酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

笊豆腐

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こてこてに固くてこっくりと味の濃い石臼挽き豆乳ざる豆腐。
 
ふわとろやわやわつるんな茶碗蒸的にお上品な京都な感じの絹ごしより、ずっしりどっしりがっしりなこのざる豆腐である。見よこの美しい布目。
 
大体世の中なめらかプリンとかとろふわとかゆるふわとか(違)顎が退化し人間が老化するグルメ気運が高すぎる。モノを噛まないようになると顔の筋肉がゆるみアホづらになり、唾液分泌が減り虫歯進行が助長され脳みそが劣化し老化が進み(よく噛んでいると老化防止ホルモンが分泌されるという。)早食いで肥満する。ブスボケデブを助長する悪しき文化である。
 
さらしにさらし、雑味も栄養も洗い流した生命力のないこしあんとか上澄みの夢だけ掬い取る洗練美味文化を日常食にするとかそういうのオレには許せない。そういのはハレの食べ物だ…もっとソノ、なんだな、日々は縄文人的にハードボイルドワンダーランドなものを食ってた方が身体機能が向上するのではないか。こしあんよりつぶあん、クロワッサンよりカンパーニュである。白米より玄米雑穀、ハイジの白パンよりずっしりどっしりがっしりライ麦パンである。白米白パン白砂糖は諸悪の根源、芋もトマトも餅も皮ごと、秋刀魚も骨ごと食うんである。
 
で、食べた気がしないふるんつるんの上品なプリンつるつる飲み込むより、昔マミーが拵えてくれた、こてこてに歯ごたえのあるこってりプリンである。そっちの方がずっとしっかりと卵の味をかみしめられるというものではないか。
 
(…イヤそりゃたまにはハレの日にはなめらかふわとろプリンもいいけどさ、で、湯葉はふにゅっとしたやわやわがいいんだけどさ。いやでもそりゃ湯葉ってもんがもともとそういうお上品で贅沢でディレッタントな食べ物だからであってだな…)

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 身体と精神、理性と感性、個人と社会、文化。さまざまの価値観による喜びのクロスする官能、味覚。
 
これは、栄養物を摂取する際に動員される機械的な五感の反応を構成要素とし、+αとしてなんらかの個人的な意味な価値を付加して全体を成すひとつの複合感覚なのだ。刷り込みや体調、気分といってもいい、不安定な要素。だがこの部分こそが快不快を決定するコアの部分をなしているのだ。
 
味覚というのはそういう意味で非常に面白い。人間の官能の原点、原理のようなものをもっともよく示しだす感覚だ。誰にも絶対はないけれど、その感覚は絶対的に共有できないもの、というわけでもない。そしてある程度カテゴライズされてくる。

嗜好のことを考えるとき、私は必ず中島らもの「全マズ連』のことを思い出す。全国マズいもの愛好連合。確かその活動内容は、全国の不味いものを探し求め、そのマズさを愛し、それがいかに不味いかを熱く語る、というものであった。
例えば基本的に、ゆで卵を食する作法としては、味の濃い黄身はまず慌てて飲み込んでしまってから、後からゆっくりとぷりぷりした白身の無味を楽しむのだという。

食べることを楽しむことの総合価値についてしみじみと考えざるを得ない。

 諧謔とアイロニイに満ちた彼の活動は様々の価値観を相対化して考える手ががりをくれるのだ。

食べものや本の嗜好について語るとき、人は己の成り立ちそのものを赤裸々に語っているのではないかという気がする。
 
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結論・笊豆腐は大変おいしゅうございました。豆腐はどうやってもおいしい。

チョコレート2017

ここしばらく、世の中はチョコレートであった。
百花繚乱チョコレート。みんな大好きチョコレート。児童労働チョコレート。(こういうこと考えだすと辛くなるから考えたくないから考えないというのもいけないので考える、と辛いなあとかああめんどくさいやめようとか、ものすごくムダにぐるぐるする優柔不断卑怯者タイプである。)

ちょっとTVをつけてみたら、仏蘭西サロン・デュ・ショコラの取材番組。(ショコラの祭典。世界の名だたるショコラティエを集めた一大イヴェント、技を競うコンクール。)(東京でも毎年やってる。ちょっと行きたかったなあ。)(でもショコラってば高いんだよね。ちびサイズのタブレット一枚1000~3000円とか宝石みたいなボンボンショコラ一粒500円普通とかもうね、…湯水の〜よう〜に〜カネを使〜って〜み〜たい♪(ムーンライダーズ「スカンピン」)(でもとりあえずお祭りは楽しい。)

