酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

オオイヌノフグリ

近所の空き地、今年初のオオイヌノフグリ発見!
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2017、2.26事件。オオイヌノフグリ記念日だ。

好きなんだな、この花が。咲く季節も、咲く場所も、ものすごく小さいとこも、春の空の色してるとこも、ひどい名前つけられてるとこも、飾りたいなと思って摘もうとするとぽろりともげてしまう儚さも。

 

高校に入学したばかりの四月だった。

生物の最初の授業は、野外学習と称して学校の周りの川沿いの公園をクラス皆で遊びながらお散歩するというものだった。そのままなし崩しに解散、下校、というユルさ。

春うららな陽射しの明るい美しい午後だった。

高校生活は、未来はこれから、という真新しい希望のぴかぴかの春だった。

先生がそのときこの花の名前を、その由来ともどもしみじみとした情趣を持った口調で教えてくれたのだ。「ひどいですよねえ…。」

とっても変な顔をしていたけどとってもいい先生だった。
(夏は教室温度30℃超えたら休講だって約束してくれてたし。生物学的に人間が頭脳システムを作動できる環境ではないって言って。)(あの頃は超えることって結局なかったような気がするけど。)(ミョーなノリの先生だったよな。)(結構面白い先生多かったな。)

この日のこの午後の風景を心象風景として時空のポケットにしまいこみ、一生覚えていることになろうとはあの時私は思いもしなかった。明るい春の中をただ目の前と将来のことでいっぱいで生きていたから。

日曜日、遅い午後の春の光に包まれるとき、この花の咲き始めるとき、繰り返し、繰り返し、そこから取り出して、丁寧に広げて磨き直すことになるなんてね、至福ということに関して考えなくてはならなくなることになるなんてね。

お脳が弱い その2

つまんなそうな顔した親父が一人で切り盛りしてる、いかがわしい場末の居酒屋のカウンター。

一日の終わりに、こういうとこで麦酒をすすりながらおでんなんかつつくのはいいもんだ。ぼんやりと酒を飲みながら店の奥のTVをながめる爺さんや少しくたびれたサラリーマンのひとときの安らぎの、あたたかく、けれどどこか不思議な距離感のある親密な共有感覚につつまれてる。

畢竟人生の核心とはこういうところにあるんじゃないか、ということを思う。

 

…で、古い友人とおでんの柔らかく煮えたでっかい大根だのこんにゃくだの分け合いながら、お互いの辛子のつけ方のセンスにいちゃもんつけあったりしながら、最近読んだ漫画だの映画だのTVだのについてぐだぐだと語り合った。

「で、こないだ貸したあの漫画、どうよ。おもしろかったろ?」

昭和SFのあの時代の独特の雰囲気がオレは好きなんだが、そして子供の頃は70年代少女漫画にどっぷりハマった人間なんで、萩尾望都大島弓子はバイブルに近い。こないだ「ノラガミ」全巻貸してくれたこのZ君へのお返しに、とりあえず間違いなく万人に面白いのではと思われた「スターレッド」を貸したんである。

 「…。」

ところが、彼は一瞬、返答に窮した様子を見せた。

「オレさ。」

そしてたっぷりと逡巡を見せた後、思い切った様子でこう言ったんである。

「お脳が弱いんだよ。」

 

危うくせっかくのうまいおでんを吹くとこであった。

いや、理解したんだが。
ものすごく、その気持ちが分かったような気がしたんだ。

己のお脳が弱いのカミングアウトの際のそのタメ、その気持ち。
絶妙だなあ。

 

…お脳が弱いのってオレのまわりのトレンドなのかしらん。
このブログ内を検索するとわかると思うが、自分、「お脳が弱い。」自覚がある。

己のお脳の弱さを日々ひしひしと感じ、幾度もそう述懐している。記事のタイトルにした日もあるくらいだ。ここな。

決して認めたくないし開き直って標榜する気なワケでもない。かなしい。んだが、一度ハードルを越え、認めてしまうと随分楽になるのも事実である。事実をまっすぐに、ただそれだけ。無理して背伸びして、そうして自分が伸びることもあるし、世の中ではハッタリ効かせてわかったふりしないと負けてしまう、生きていけなくなる、というような感覚があるんだけど、だけど、つるりと鎧を脱いで戦線離脱、ひとたびあきらめてしまえばストンと憑き物は落ちる。

