいだ。ここな。
決して認めたくないし開き直って標榜する気なワケでもない。かなしい。んだが、一度ハードルを越え、認めてしまうと随分楽になるのも事実である。事実をまっすぐに、ただそれだけ。無理して背伸びして、そうして自分が伸びることもあるし、世の中ではハッタリ効かせてわかったふりしないと負けてしまう、生きていけなくなる、というような感覚があるんだけど、だけど、つるりと鎧を脱いで戦線離脱、ひとたびあきらめてしまえばストンと憑き物は落ちる。
さてしかし。
「オレ、バカだから。」
という言葉を免罪符にしてるようなのっていうのは全然よろしくない。
例えば若者が寧ろ居丈高に己が「バカ」であることを威張って、理解への努力を拒否するはねつけるような態度は、オレはどちらかというと嫌悪感を感じてしまう。「バカ」っていうのは罵倒や蔑みや価値づけ、或いは愛情表現であることもあるけど、要するに感情的な意味合いがある。で、それに対する「どうせオレはこうだから。」「どうせバカって言われてきたしさ。」みたいな社会に対する卑屈やひねこびや反発、甘え、或いはあきらめみたいな、なんというか感情的な濁りのあるニュアンスを感じるんだな。
…だけどさ、「お脳が弱い。」ってのは違うんだよ。理解の努力を拒否するのとは微妙に違う弱気なかなしみがある。あれこれあった人生の、その年齢を重ねてきた人間に初めて行きつくことができる境地。ニュートラルな、まっすぐで透明な現状把握。
頑張らなきゃいけないんだけどさあ、もうちょっとわかりたいんだよ、ほんとはさあ、…みたいな力足らずの切なさというかさ。哀れさ滑稽さ。
「…そんなに難解だっけ、あれ。」
実は読んだの大昔なもんだから忘れてるのだ。猛烈に面白かった、という記憶だけである。(読み返さなきゃな。)(そんな本⦅や漫画⦆ばっかりだ。)
もしかして、自分もよくわかんなくなってるかもしれないな、あの頃浸った世界の構造のおもしろさを。
でも、ハッタリじゃないところで、限られた自分の理解の範囲だけを慎ましく。それでも、それなりにのそのそと考えたリおもしろがったりできるし、その分だけで、世界は充分に豊かになれる、ような気がするよ。