職人気質のショコラティエたちが互いの技を競う、彼等のコンクールにかけた情熱を追うドキュメント。ショコラに対する思いや職人としての誇り、喜び、アイディアの秘密を語るショコラティエたち。ついつい観てしまった。

ショコラの一粒にこめられた思い。その喜びと感動のための彼らの人生。

すっかりその気になった。彼等の美麗でお洒落なお店は銀座だの表参道だの青山だのにある。明日にでも走っていって片端から買い漁り味わってみたい、その意味を感じてみたい、彼等の物語にのせられてみたい、と本当に一瞬本気で思った。(自分結構乗せられやすく惚れっぽいお安い人間である。こういう人間を騙して躍らせるのは実にたやすいことですぜ旦那。)

…もちろん、そんな分不相応なことをしたらたちまち数十万YENがチョコレートに消え、その夜のうちにほっかむりで夜逃げしなくてはならなくなるであろう。そんならどうせならヤナちゃんライヴツアーおっかけしてそのまま見知らぬ土地で人生終えた方がいいやな、という発想でもって思いとどまったんですが。

大体、甘い砂糖やミルクの入ったものは口にしない生活をしているのであったよ。
すべての喜びを味わうことを夢見る、その上澄みの甘い夢を見る主体性を持った己の想像創造力が好きなのであって、実際に全部食べる消費者サイドに完全に堕ちてしまうのはダメなのだ。上澄みの夢がそんな風にかなってしまったら、或いは壊れてしまっても(あんまり嬉しくなかったとかさ)、どっちにしろ夢を失ってしまうからな。可能性だけ最大限にもっていたい欲張りなんである。

今昔物語の「芋粥」だな。(ああしかしやっぱり食べてみたい。)(かなわぬ夢)(このみじめさが結構イイ。)(…本当に大切なのは双方のバランス。)

で、朝ラジオフランス語講座を聞いてたら、やっぱり仏蘭西のショコラ事情ときた。(やーねーバレンタイン。)
ショコラの一箱、その小さな贈り物は、そのまま極上の甘い愛の言葉だと主張する記事である。

…またすっかりその気になった。

そもそももともとカカオが好きなんである。この日もわざわざチョコ買いに行ったとか記事にしている。ヴァンホーテン5㎏まとめ買いしてガシガシ消費し毎晩カカオニブを齧るカカオバカなんである。(ただし砂糖は使わない。せいぜい蜂蜜。)チョコレートココア協会のオリジナルストラップまで持っている。つけてないけど。(iPhoneにストラップはつけられない。)

ああ、心はショコラ。街のチョコレート屋や特設会場にはふらふらと吸い寄せられる。百花繚乱チョコレート、仏蘭西語でショコラ、トルコ語でチコラタ、日本語で貯古齢糖、どの店のどのチョコレートも様々の個性で宝石のように美しくてもうアタマクラクラ、片端から全部かじってみたくなって困った。

まあそんなお祭り日和。
せめて誰かに贈りたかったんだけどなあ。

闇太郎

川上弘美はおもしろい。

ダイナミックな作風の変化があって(おそらく意図的な。)実験的なものもあり、作品によって当たりはずれ、というか好き嫌いが別れそうな作家さんだと思う。だけどやはり、そのどれもがどこか私の心を揺さぶるところをもっている。

私は個人的に初期の作風が好きである。異界に近しい不可思議さを濃厚に打ち出した幻夢の世界。漱石夢十夜を思い出すような。

彼女はそして、よくも悪くも、根っからの、ものすごい振り切れたレヴェルで「女性的な」作家だと思う。

根源的な女性性、とでもいうのだろうか。規範、秩序、確固たる唯一の現実とされている男性社会を、その成り立ちそのものから無化していくようなようなかたちでの、彼女の描く異界性とエロティシズム。それは男性作家がおなじものを描くやりかたとはまったく異なる道筋で世界を描く。自我やアイデンティティという自明だったはずの枠組みをラディカルな形で無化してみせるのだ。この世の外部、異界、夢、官能、そして、追っても追っても限りなく果てない空虚な真理にも似た、切ない、愛のかたち。

 

…で、「闇太郎」。

これは、2001年度谷崎潤一郎賞受賞した「センセイの鞄」の舞台になった居酒屋のモデルだと言われている吉祥寺の老舗である。

こういう店で、主人公ツキコさんのようにすっと座って麦酒を頼み、お手拭きで手を拭いつつお品書きを眺め、「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう。」とかかっこよく注文してみたい、と思っていた。(センセイとの出会いの場面ね。)(ミーハーである。)