 

さてしかし。

「オレ、バカだから。」

という言葉を免罪符にしてるようなのっていうのは全然よろしくない。

例えば若者が寧ろ居丈高に己が「バカ」であることを威張って、理解への努力を拒否するはねつけるような態度は、オレはどちらかというと嫌悪感を感じてしまう。「バカ」っていうのは罵倒や蔑みや価値づけ、或いは愛情表現であることもあるけど、要するに感情的な意味合いがある。で、それに対する「どうせオレはこうだから。」「どうせバカって言われてきたしさ。」みたいな社会に対する卑屈やひねこびや反発、甘え、或いはあきらめみたいな、なんというか感情的な濁りのあるニュアンスを感じるんだな。

…だけどさ、「お脳が弱い。」ってのは違うんだよ。理解の努力を拒否するのとは微妙に違う弱気なかなしみがある。あれこれあった人生の、その年齢を重ねてきた人間に初めて行きつくことができる境地。ニュートラルな、まっすぐで透明な現状把握。

頑張らなきゃいけないんだけどさあ、もうちょっとわかりたいんだよ、ほんとはさあ、…みたいな力足らずの切なさというかさ。哀れさ滑稽さ。

 

「…そんなに難解だっけ、あれ。」

実は読んだの大昔なもんだから忘れてるのだ。猛烈に面白かった、という記憶だけである。(読み返さなきゃな。)(そんな本⦅や漫画⦆ばっかりだ。)

もしかして、自分もよくわかんなくなってるかもしれないな、あの頃浸った世界の構造のおもしろさを。

でも、ハッタリじゃないところで、限られた自分の理解の範囲だけを慎ましく。それでも、それなりにのそのそと考えたリおもしろがったりできるし、その分だけで、世界は充分に豊かになれる、ような気がするよ。

新しい図書館

新しい図書館に行った。

都立多摩図書館が立川の不便なとこから、地元西国分寺に移転してきたのだ。一月末にオープンしたばかりのピカピカ。

一般貸出はしてないんだけど、東京マガジンバンク、雑誌と絵本に特化したという特徴を持った図書館で、前から一度は行ってみたいなあと思っていた。

それが向こうからやってきてくれたんである。
これは私の人徳の招いた事態だろうか、と思っても責められるところではあるまい。

個人PC持ち込みOK(電源完備デスク多。)、東京都のフリーのWIFI完備、国分寺の可愛いパン屋が出店してて、「国分寺ブレンド」も飲めるカフェコーナー。(まあ菓子パンとコーヒースタンドと自動販売機のお茶類だけ。カフェのお洒落さ、メニュー、居心地としては武蔵野プレイスに遠く及ばないけど、その分価格が可愛いもんね。)

 ***  *** 

来訪したのは、春一番フライングか、と思うような強風吹き荒れる節分の日であった。
青空ピカピカ、街のあちこちで恵方巻特設売り場にひとだかり。

立札。此処だ、広い青空の下、ゆったりとしたつくりの建物。

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まず大きなガラス窓からじろじろ中の様子をうかがう。初めての図書館に足を踏み入れるときは、いつでもどきどきわくわく。

カウンターで受け付け、入館証を首からぶら下げて中へ入る。秘密倶楽部会員っぽくてよろしい。

図書館の空気は穏やかで平和な幸せ。

…でもね、実は、この日行ったときはそれほど堪能はできなかったのだ。こころは体調や表層的な精神状態のくびきにつながれていた。

ただ、その奥底のどこかで、閉ざされた現在から放たれたところを思った。

静かな図書館独特の空気につつまれたとき、窓から明るい光がさしこんでいるとき、いつも私の心はそこに飛ぶ。原初の図書館体験が、いつでも心の中にその至福の風景を呼ぶ。イマココの現実の風景にダブらせてよみがえらせる。

たくさんの物語と夢の翼に乗ってはばたいた場所、世界を無限に夢見たのだ。…そう、その己の心の力の記憶。

…遥か遠い明るいそこを私の心は思ったのだ。柔らかな輝きにみちた自由なところ、夢を見るために、他のすべてから守られていながら開放された時空。(それは過去の方向に求められた場所だけれど、けれどそれは未来を夢見る力を持った過去である。ねじれた構造によって成り立つそのメディア空間。過去に夢見たいくつもの未来、その夢を見る場所。)(永遠のメディア空間。)もどかしい、強烈な憧れを感じた。強烈な。

そもそも図書館とは常に世界の夢を見るためのメディア空間なのだ。
知とはそれ自体力を持たず弱く、その純粋をあらゆる外部の圧力(権力や経済力)からまた何らかの力によって守られなければならない存在なのではないだろうか。図書館とは、それを象徴する場所。

なんとなく、米国の核に守られた非核三原則のような平和の構造を思い出す。誰かの汚れた強い手によって守られる純潔。金は出すが口は出さないパトロンを必要とする、不可侵のシェルター。

 ***  ***

平日の昼下がり、静かで明るい開放空間。採光は申し分なく明るく青空の中に浮かんでいるような気持ちだったし、裏手は武蔵国分寺公園。いい環境である。

大きなガラス張りの光に包まれた素敵な子供のコーナー。

それから、カウンターで申請して特別のバッヂをくっつけて入る、開架書庫。秘密めいた薄暗い空間。


ここは殆ど人がいなかった。書棚の隙間をあるく。細長い天井に薄暗い裸電球的な照明が点々と埋め込まれ迷路のイメージにわくわくする。貴重な雑誌や古い絵本ごってり。

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…もう一度生まれ直して子供になって、こんな図書館をシェルターにして育ちたいと、このとき我が魂の鮮烈な切望は胸に痛いほどであった。

これは、決して得られない憧れという、世界で最もうつくしく貴い幸福なかなしみ。至福と絶望のアンビヴァレンツ。その麻薬のような甘美への陶酔と耽溺。

戻りたい、ただ戻りたい。夢中になって本を読み世界の無限の不思議を感ずる幸福に埋もれていたあのひとときに。今なんか要らない、永遠にあの日々が繰り返されればよい。両親に守られ、未来はただ限りない可能性に満ちていたあの頃に。

…これは逃避と退廃なのだろうか、と私は問う。

そうだ、逃避で退廃だ。
では、胸の中にそれを抱えて生きることに何の意味がある?

無意味ではない、と私は答える。このアンビヴァレンツの持つ強烈さは、決して虚無に向かってはいない。ねじれた形ではあっても、それは欲望、すなわち永遠に何かにあこがれ続けるしたたかな生命本来の力のひとつのかたち。いや、寧ろこれこそが、「反(或いは未)・現実」としての夢と憧れと希望と欲望こそが、生きる力と喜びの本質なのではないのか。

逆説的ではあるが、それは逃避と退廃と背中合わせでありながら同時に「イマ・ココ」の唯一の絶対性を否定し相対化し、そこに閉ざされる閉塞から脱却することによってそれすらを肯定することができる、未来へのエンジンとなる可能性でもあるのだ。

生まれた、というだけで無条件に愛され育くまれた記憶、あるいは世界の驚異を畏れ愛し欲望したその人生のはじまりのところの記憶は、私のアイデンティティの根幹のところに刻み込まれた…私のレーゾンデートルだ。

「決して戻れないことを知りながらの過去への追慕」。己の過去を愛し、そこにあったすべての可能性をすべて愛し、惜しみ、かなしみ悼み、そして一つしか選べなかった「イマ・ココ」を、それらすべてを倍音として包括したものとして止揚し、全肯定とゼロの両義をはらんだまま抱え、その道を進んでゆくための。