センセイの鞄」は、15万部を売り上げたベストセラー。ドラマにもなったりして、おそらく川上弘美作品の中では最もポピュラーなもの。海外でも高く評価され、数々の賞を受け、ノーベル文学賞候補にもなったという。繊細で切なくこまやかな情感を湛えた…なるほどいかにも女性受けしそうなピュアな恋愛小説である。(そりゃあいいとは思うけどコアなファンとしてはまあポピュリズム方向、と言いたくならないこともない。じくじく。)

で、川上弘美でも村上春樹でもそうなんだけど、作品の中で描かれている食べ物の描写が素晴らしい。児童文学の中での憧れの食べ物もそうだけど…大体、食べ物が印象的に魅惑的に描かれている作品っていうのは、それ自体が素晴らしく魅惑的なものなんである、と私は信じている。

 

だからねえ、「闇太郎」。
行ってみたかったんだよね、吉祥寺にあるんだもんね。

(モデルになっている、作品のモチーフになったというゲンジツの場面に関しては、私は実は絶対視していない。それは作品のイメージのトリガーに過ぎないし、生身の一人の人間としての作者一人の個人的な「具体」に属する要素であって、テクストとして「抽象」に投げあがられたとき、それは無数の読者個人の「具体」を生み出す母胎として、ひとつの現実にしばられるものとは別の次元に開かれたものとなっている。…でもね、やっぱり一応ね、参考にはなるワケよ。絶対じゃないよ、ひとつの手がかりね。それはつまり、岩手県とイーハトーヴォの違いみたいなもんなんだ。)

 

で、どっこいしょ。
ひとりじゃ怖いので、居酒屋慣れした友人引っ張り出して、土曜の夜の大冒険、嬉し恥ずかし闇太郎初体験。

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土曜の夜、開店早々客で満杯。

引き戸を開ければ別世界。ふわりと包まれる、あたたかさ。その独特の温もり、陰影の織りなす小さな異次元。見ず知らずの人々がほんのひととき小さな空間に集う、親密な居酒屋空間。

…コレだよ、これ。これが知りたかったのオレ。

隅っこの席に、麦酒すすりながら、ぼんやりとこのあたたかな雰囲気に身を沈め、奥の小さなTV画面眺めたリしてる白鬚おじいさんとかいたりすると、…いやもう、こういうのってたまらねえなあ。彼の人生のその禍福の末のこのひとときの味わいのことを考える。

隣の若い恋人同士、アベック(死語か…)の驚くべき善良ないちゃいちゃぶりも非常に興味深かった。カレシに甘ったれた声の可愛い女の子、カノジョがいることでしやわせいっぱいの、一般的にはあんまりイケメンとはいえないおこちゃまな男の子、二人で手を重ねて自撮り写メやるわひと目はばからずチュッチュってやってはとろけそうな笑顔で。…この先この二人が末永くって可能性の薄さを考えたりしちゃったけどね、それでも、それだからこそ、こういう人生の一コマのリアリティを感じるのってのは…楽しいものなんである。すべてを肯定できるような気持ちになってしまったりするんである。

それは、いろんな人生あってヨシ、な気持ち。かなしさもさびしさもやすらぎもよろこびも、日々さまざまに何があっても、土曜の夜のひととき、人々がこんな風に居酒屋で過ごすことのできる平和な国でさえあればいいんだ、っていうような。

 

…創業以来40年以上、親父さんが変わらず一人で切り盛り、カレ、すごい貫禄である。ここでは店主が客に愛想よく如才なくとかそういうのは気持ちがいいほど皆無であって、客が皆店主の顔色を伺ってしまうんである。イヤイヤなんというか、笑ってしまう。貫禄の力かねえ。

 

…トイレの壁に川上弘美の写真と記事が貼ってあったよ。(トイレで写真撮るヤツ。)

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あの物語の時空を一生懸命思い出しながら脳みそを居酒屋モードに合わせ、ほろほろと酔っぱらった立春の宵でありやした。

気安い友人とたくさん話して笑って、楽しかったがくたくたのふらふら。帰り道はまっすぐ歩けないレヴェルであった。記憶はすべて断片的な夢のよう、よく無事ベッドにたどり着いたもんだ。(翌日曜は声も出ずぐったり、一日じゅう宿酔いの雲の中。居酒屋行って疲労してちゃ世話ねえな。)

銀河鉄道の夜、あれこれ。

去年、友人の息子さんの読書感想文に関して質問されたことがあった。「銀河鉄道の夜」に関して。

この日の記事ね。

さっきメールの記録で探し物してたら、そのときの答えのメモがあったので、あげておこうかな、と。

 *** ***

①雁を食べたらなぜお菓子の味がしたのか。

まず、この銀河鉄道宇宙(ジョバンニの夢オチとなる幻想世界)では、すべては象徴的なものである、形而上的なるものであるとして意味を考えた方がいい。

この「鳥捕り」の意味はものすごく議論されてて、難しいんだけど、だいたいが「市井の商売人、俗人(尊敬できるわけでもないがごく普通に親切な人)」のイメージ、その象徴として登場しているという風に考えてもいいんじゃないかと思う。

ジョバンニが馬鹿にしつつ、その人の差し出したものを享受しているという後ろめたさや憐みのような気持ちの表出は、賢治が、俗人、大いなるもののことを考えず、ただ閉ざされた目の前のことだけ、ごくあたりまえに繰り返す日々を稼ぐ人々への複雑な思いを表現してる、とかね。

で、どうしてお菓子になるのか。

賢治が天上世界やファンタジー、岩手県でなく楽しいファンタジーワールドとしてのイーハトーヴォを童話として描くとき、そこの食べ物は、日々の身体が生きるための糧(穀物や肉、食事的なもの)ではなく、むしろ心を喜ばせる夢の力のたべものが選ばれる傾向がある。果物や、お菓子。

タイタニック号から乗り込んできた姉弟のシーンでは子供たちのために、ひとりでにくるくると皮がむけてパイのように食べられるりんごが出てきたよね。別の童話だけど「ひかりのすあし」での神さまの差し出す魔法のチョコレート、妹の詩をうたった詩「永訣の朝」では愛妹の魂の天国での食べもの「天上のアイスクリーム」を祈る。(異稿ね。あとから「兜率の天の食」っていうかっこい言葉になおしたりしてる。どっちも賢治らしい。)

だから、ここでの食べ物は、現実の、なまなましい残虐さをもった生き物の肉としての糧食、鳥ではなく、天の川がぼおっと凝ってできた観念としての鳥、その自然の一部としての美と恵みのイデアの部分だけとりだした心の糧として表現する。肉を食う残虐さを浄化した、肉体の原罪の持つ矛盾を超えたところにある、イデアの食べもの。純粋に甘い心のよろこびのチョコレート。(ハーゲンダッツのCMじゃないけど、「幸せだけでできている」。)

賢治の時代、チョコレートっていうのはすごく特別で貴重な食べ物で、すごいお金持ちがたまにしか入手することができない、ってレヴェル。決して日常のもの、腹を満たすための食べ物じゃない。賢治の作品の中によく出てくるよ。特別の食べ物として。


②なぜジョバンニだけが特別な切符なのか。

ズバリ、主人公だからです。

…っていったらそれでおしまいなんだけど、カムパネルラもかおる子たちも、みんな死者、或いは幻想世界の住民。それぞれ、死後の国、(あるいはそれはキリスト教の国)へ、その行き先の定められた切符、或いは鳥捕りや灯台守、他の、日々の生活に埋もれ仕事を定められた毎日を生きることを受け入れた人たちの人生を象徴する切符。

でもジョバンニが持っているのは限りなくただひたすら真実を、愛を、ただしいものを求める心、それはひたすら無限の可能性。果てない探求のための切符。死者たちを見送り、生活者を観察し、その人生を学び、それぞれの「ほんとうのさいわい」を考える。さまざまのひととその駅を見ながら学びながら真実を探りながら悩みながら現実を生きつづけなければならない者。

…っていう切符。こんな感じでどうかな。

「こいつはもう、ほんとうの天上にさへ行ける切符だ。天上どこぢゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次なんか、どこまででも行ける筈でさあ…」

ただしきものよきものを探し求める心の、そして知の力、それはあらゆる可能性に開かれた力である、と。

③本当の神様はたった一人なのか。

クリスチャンの青年とジョバンニの神さま談義があったよね。

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」

かみ合ってない。「ほんとうの」「たったひとりの」の定義が食い違っている。

クリスチャンの青年にとっての唯一神はキリスト、エホバ、創造主。
だけど、ジョバンニの神様は…否定形でしか語ることのできない、ただ、なにか絶対のもの、これ、と言ってはいけない真理、この世界を何か美しい「法(ダルマ)(論理)」で統べている、その世界の在り方そのものの「正しさ」への信仰、或いは、祈り。

これは賢治の作品から例を引くと限りないし、あんまりにもでっかすぎてここでは簡単にしか言えないけど、銀河鉄道の夜の初期形(ブルカニロ博士編)」のこのへんは参考になるんじゃないかな。(これは初期形とかいわれてる、いわゆる異稿。出回ってる「最終形」では最後のこの理屈っぽい博士んとこは削除されてる。)

「だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひ とのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがい ゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもい っしょに行けるのだ。」