諸刃の剣である。これが近代日本文学理論がとらえたところの、ロマンティック・イロニイなのではないか、と私は考える。

そう、実は、これこそが。「イマ・ココ」でないものにあこがれ続ける力。

「イマ・ココの現実」になった瞬間、かなった瞬間失われる「夢」のベクトルの力。欠如でなければ夢という欲望は存在できない。(欲望とは生きる意欲のことだ。)満たされたいと願う力は満たされた瞬間失われる、ロマンティック・イロニイ。

…メディア空間とは、幾重にも重層し錯綜したあらゆる方向への可能性が可能性のままである力の場なのだ。それは、両側にたくさんの世界の扉のある、迷宮の長い長い廊下。扉を開けば、一つの世界が開かれる。永遠に、そのダイナミクスの場にとどまっていたい、という究極の欲望。

 ***  ***

「ああ それにしてもそれにしても / ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!(中原中也)」

いつでも私は「いま、ここでないところ」を夢見て生きてきた。いまここでないところに行きたい、と、いまここでない時空に行きたい、と。

今日も、日曜の夕暮れのベランダから夕陽を浴びて光る飛行機を眺めながら。

日曜日、光の春

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近所のだだっぴろい畑のはたに、いつも見事に花を咲かせる桃の大木がある。その下には菜の花畑。

 

今年ももう咲き始めていた。

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梅はそこいらじゅうで馥郁と香っている。(しだれたやつと源平のやつが好きだ。この写真のもかわいい源平であった。)(枝垂れた源平が一番ゴージャス。桜も枝垂れ源平桜。あれこそ桃源郷桜源卿、夢の中にいるような風景だ。)

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淡い青の空色に桃色に黄色のパステル。

おぼろなこの風景のこのイメージは、夢のような「里の春」。むせ返るような甘い懐かしい菜の花の香り。風は冷たいが二月は光の春だ。

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(関係ないけど高校のころ、「里の栗」っていうアイスが好きであった。確かうまれて初めて彼におめもじしたのは、豊友館(高校の学食の建物)。栗のジャムがはいった栗アイス。ガリガリ君は夏の定番、リッチな気分のときはジャイアントコーンを選択したものだ。)

 

季節は繰り返し、命は再生する。未来にも現在にも希望が見えなくても自分が修羅の底を歩いているような気持ちでいても、ただひたすら生きていれば世界は美しい喜びを与えてくれることもあるしいいこともあるかもしれない、と、さまざまに考えを散らしながらのそのそ歩くまだ早い春、日曜の午後。(さまざまに閃くのは立原道造の詩集「日曜日」の幾編かの詩のことばのモチーフだ。)

笊豆腐

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こてこてに固くてこっくりと味の濃い石臼挽き豆乳ざる豆腐。
 
ふわとろやわやわつるんな茶碗蒸的にお上品な京都な感じの絹ごしより、ずっしりどっしりがっしりなこのざる豆腐である。見よこの美しい布目。
 
大体世の中なめらかプリンとかとろふわとかゆるふわとか(違)顎が退化し人間が老化するグルメ気運が高すぎる。モノを噛まないようになると顔の筋肉がゆるみアホづらになり、唾液分泌が減り虫歯進行が助長され脳みそが劣化し老化が進み(よく噛んでいると老化防止ホルモンが分泌されるという。)早食いで肥満する。ブスボケデブを助長する悪しき文化である。
 
さらしにさらし、雑味も栄養も洗い流した生命力のないこしあんとか上澄みの夢だけ掬い取る洗練美味文化を日常食にするとかそういうのオレには許せない。そういのはハレの食べ物だ…もっとソノ、なんだな、日々は縄文人的にハードボイルドワンダーランドなものを食ってた方が身体機能が向上するのではないか。こしあんよりつぶあん、クロワッサンよりカンパーニュである。白米より玄米雑穀、ハイジの白パンよりずっしりどっしりがっしりライ麦パンである。白米白パン白砂糖は諸悪の根源、芋もトマトも餅も皮ごと、秋刀魚も骨ごと食うんである。
 