「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくは どうしてそれをもとめたらいゝでせう。」

「あゝわたくしもそれを もとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そ して一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう。 水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはだ れだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだ から。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀 と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめ いめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれど もお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだ らう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。 そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉 強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考を分けてしまへばそ の実験の方法さえへきまればもう信仰も化学と同じやになる。」

あらゆる宗教のもつ美しい部分を否定することなく、その主観の相克による倫理の相対性に苦しみながら、そのレヴェルを超える、矛盾を止揚する多元宇宙(この世界モデルは仏教的)(インドラの網、と呼ばれる宇宙構造だ。)すべてを統べるイデアのレヴェルへ、その定義を、科学としての絶対の世界観を求めていたんじゃないかな。

ブルカニロ博士の最後の科白はこれ。これはさっきの切符の話ともつながってくる。少年や未来に託した祈り、のような賢治の心の熱さが伝わってくるようだ、なんて思うよ。

「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中で なしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて 行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんたうのそ の切符を決しておまへはなくしてはいけない。」

レヴィ・ストロース「野生の思考」

年末に録りためておいたのだ。Eテレ「100分de名著」。


お題がレヴィ・ストロースの「野生の思考」、解説者中沢新一、とくればこれはもう…いそいそと録画。

私は本でも漫画でも映画でも、楽しみなものほどなかなか最初のページを開くことができない、何だか緊張しちゃうのだ。好きなものは最後にとっときに、のタイプである。

で、なかなかみられなかった。

でもいつかある日には思い立たねばならぬのだ。生きてるうちにできることはやっておかねば。

よし、と思い切る。まとめてみるぞどっこいしょ。

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夜中こっそり自室にて、ちまちまと編み作業しつつ視聴。やはり面白い、そして中沢新一は相変わらずスタイリッシュで毎回いちいちお洒落である。(第一回は録画し損ねた。くやしい。)この人は実は昔「毛糸だま」という編み物雑誌のモデルなんかしてたのだ。手編みのセーターとってもかっこよく着こなしたりしてね。

坂本龍一とか細野晴臣とか見てても思うけど、いつまでもかっこいいひとはかっこいい。かっこよく年をとる。その年齢に相応しいかっこよさの歴史を積み重ねてゆく。(ちなみに今でもこの雑誌持ってるぞオレ。)

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これね。きれいな赤いセーターとてもよく似合う。

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で、番組内容である。
おもしろいな、って思ったのは、日本人の特性としての「野生の思考と最新テクノロジーのバランス感覚」、これをヨーロッパ人であるレヴィ・ストロースが見出し讃嘆していたということの指摘。

第四回、最終回。中沢新一は、彼のこの発見を、日本独自のポケモンゆるキャラなんかに特徴的にあらわれている擬人化文化と結び付けてみせた。

奇妙な俗っぽさと陳腐さと不気味なほどピュアでまっすぐな幼児性を備えて花開いたこの国の不思議な文化。日陰者サブであったのは今は昔、今日では輝かしい市民権を得て、既にジャパンイメージのメインストリームの様相すら見せている、デフォルメ系のキャラ・アニメ文化。

彼は、この発想の思考基盤を、レヴィ・ストロースのいう自然との調和やポイエーシスの考え方に共通する感覚というか、観念、両者の通奏低音としての基盤であるとするところまで敷衍してみせたのだ。

うわ、と思った。ポケモンの快楽の解釈のひとつとしてこれはとってもおもしろい。外界から取り込むことのできる「力」、自然の力を、ポケモンというかたちで翻訳している、という。

つまり、より豊かに生きてゆくために、自然の恵みをいかに最大限に引き出し安全に利用するか、という文化の原初におかれた命題とパラレルな構造を持つメタファとしての「ポケモンゲット」の解釈を提示してみせたのだ。

自然界のあらゆる場所に様々な形、能力を以て隠れているモンスターというこの世の論理の外側の「魔」力、人がこれをどのような感覚で捕まえ飼いならし利用するのか、という、その命題。(ゲームをしたことがないのでその具体的な感覚は実はわかってないんですが、まあ理論的なとこからの予測。)

 *** ***

私は、擬人化、ということについては昔から、なんか不思議だなあと思っていた、というか非常なる興味を抱いていた。

一体これってなんなんだろうどういうことだろう何故だろう?
人でないもの話もしないもの人格を持たないものを無理やり人間化する奇妙さ。何らかの人格を付与する行為。(そうやって人間的なるものとしての「翻訳」を施さなければ人間は「人間以外」を理解あるいは支配できないという感覚。)それを無理なく共有し受け入れている社会に対する違和感。

(「話をしないものの話」「言葉を持たないものの言葉」、という一見矛盾した命題は、非常に示唆的である。言葉のない深淵な世界への視野を開く。)(「言葉のない世界はどうして怖いのかしら?」というのは別役実の「そよそよ族」シリーズのコピーではなかったか?)

理由がストンとわかったような気がしたことがあるような気もするんだがそれがまたわからなくなったりしてきた謎なテーマなんである。

古今東西、神やモノ、広大な自然界の無意味な対象をすべて擬人化したかたちで理解しようとする文化は存在した。というか近代以前はそれがすべてであった。原初のアニミズムから発展した民話、童話、神話のスタイルである。近代の人間中心唯一神信仰の権威へ統合される以前の。

それらは、人間がときに過酷な自然の中で生きてゆくために育まれてきたバランス感覚、その知恵の総体としてある。

自然とうまくやって上手に生きてゆくこと、調和。
それは、自然を破壊せず捻じ曲げず、なるべく柔らかなクッション性のようなものの隙間を残した、いうなればより「自然な形」で無理なく人間の生活の便利のために利用しようとする、自然の力の人界への発露のかたちである。支配し奪い取る収奪、搾取ではなく、あふれ出てくるものをただ享受する贈与のかたち。それは、自然の力を「利用」というよりは「恵み」としてとらえる喜びのかたちである。ポイエーシス。豊穣のかたち。

今この時代、さしせまったエネルギー問題を解決しようとするために現れたエコロジーロハスといった概念がある。だがこれら新規な意匠をまとったイマドキお洒落な思想は、「オートポイエーシス」という、古来のこの思想の表層における一片の発現、いうなれば目先を変えてみせただけのバリエーションのひとつだといってもよいのではないかと思う。

自然の恵みの発露としてのポイエーシスが、それ自身(運動それ自体)に影響し(これは人間→自然への影響を意味する。)再生産(それによる自然の変容、そしてさらなる進化を遂げ人間の側へと再び贈られる、繰り返される豊穣、「恵み」。)されてゆくという運動を含んだ視野を持つとき、それは、人間にとっては、自己を含みながら、それをより巨きな生命体の一部であるように感じさせる自我拡大(或いは自我枠の破壊と別な形での再構築)の仕掛けの構図、そのイメージを孕んだオートポイエーシスへと発展する。


揺らぎながら保ち続け継続する生命の営為を描き出す「スタイル」であるオートポイエーシスは、(ロハスやエコ、という新奇な意匠)より普遍的なレヴェルに存在し、あらゆる個別の思想を規定する基盤となる。…「野生の思考」という変幻自在なブリコラージュの思考スタイルである。

それは、自然そのままではなくそれを圧倒的に優先するでもなく、人間のための素材とし徹底支配、利用、強奪しようとすることでもない。テゲテゲと、まあお互いうまくやってきましょうや、といった共存のイメージをもっている。不都合があればちょこちょこっとその都度調整する。時代と場所に応じて節操なくその形を変え削り取り建てましする。(神話や言い伝えの些末な変容とヴァリエーション。)敬虔さや畏怖に近い信仰から小ずるさを孕んだ現世ご利益、或いはいたずら者のキツネやタヌキとの化かし合いや友情、それら親しみやなれ合いにも似た通俗までの振幅をもった思考領域の自在なフレキシビリティ。(おそらくこれは経済的な贈与理論にも通ずるのではないか。)

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…で、ポケモンがその擬人化の一つのヴァリエーションだとしたら。
このようなかたちで異界の力、自然の力を得ようとするスタイルが「現代の日本的なるもの」の特徴であるとするならば、ということなのである。或いは、土地の象徴を「ゆるキャラ」というあのかたちにして現前させるのであるとするならば。その親しみやすさ、一種の俗っぽさ、陳腐さ、愛らしいアイドルや仲間としての性格を付与された、或いは有能な手下として顕れてくる、この(超)自然の力の表徴というスタイルの意味するところは?

日本独自の特色としていうならば、それは「ユルさ」。
異国の文明文化何もかもをフレキシブルに取り入れながらも、それを独自のスタイルにアレンジして取り込んでゆく、したたかなライフスタイルは、この節操のなさ、ユルさ、のようなところにその根拠を求められるのではないだろうか。

そのバランス感覚は、馴れ合いや親しみ、幼児性をまっすぐに許容しながら最先端の技術や理論を手足のように使いこなす奇妙にアンバランスな「オタク」文化の特色である。それは、世界に冠たるテクニカルなスキルの卓越と極度の幼児性の両極の共存を可能とする。人間でないモノを何もかもを擬人化(いわゆる「二次元ヨメ」的なるもののイメージもこれに相当する。)し、「○○ちゃん」「○○たん」とし、時にはそれを性的な欲望の対象として「萌え」るその愛着、親しみ。モノではなくヒトとして、仲間として愛するものとして。