で、食べた気がしないふるんつるんの上品なプリンつるつる飲み込むより、昔マミーが拵えてくれた、こてこてに歯ごたえのあるこってりプリンである。そっちの方がずっとしっかりと卵の味をかみしめられるというものではないか。
 
(…イヤそりゃたまにはハレの日にはなめらかふわとろプリンもいいけどさ、で、湯葉はふにゅっとしたやわやわがいいんだけどさ。いやでもそりゃ湯葉ってもんがもともとそういうお上品で贅沢でディレッタントな食べ物だからであってだな…)

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 身体と精神、理性と感性、個人と社会、文化。さまざまの価値観による喜びのクロスする官能、味覚。
 
これは、栄養物を摂取する際に動員される機械的な五感の反応を構成要素とし、+αとしてなんらかの個人的な意味な価値を付加して全体を成すひとつの複合感覚なのだ。刷り込みや体調、気分といってもいい、不安定な要素。だがこの部分こそが快不快を決定するコアの部分をなしているのだ。
 
味覚というのはそういう意味で非常に面白い。人間の官能の原点、原理のようなものをもっともよく示しだす感覚だ。誰にも絶対はないけれど、その感覚は絶対的に共有できないもの、というわけでもない。そしてある程度カテゴライズされてくる。

嗜好のことを考えるとき、私は必ず中島らもの「全マズ連』のことを思い出す。全国マズいもの愛好連合。確かその活動内容は、全国の不味いものを探し求め、そのマズさを愛し、それがいかに不味いかを熱く語る、というものであった。
例えば基本的に、ゆで卵を食する作法としては、味の濃い黄身はまず慌てて飲み込んでしまってから、後からゆっくりとぷりぷりした白身の無味を楽しむのだという。

食べることを楽しむことの総合価値についてしみじみと考えざるを得ない。

 諧謔とアイロニイに満ちた彼の活動は様々の価値観を相対化して考える手ががりをくれるのだ。

食べものや本の嗜好について語るとき、人は己の成り立ちそのものを赤裸々に語っているのではないかという気がする。
 
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結論・笊豆腐は大変おいしゅうございました。豆腐はどうやってもおいしい。

チョコレート2017

ここしばらく、世の中はチョコレートであった。
百花繚乱チョコレート。みんな大好きチョコレート。児童労働チョコレート。(こういうこと考えだすと辛くなるから考えたくないから考えないというのもいけないので考える、と辛いなあとかああめんどくさいやめようとか、ものすごくムダにぐるぐるする優柔不断卑怯者タイプである。)

ちょっとTVをつけてみたら、仏蘭西サロン・デュ・ショコラの取材番組。(ショコラの祭典。世界の名だたるショコラティエを集めた一大イヴェント、技を競うコンクール。)(東京でも毎年やってる。ちょっと行きたかったなあ。)(でもショコラってば高いんだよね。ちびサイズのタブレット一枚1000~3000円とか宝石みたいなボンボンショコラ一粒500円普通とかもうね、…湯水の〜よう〜に〜カネを使〜って〜み〜たい♪(ムーンライダーズ「スカンピン」)(でもとりあえずお祭りは楽しい。)

職人気質のショコラティエたちが互いの技を競う、彼等のコンクールにかけた情熱を追うドキュメント。ショコラに対する思いや職人としての誇り、喜び、アイディアの秘密を語るショコラティエたち。ついつい観てしまった。

ショコラの一粒にこめられた思い。その喜びと感動のための彼らの人生。

すっかりその気になった。彼等の美麗でお洒落なお店は銀座だの表参道だの青山だのにある。明日にでも走っていって片端から買い漁り味わってみたい、その意味を感じてみたい、彼等の物語にのせられてみたい、と本当に一瞬本気で思った。(自分結構乗せられやすく惚れっぽいお安い人間である。こういう人間を騙して躍らせるのは実にたやすいことですぜ旦那。)