付喪神として、モノに個性を、魂を見るのは、古来日本人の特性なのではないか。身に着けた着物には魂が付着し、愛された持ち物にはその魂が付着し人格が生成される…ちと怖い世界ではあるが。人格、個性、という概念自体が現代のものとはまったく異なる定義から成っていた、極めてその外界との境界線の淡い危ういものだったのだ。

現代の人気漫画では、武器に、刀に、乗り物に、果ては個々の細胞や内臓、血液型にまで人格が付与され、贔屓のキャラクターなどを競う遊びがなされている。これは、もしやその流れを汲んでいるのではないか、などと思ったりするんだよね。八百万の神(妖怪)たち。

世界を、人間の支配や利益の対象でしかない、魂を持たない無機的な「モノ」としてというよりは、仲間として大切にする、愛すべき仲間として扱う。…そんな、世界との調和のための尊重の態度に、もしかしてそれは通ずるのかもしれない。

 *** ***

自然の力を、神話化、擬人化した形で取り入れようとするという原理。

つまりこれが、ここでいう、現代に奇妙なかたちで適合してあらわれた「野生の思考」のひとつだということなのである。一つの正解をもち、定義と共通理解(一つの目的とその手段という「各論」)を前提とした論理構造をもつ「概念」としてではなく、さまざまの意味分野への拡大解釈のための揺らぎを持つ暗喩としての、「記号」。

それはまさに「概念」ではなく「記号」として対象を思考するひとつの「科学」のスタイルである。

記号はシニフィアンであり、暗喩と隠喩に満ち、それ自体は厳然とした一つの論理に片付けることができない。その意味する対象のシニフィエは定まるところなく揺らぐ広がりを持ち、解釈(文学の分野での言い方をするならば、テクストが読者によって読み込まれる読書の現場)を得てはじめて意味を生成しはじめる。抽象的な言葉の連なりから摘出される、そのときの、その時空に適応した具体が現れてくる変幻自在な可塑の論理。そしてけれど決してそれはきれいにそこにも収まりきることがなく、いつでも必然としてのアポリアを孕み、さらなるつじつま合わせの増築のなされる建築物としてのダイナミクスを孕んだ活性としての性質を持つ。…これが「野生の思考」ブリコラージュの論理なのだ。

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がっちりと構築された概念に根差した美学もいいんだろけどさ、いや確かにそれがなきゃ世界は成り立たないしつまんないだけどさ、節操がないってのが基本でな、いつでもそこ、「外側」を自覚する、その自在な思考が可能になる地点に立ち還るゆるみ、ていうかたちの知性、メタ認知っていうのかな、そういう自覚がなきゃ動きとれなくなって苦しいよな、って思うんだよな、オレ。

千と千尋の神隠し

金曜ロードショーつい観てしまった。
まあね、やっぱりなんだかんだいって千と千尋、おもしろかったですわ。
 
楽しげでわくわくするような怪しいファンタジーに満ちた街の風景、夜の世界と昼の世界の鮮やかな反転、水と空と雲と光の美しい描き方。
 
その光の色、その風景。懐かしいような切なさの、記憶の地層の最下層を切りだしてきたような奇妙に明るい永遠の真昼や薄暮(心象風景なんだな)のこの映像のことを考える。風景、そして動きの中に、リアルとは異なる表現の可能性は見いだせる、そのアニメーションの可能性を最大限に生かそうとする自覚的なテクニックの駆使されたアニメーションやCG独自の躍動感。それは物理的現実というよりは脳がとらえた意味としての動き、とでもいうべき(日常生活の中のリアルではありえない、イメージとしての躍動感。スピードとか人物の動きとかね、夢の中の、脳内で翻訳されたものの再生産、…意味のレヴェルなんだよね、言わば印象派としての動き。いわば現実ではない真実。この躍動感に関しては、ディズニー映画に如実だけど。)
 
銀河鉄道のモチーフが、銀河を水によみかえて再現されてるんだ、と思ったり、ハウルのイメージ(「ハウルの動く城」)と通じるハクの飛行や闘いや、魔法や力を求める若者のイメージ、その残虐な代償の描き方の意味するもの(監督の思い入れ、メッセージ色の濃いもの。)感じたリ、千尋結局ナウシカやん、とか思ったり。(カオナシに「森(おうち)へおかえり、」的なことを言う。)(あるべき場所へいるべき場所へ正しいところへ帰りなさいっていうのは宮崎駿のテーマなんかしらねい。)(「力」を求める若者の過ちの大きすぎる代償による寂しさや破滅は、ソフィーや千尋、女性の愛の力によって救われる、というお約束なテーマが宮崎駿アニメーションなのかもしれぬ。)そして、古来の日本のもののけたちの魅惑的な存在感、これらプレテクストの折り込み方。
 
銀河鉄道的な読み込みで言えば、片道切符の銭婆への家の道行きは、異界(「ムコウガワ」異次元、或いはそれは死の世界。)への旅。いや、さらに言えばそれはここでは、人間界ー妖怪たちの世界、という単純な二項対立の地平をも突き抜け超えてゆく、第三項としての「その外側」を志向して走り続けるメディアの可能性を示す構造となっている。
 
沼の底、行きついた果て、あの銭婆のおうちにみちる静かな死後未生の世界のイメージ。それは、世界以前のカオスに近いところにいる母(祖母、母の母、大いなる母の胎内のイメージがある。)の下にある安らぎ感。
 
…このイメージの連なりの構造は確かエンデの「果てしない物語」にもありましたな。物語の結末近く、何もかも忘れ失い疲弊した敗残をさまよい、もといた世界へ戻る方法を探すバスチアンが、束の間、「アイゥオーラおばさま(「変わる家」の主、植物の精のような女性、その身体は常に生きた植物に覆われ、花に覆われ、果実を実らせ、疲れた子の飢えを満たし無償の愛で包む。バスチアンのすべてを肯定する。安らぎの「母」だ。)」のもとで甘やかされ愛おしまれることで生きるための気力、何か、愛への思い、のようなものを得てゆく章があった。だがそれはやはり束の間の休息。変わる家は人を変え、送り出す運命の場所。そのままとどまり停滞する場所ではない。死と再生の場所。)
 
これを初めてDVDで観たときの感想、ここにアップしていた。(大昔だぞなもし。)やっぱり今ではこんな簡単なとこだけではなく、そして少し違う考えかも、とか、もっともっといっぱいいろんなことあるよな、と思ったりする。

千と千尋の神隠し1

ドライ・マティーニ

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土曜日撮った写真である。
地上43階のバーで夜景とジャズとドライ・マティーニ
 
こんなとこに連れてきてもらってアラびっくりでなんだかびっくりで。
 
楽しかった。(そうなのです。不思議に楽しかったのです。夜のキラキラ。ほんにありがとございます。<私信)気分はなんとなく春樹の小説であった。
 
なんだかそのときは言えなかったけど、普段メニューの選択にはすごく迷う自分が即断したこのカクテルのチョイスには実は理由がある。(「これにします。これをワシが選んだのはですね、云々…」などとこんなとこではじめたらなんだかヒジョーにこうるさい人間なような気がしたのだ。)(そういう人間だけど。)
 
森雅之の「リリックス」という漫画にでてきて、ずっと憧れだったのだ。こういうバーでマティーニ頼むのって。
 
「エスキモーズ・キッス」っていうお話。(今探し出して読み返した。)マティーニ飲みながら、その味のイメージの物語を考える作者。
 
北極の寂しい人魚がある月夜に寂しさに耐え切れず浮き上がり、水面に映った月影にキスしたら月影が砕ける。その光のカケラが流れ流れて、釣りをしていたひとりのエスキモーがそれをすくい飲んだ、その味がマティーニっていう、そういう話な。
 
最後のオリーブの話までちゃんとあるんだよ。(だからちゃんと最後まで食べた。)(しょっぱかった。)
 
この最後までが素敵なお話である。
この風景を飲み干すのに、この酒がグラスに映し出した光の色にふさわしい。
 
おやつとか嗜好品っていうのは、日々の身体の糧ではなく心が夢を食み育むための糧なのだ。どんなにあじきない時代や奇妙な時代や残虐な場所の世の中でどんなかたちであらわれても、物語は、人がひとときしがみつく安らぎの夢は、うつくしい世界への意味あれよかしの祈りの凝りであって、それは誰にも非難されなくていい。
 
五感第六感総動員で精一杯光の酔いを味わうことは、さまざまな物語で味付けすることは、そのまんまオリジナルな創造行為だと自分は思っている。その時間は自分の中でかけがえのないものだし、そのことをきちんと感じることが宗教で言えば神を賛美することであるということであってだな、…大げさだな、でも大げさだろうと小げさだろうとそれはそういうものなんだ。
 
ねむいねむい。
森雅之読み返したら懐かしくなった。この漫画をプレゼントしてくれた人のこととそのころの時間を思いだした。大昔だ。当時好きな話があったけど、やっぱり今でも好きだった。オレ成長ないな。
 
さて今夜もおやすみなさい世界。