…もちろん、そんな分不相応なことをしたらたちまち数十万YENがチョコレートに消え、その夜のうちにほっかむりで夜逃げしなくてはならなくなるであろう。そんならどうせならヤナちゃんライヴツアーおっかけしてそのまま見知らぬ土地で人生終えた方がいいやな、という発想でもって思いとどまったんですが。

大体、甘い砂糖やミルクの入ったものは口にしない生活をしているのであったよ。
すべての喜びを味わうことを夢見る、その上澄みの甘い夢を見る主体性を持った己の想像創造力が好きなのであって、実際に全部食べる消費者サイドに完全に堕ちてしまうのはダメなのだ。上澄みの夢がそんな風にかなってしまったら、或いは壊れてしまっても(あんまり嬉しくなかったとかさ)、どっちにしろ夢を失ってしまうからな。可能性だけ最大限にもっていたい欲張りなんである。

今昔物語の「芋粥」だな。(ああしかしやっぱり食べてみたい。)(かなわぬ夢)(このみじめさが結構イイ。)(…本当に大切なのは双方のバランス。)

で、朝ラジオフランス語講座を聞いてたら、やっぱり仏蘭西のショコラ事情ときた。(やーねーバレンタイン。)
ショコラの一箱、その小さな贈り物は、そのまま極上の甘い愛の言葉だと主張する記事である。

…またすっかりその気になった。

そもそももともとカカオが好きなんである。この日もわざわざチョコ買いに行ったとか記事にしている。ヴァンホーテン5㎏まとめ買いしてガシガシ消費し毎晩カカオニブを齧るカカオバカなんである。(ただし砂糖は使わない。せいぜい蜂蜜。)チョコレートココア協会のオリジナルストラップまで持っている。つけてないけど。(iPhoneにストラップはつけられない。)

ああ、心はショコラ。街のチョコレート屋や特設会場にはふらふらと吸い寄せられる。百花繚乱チョコレート、仏蘭西語でショコラ、トルコ語でチコラタ、日本語で貯古齢糖、どの店のどのチョコレートも様々の個性で宝石のように美しくてもうアタマクラクラ、片端から全部かじってみたくなって困った。

まあそんなお祭り日和。
せめて誰かに贈りたかったんだけどなあ。

闇太郎

川上弘美はおもしろい。

ダイナミックな作風の変化があって(おそらく意図的な。)実験的なものもあり、作品によって当たりはずれ、というか好き嫌いが別れそうな作家さんだと思う。だけどやはり、そのどれもがどこか私の心を揺さぶるところをもっている。

私は個人的に初期の作風が好きである。異界に近しい不可思議さを濃厚に打ち出した幻夢の世界。漱石夢十夜を思い出すような。

彼女はそして、よくも悪くも、根っからの、ものすごい振り切れたレヴェルで「女性的な」作家だと思う。

根源的な女性性、とでもいうのだろうか。規範、秩序、確固たる唯一の現実とされている男性社会を、その成り立ちそのものから無化していくようなようなかたちでの、彼女の描く異界性とエロティシズム。それは男性作家がおなじものを描くやりかたとはまったく異なる道筋で世界を描く。自我やアイデンティティという自明だったはずの枠組みをラディカルな形で無化してみせるのだ。この世の外部、異界、夢、官能、そして、追っても追っても限りなく果てない空虚な真理にも似た、切ない、愛のかたち。

 

…で、「闇太郎」。

これは、2001年度谷崎潤一郎賞受賞した「センセイの鞄」の舞台になった居酒屋のモデルだと言われている吉祥寺の老舗である。

こういう店で、主人公ツキコさんのようにすっと座って麦酒を頼み、お手拭きで手を拭いつつお品書きを眺め、「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう。」とかかっこよく注文してみたい、と思っていた。(センセイとの出会いの場面ね。)(ミーハーである。)

センセイの鞄」は、15万部を売り上げたベストセラー。ドラマにもなったりして、おそらく川上弘美作品の中では最もポピュラーなもの。海外でも高く評価され、数々の賞を受け、ノーベル文学賞候補にもなったという。繊細で切なくこまやかな情感を湛えた…なるほどいかにも女性受けしそうなピュアな恋愛小説である。(そりゃあいいとは思うけどコアなファンとしてはまあポピュリズム方向、と言いたくならないこともない。じくじく。)

で、川上弘美でも村上春樹でもそうなんだけど、作品の中で描かれている食べ物の描写が素晴らしい。児童文学の中での憧れの食べ物もそうだけど…大体、食べ物が印象的に魅惑的に描かれている作品っていうのは、それ自体が素晴らしく魅惑的なものなんである、と私は信じている。

 

だからねえ、「闇太郎」。
行ってみたかったんだよね、吉祥寺にあるんだもんね。

(モデルになっている、作品のモチーフになったというゲンジツの場面に関しては、私は実は絶対視していない。それは作品のイメージのトリガーに過ぎないし、生身の一人の人間としての作者一人の個人的な「具体」に属する要素であって、テクストとして「抽象」に投げあがられたとき、それは無数の読者個人の「具体」を生み出す母胎として、ひとつの現実にしばられるものとは別の次元に開かれたものとなっている。…でもね、やっぱり一応ね、参考にはなるワケよ。絶対じゃないよ、ひとつの手がかりね。それはつまり、岩手県とイーハトーヴォの違いみたいなもんなんだ。)

 

で、どっこいしょ。
ひとりじゃ怖いので、居酒屋慣れした友人引っ張り出して、土曜の夜の大冒険、嬉し恥ずかし闇太郎初体験。

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土曜の夜、開店早々客で満杯。

引き戸を開ければ別世界。ふわりと包まれる、あたたかさ。その独特の温もり、陰影の織りなす小さな異次元。見ず知らずの人々がほんのひととき小さな空間に集う、親密な居酒屋空間。

…コレだよ、これ。これが知りたかったのオレ。

隅っこの席に、麦酒すすりながら、ぼんやりとこのあたたかな雰囲気に身を沈め、奥の小さなTV画面眺めたリしてる白鬚おじいさんとかいたりすると、…いやもう、こういうのってたまらねえなあ。彼の人生のその禍福の末のこのひとときの味わいのことを考える。

隣の若い恋人同士、アベック(死語か…)の驚くべき善良ないちゃいちゃぶりも非常に興味深かった。カレシに甘ったれた声の可愛い女の子、カノジョがいることでしやわせいっぱいの、一般的にはあんまりイケメンとはいえないおこちゃまな男の子、二人で手を重ねて自撮り写メやるわひと目はばからずチュッチュってやってはとろけそうな笑顔で。…この先この二人が末永くって可能性の薄さを考えたりしちゃったけどね、それでも、それだからこそ、こういう人生の一コマのリアリティを感じるのってのは…楽しいものなんである。すべてを肯定できるような気持ちになってしまったりするんである。

それは、いろんな人生あってヨシ、な気持ち。かなしさもさびしさもやすらぎもよろこびも、日々さまざまに何があっても、土曜の夜のひととき、人々がこんな風に居酒屋で過ごすことのできる平和な国でさえあればいいんだ、っていうような。

 

…創業以来40年以上、親父さんが変わらず一人で切り盛り、カレ、すごい貫禄である。ここでは店主が客に愛想よく如才なくとかそういうのは気持ちがいいほど皆無であって、客が皆店主の顔色を伺ってしまうんである。イヤイヤなんというか、笑ってしまう。貫禄の力かねえ。

 

…トイレの壁に川上弘美の写真と記事が貼ってあったよ。(トイレで写真撮るヤツ。)

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あの物語の時空を一生懸命思い出しながら脳みそを居酒屋モードに合わせ、ほろほろと酔っぱらった立春の宵でありやした。

気安い友人とたくさん話して笑って、楽しかったがくたくたのふらふら。帰り道はまっすぐ歩けないレヴェルであった。記憶はすべて断片的な夢のよう、よく無事ベッドにたどり着いたもんだ。(翌日曜は声も出ずぐったり、一日じゅう宿酔いの雲の中。居酒屋行って疲労してちゃ世話ねえな。)